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もし
もしかしたら、こんな未来。
しおりを挟む「……あの頃のわたくしたち、あんなにも、子供だったのですね」
息子が十八の誕生日を迎えた日、妻がぽつりとつぶやいた。
成人を迎えたのは二年も前で、子供というにはいささか大きい。息子はもう体格は私と変わらぬ物となり、己の将来を見据え、世界を広げている立派な青年だ。
息子の誕生日を祝っているこの広間で、主役として挨拶に回る息子の姿は、年の割に堂々とした物である。
息子が友人達と企画したこのパーティーは、息子の友人関係が多い物の、私の知り合いなども多い。彼の人脈はもう侮れないほどになっているのだろう。子供が催したパーティなどとは言えないほど立派な物だった。
息子の成長は目を見張る物がある。
妻と会場の隅で一息つきながら、少し離れてその様子を眺めれば、なおのことそれがよくわかった。
それでも、あれから二十年という年を重ねてきた私の目から見れば、やはり、まだ子供に見えるのも確かだ。大人びた言動をしていても、その感性はどこか幼さが抜けきらず、目先のことにとらわれやすく、視野も見識も狭い。周りから、立派だ、さすがだともてはやされるくらいにはしっかりしていても、ひよっこだと言うことには、変わりない。
あの頃の私は、自分は何でも出来ると思っていた。そう思ってしまうほどの力があり、才覚があった。ちょうど、今の息子のように。
それが世界の狭さ故の錯覚だと気づいたのは、ずっと後だ。そしてそれに気づくきっかけは、あの悪夢のようなあの日だった。
あの日以降も自分の力ではどうにもならぬ出来事を何度も経験した。己の智の及ばぬところで起こる出来事に、何も出来ぬ自分の不甲斐なさを思い知らされた。煮え湯を飲まされるような出来事も、幾度か経験した。
この年になってもまだ、己の智も力も経験も及ばぬ事は数限りなくあるのだと、思い知る。
胸の内をよぎる感慨に一瞬心を奪われ、ふと我に返ってみれば、隣で妻が穏やかに微笑んでいた。
「……ずっと、ずっと、抜けきらないわだかまりがありましたのよ」
「ああ」
息子を見つめたまま、妻は静かに話す。その言葉の重みを私は知っている。けれどうなずくぐらいしか返す言葉はなかった。
「お母様がおっしゃってました。いつか、許せる日が来る、と。……ずっと、あなたが後悔を抱え続けているのを知っておりました。でも、夫婦になってから、あなたが役職に就いたり、子供が生まれたり、毎日が慌ただしくて、あの日のことを話すこともないまま来てしまいました。それを言い訳に、あの出来事に触れたくなくて、蓋をし続けていました。わたくし自身、仕方がないと心から思えるようになっていても、許したと言うには、何かが引っかかっていたかもしれません」
「ああ」
「……あなたは、十八でした」
妻がまぶしそうに息子を見つめる。彼は、私によく似ていた。
「……あの頃のあなたは、世間に飛び立ったばかりの、たった十八の、子供だったのですね」
妻の声が震える。少しうるんだ瞳を私に向けて、けれど彼女は微笑むのだ。
「あなたは、いつもわたくしの先を行くばかりで、わたくしはいつもあなたに護られるばかりで、あなたに出来ぬ事はないと、思い込んでいたのかもしれません」
途切れた言葉の後、妻が覚悟を決めたように、深く息を吸った。
「遅くなってごめんなさい。もう、子供の頃の過ちを、どうか引きずらないで。あなたは過ぎるほどに償ってくれました。悔いてくれました。今まであなたに枷を背負わせ続けて、ごめんなさい。でも、捨てることなく背負い続けてくれて、ありがとう。もう、大丈夫です。どうか、もう、下ろしてくださいませ」
全てを言い終えると、妻は震えながらうつむき、私に寄り添い身を預けてくる。そんな震える妻の肩を抱き、こめかみに口づければ、彼女は隠れるように胸元に顔を埋めてきた。
その姿に、愛しさがこみ上げる。
「……私は、一生背負い続けても良いと、思っているよ」
