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第38話 キャラメルと少女
しおりを挟む正道院で菓子を販売し出したものの、エレノアたち貴族研修士ヴェイリスはそこに携わることがない。
市井の人々と職務でかかわるのは平民研修士ラディリスたちなのだ。
グレースもまた、マドレーヌやラスク、ジャムといった作成と販売をリリーたちと共に行っている。
内心ではそんな彼女たちを羨ましく思っているエレノアだが、グレースたちから人々の菓子の反応を聞くことは彼女にとって楽しみの一つでもある。
そしてグレースは菓子の販売中に、ある少女から相談を受けたというのだ。
「先日、小さな女の子から聞かれたんです。『体調の悪いお母さんでも、食べられるお菓子はないか』と」
「体調の悪い方へのお菓子……」
現在、聖リディール正道院で販売しているのはマドレーヌにラスクに、ジャムである。この中で、体調が悪くとも比較的食べやすいのはマドレーヌとジャムであろう。
硬く水分の少ないラスクは不向きである。
であれば、マドレーヌやジャムが良いはずだ。
「その、言いづらいのですが、お金の方がお子さんですのであまり……」
「お値段的にはラスク程のものがいいってことよね」
「……はい。すみません」
自分自身のことではないにもかかわらず恐縮した様子のグレースだが、訪ねて来た少女のために親身になれるのは研修士としては美点だ。
買い求めやすいものをとラスクを販売しているが、確かに硬く食べづらい。
かといってマドレーヌやジャムは砂糖もバターも多く使い、それなりの値段になってしまうのだ。
「柔らかく、食べやすくって廉価な菓子ね……」
ぽつりと呟き、少し上を見上げたエレノアの様子にグレースは断られる覚悟をした。そもそもが無理な相談なのだ。
だが、それでも母を案ずる少女の様子に、話だけでもエレノアにしてみようと思ってしまった。
「聖なる甘味」を復活させ、この正道院の風通りを良くした彼女をつい頼ってしまったことをグレースは反省する。
「面白い発想だと思うわ」
「…………はい?」
目を見開くグレースに、嬉しそうにエレノアは何度も頷く。
「ラスクが硬くって、持ち運び出来て廉価な菓子なんだもの。食感が違うものがあってもいいわよね! 正道院に通っている子なら、正道院で販売できる菓子にしなきゃいけないわ。前回の依頼が個人の方だったし、今回はその子と正道院のためのお菓子にしましょう!」
予想外のエレノアの反応にすぐ返事が出来ずにいるグレースだが、エレノアの方はもうすっかり乗り気である。
どんな菓子がいいのか、素材や食感はどうするべきかとあれこれグレースに話しかける。まだ依頼を引き受けて貰った実感のないグレースだが、嬉しそうに菓子を語るエレノアの姿にじわじわと胸に熱い思いが込み上げてくるのだった。
*****
「食べる人の負担にならない菓子か……」
ぽつりと呟いたエレノアは貴族用厨房で菓子作りを眺めながら考える。
自室で悩んでいても良い考えが浮かばず、こうして平民研修士ラディリスが正道院用の菓子を作る厨房へと訪れた。
厨房の端のテーブルで一人悩むエレノアに、アレッタが声をかける。
「どうしたんだい、お嬢さん。可愛い顔がこんなだよ?」
「アレッタさん、体調の悪い方でも食べやすいものって何かしら?」
「体調の悪い人が食べやすいものかい?」
「ええ、次の依頼がそういう菓子なの」
自分の眉間をちょんちょんと突いて、エレノアの表情を指摘する料理人のアレッタにエレノアは尋ねる。
少し考えた様子のアレッタだが、話し出したのは自身の経験だ。
「あたしの母親が病気になったときは、柔らかい物や飲み込みやすい物を作っていたねぇ。ほら、そういった力も弱くなるし、食事に体力を使うと途中で食べるのがしんどくなるだろう」
「確かに、体調が悪いときは食べるのも疲れるわね」
食べる人に負担がない方が良いということは咀嚼や嚥下することも考えねばならない。ふっくらと柔らかな菓子であっても、喉に詰まることもあるだろう。
少女の母の病状はわからないが、どんな人でも食べられる、負担の少ない者が好ましいはずだ。
アレッタは他にも気付いたことがあるようで、エレノアにアドバイスをする。
「あとはそうだねぇ。栄養があるのはいいんだけど、あんまり胃が膨れると肝心の食事が出来なくなるっていうのも、重要かもしれないね。……なんだか、厄介な情報ばかりばかりでお嬢さんを却って困らせちまってないかい」
余計なことを言ってしまったかと気遣いを見せるアレッタだが、エレノアとしては有益な情報ばかりである。
食べやすさは考えたが、食事を摂れなくなるようなボリュームのある物ではいけないという視点はエレノアにはなかったものだ。