私の言葉に、妻は小さく悲鳴を上げて、縋るように私を見上げてきた。
「そんな……!」
苦しげな表情の彼女を落ち着かせるように肩を軽くたたくと、私は微笑んだ。
「下ろしたいとは、特に思っていないのだよ。それを超えるほどの物を君からもらっているんだ。思い返せば、いくらでもある。……君がわだかまりを抱えながらも、私を愛していると言ってくれた。君が泣きながら私を責めた後、「あなたもどうしようもなかったのに、ごめんなさい」と、やっぱり泣いて謝ってくれた。こらえきれずに君に懺悔する度に、君はそれでも私を愛していると言って私を包んでくれた。そして、共に生きることを選んでくれた」
目に涙をためる妻に、これまでの日々を思い返しながら語りかける。
「共にいることで余計に傷ついたこともあった。きっとそれは君も同じだっただろう。それでも、君は離れることなくそばにいてくれた。……わかるかい? それだけで私は、過ぎるほどに報われているのだよ。あの日の事を君に一生責められ続けたとしても、かまわないと思うほどに」
「……馬鹿な人」
泣き笑いになった妻が私を責める。そこには間違えようのない愛情がこもっていた。
「好きに笑うがいいさ。私は十分に幸せなんだ。君を愛し続けていられる、それが当たり前に許されるという事が、かけがえのない幸福なのだと知っているからね」
妻がしがみつくように身を寄せてくる。
「……わたくしも、幸せですわ。あなたと過ごしてきたこれまでの日々に、何の悔いもないほどに。苦しみも、悲しみも、過ちも、後悔も、今まで積み上げてきた幸せのためには、どれもが必要だったと思うのです。何一つ欠けても、全てが良かったと思える今の幸せは、なかったと思うのです」
あの悪夢の日々。それは、あの頃の私では、太刀打ち出来ない事だった。
振り返ってみれば、それがわかる。
けれどあの頃の自分ではそれを知りようがなかった。だからこそ苦しんだ。どうすれば良かったのかと過去を悔やんだ。婚約者の泣き顔を思い出しては罪悪感にさいなまれた。
何気ないため息やほんの少し機嫌の悪い態度がわずかでも出てしまう度に、それに関係のない彼女がびくりと震えるのを何度も目にした。その度に彼女の傷の深さを突きつけられ、己をさいなんだ。
互いに、どれだけ傷ついただろう。
それでも離れる事は出来なかった。
離れた方がきっと楽だった。その方が緩やかに傷を癒やして行けただろう。
けれどその決断だけはどうしても下せず、その度に、私はどれだけ彼女を愛しているのかを知った。
私の言動で傷つく日々を送った彼女には、許したいのに許せない気持ちも相まって、ただ許しを請うばかりの私よりも、ずっと辛かったはずだ。
けれど、彼女はそれで良かったというのだ。それらの苦しみさえも、悔いたことはないと。互いを想い合える今は、その苦しみの上に築いていったからこそ、あるのだと。
「愛している」
それ以上言葉にならず、震えそうになる声を抑え、ようやくかすれるような声でささやけば、「私も愛してます」と、やはりささやくようなかすれた声が耳に届く。
「父上! 母上!」
あの頃の私と同じ年になった息子が、笑いながら歩み寄ってくる。
「主役の息子をほったらかしにして、また二人の世界ですか? 毎日毎日、飽きない物ですね……」
呆れたように肩をすくめた息子は、「会わせたい人がいるんです」と少し照れくさそうに隣の女性を私たちに紹介をした。
緊張の色も濃く、頬を染めて挨拶をしてくる愛らしい女性に、私たち夫婦は笑みを浮かべて彼女を迎え入れた。
赤い、狂気にまみれたあの日の記憶は今はもう、遠く色褪せた。消える事のない記憶と後悔はある。きっと一生心に刻まれたままとなるのだろう。けれど、確かに重ねた時の数だけ、褪せていくのだ。
代わりに、鮮やかな幸せの色が深く深く積み重なって、爪痕を覆い隠してゆく。
妻が幸せそうに微笑む。子供達が朗らかに笑う。その輪の中に私はいる。
幸せは、ここにある。
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