正道院で今、販売しているラスクは軽食代わりになると人気である。
だが、今回はその逆の菓子を求められているのだ。
「ありがとう。おかげで菓子のイメージが固まりつつあるわ」
「そうかい、よかったよ。無事に依頼が終わるといいね。ああ、そうだ。お嬢さんにね、良い物があるんだよ。菓子作りに活かせるんじゃないかい?」
そう言ってアレッタが持って来たのは黄金色に輝く瓶である。
色合いやほんのりとした香りで、エレノアにはそれが何かピンとくる。
以前、グレースが正道院の説明をしたときにも聞いていたことだ。
「これは、ハチミツ?」
「そうさ。他の正道院で養蜂を行っているらしくってね、分けて貰ったらしいんだよ。なかなかに質の良いハチミツでね、菓子に活かしてみたらどうだい?」
「ありがとう! アレッタさん」
「いいんだよ、頑張りなね」
そう言ってアレッタは仕事へと戻っていく。
今日も貴族用厨房では正道院で販売する菓子を皆が作る。
ひたむきなその様子にエレノアの口元も緩む。
彼女たちが懸命に作った菓子は、正道院へ訪れた人々を笑顔にするのだろう。
その姿を実際に見ることの叶わないエレノアだが、少しでもそこに関われることに喜びを感じるのだった。
*****
「本当に、本当にお願いを引き受けてくれたの?」
「えぇ、クレア。お母さんが食べられるお菓子を今、考えてくださっています」
正道院の菓子売り場に訪れた小さな女の子の前で、グレースは柔和な笑みを浮かべる。驚きで目をまんまるにする少女の前で、しゃがみ込みながらグレースは頷いた。
だが、驚いたのも一瞬で、すぐにクレアは困った表情に変わる。
そんなクレアにグレースはそっと尋ねた。
「どうしたのですか?」
「あのね、お金がそんなにないでしょう? だから、その……」
「ええっと、そのことは私からご相談しました」
「なんて言ってたの? 怒ってた?」
心配そうなクレアの小さな肩を両手で優しくとんとんと叩くと、グレースは頷く。
同じような思いを抱きながら、グレースはエレノアの前に立ったのだ。まして、幼いクレアであれば、不安もひとしおであろう。
エレノアの人柄を知るグレースでさえ、無理な注文ではと悩んだのだ。
クレアの緊張が少しでも取れるようにと、グレースはそのときのエレノアの様子を正直に伝える。
「その方は、お話を聞くと『とても興味深い考えね』そうおっしゃいました」
「…………それは断られているんじゃない?」
年齢以上に聡い少女は言葉には様々な意味があることを知っているらしい。
その言葉にハッとした純粋なグレースはぶんぶんと首を振る。
高位貴族であるエレノアだが、そういったニュアンスを言葉に込めることはしない人物であるとグレースは感じていたからだ。
「いえ、それだけではありません! その御方ははっきりと『その子と正道院のためのお菓子にしましょう!』そうおっしゃってくださいました。ですので、あなたが望んでいたお菓子を今、考えてくださっているんですよ」
クレアの不安を払拭しようと、グレースは懸命に彼女に話しかける。
すると、強張って硬くなっていた小さな肩からは、ふっと力が抜けた。
「あのね、ここのお菓子を皆、美味しいって言ってるの」
「……ええ」
「ラスクなら、皆で買えるからって分けたりしてて。でもね、お母さんが食べるには硬くって、仕方ないなって思ってた」
「……ええ」
「だからね、考えてくれるだけでいいよ」
クレアの言葉に驚き、グレースは彼女の様子を見つめるが、その表情に大きな変化はない。
ただ、じっとこちらを見つめるクレアに戸惑うのはグレースの方だ。
依頼を引き受けたことを伝えれば、彼女は喜んでくれる。
グレースはそう信じていた。
「私の話をちゃんと聞いてくれる人がいたから十分。その人を困らせるのは嫌だから。お姉さんもありがとう」
初めから自分の望みは無理なことだとクレアは知っている。
正道院で販売するにしても、利益を出すことが必要なのだ。
ラスクとは違い、クレアの必要とする菓子は限定的なものであり、正道院では販売するメリットが少ない。
そのうえ、十分な費用をクレアが出せるわけでもないのだ。
子どもである自分の話を真剣に聞いてくれる大人がいた。その結果だけで満足だと、クレアはそれ以上を望まない。
子どもらしからぬ反応に、クレアが期待をして失望してきた経験が多くあるのだとグレースにも感じさせた。
去っていく小さな背中を見つめ、何も出来ぬ自分に歯がゆい思いを抱きながら、グレースはただただクレアを見送るのだった。
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