ヒロインは嘲笑う

真麻一花

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 悪夢のような時間だったと、後になって思い返す。何度も何度も、思い出しては苦しさが胸をよぎる。

 彼女は、……クレアさんは、家であまり良い待遇を受けていなかったらしい。彼女の狂気の一端はその生い立ちでわずかに垣間見えた物の、けれど、何が彼女を駆り立てたのかまでは、最後までわからなかった。

 アンドリュー様はじめ、他の皆様は、クレアさんの自死後、すぐに回復していった。

 侯爵令嬢が後に、教えてもかまわない範囲で、と、教えてくれたことがある。
 血を使った傀儡の魔術は、術者の死亡によって切れるということ。長らく思考範囲を狭められていた後遺症で、しばらくは思考能力の回復に時間はかかる物の、日常生活にはさほど支障がない状態に数日で戻るということ。

 そして、血を使った魔術で、なぜ簡単に傀儡にされるのかということ。

「最も愛しい異性を、術者に対して、投影しているのだそうですわ」
「投影、ですか?」

「愛する相手をすり替えられている、ということです。ですから、術も相まって、心底彼女を愛している錯覚に陥っていた、ということですわ。そして、目の前で愛していると思い込んでいる女が死ぬ瞬間を見たのです。その一瞬の絶望は、どうしようもない心の傷となるだろうとのことですわ」

「でも、術は解けたのでしょう……?」

「そう、術がすぐさま解けたからこそ、なおたちが悪いのですわ。愛してもない女を愛していると思い込み、盲目的に愛した素振りを見せた自分自身を覚えているのですもの。どうしようもない不快感はあるというのに、死んだのは不愉快な罪人だと理性ではわかっているのに、心が、愛した人を失った痛みをきざんでしまっているのだそうです。皆が一様に、彼女のことを心底憎み、消えない絶望を抱えた自分自身を恥じて悔いていらっしゃるようです。まるで呪いのよう……彼女の最後の言葉が叶ったようで、悔しいですわね」

 侯爵令嬢はそう言って、重いため息を吐いた。
 クレアさんは、あの時そこまで考えて死んでいったのだろうか。考えたところで、今はもう、それを知る術はないのだけれど。




 全てが落ち着き、二ヶ月が過ぎた頃、ようやくアンドリュー様は「保護」という名の隔離から解放された。

 彼は、伯爵と各所への謝罪や挨拶に回る前に、一番にわたくしの元へと来て下さった。
 そして、わたくしの手を取り、何度も謝って下さった。

 彼女に心酔していた期間でも、彼はわたくしに会う度に違和感を覚えていたらしい。けれど、考えようとすると、意識が薄れて何を考えようとしていたのかわからなくなっていたのだと。

 仕方のないことですもの。
 私は何とか微笑んで、首を振って見せた。
 あの時の切なさはなかったことにはならないけれど、それでも、抗いようのなかったことだとは、思っている。

 いや、と彼が苦しげに首を振った。記録では血の魔術に打ち勝った人間もいるのだと。打ち勝てなかった自分が情けないと、彼は苦しげに頭を下げた。フェリアを傷つけてしまった、すまない、と。

 そんな話、知りたくなかった。だって打ち勝って欲しかったと、心がきしむ。でも、それを口にすることは出来ない。きっと一番苦しんでいるのは、抵抗すら出来なかったアンドリュー様だ。

「それでも君を愛している」

 アンドリュー様がわたくしに懇願するように、そうおっしゃった。初めてもらったその言葉に、心が震えた。

「私が投影した最も愛しい女性は、フェリアだった。フェリアへの愛おしさを、ずっと抱いていた。私が愛しているのは、君だ。どうか、婚約を破棄しないで欲しい」

 あの辛かった日々は、なかったことには出来ない。でも、やり直すことは、出来るだろうか。
 やりきれなさの中に、ほのかな期待が混じる。
 わたくしは彼に手を握りしめられたまま、「はい」と小さくうなずくことしか出来なかった。




 今回の出来事は、秘密裏に処理されて、詳しいことを知るのは、当事者のみとなった。
 少しずつ、クレアさんのいなかった日常が戻ってきた。
 アンドリュー様は以前よりずっとわたくしに優しくなった。愛していると言って下さるようになった。
 以前より精力的に働くようになった。学園内での評価も戻ってきた。

 けれど、彼から冷たい言葉を向けられ、築いた信頼をなかったことにされ、他の女性を大切にする姿を見せられたあの時間が、わたくしの心を沈ませる。
 うまく心の整理がつけられずにいるわたくしに、ある日お母様が隣に座るとゆっくりと話しはじめた。

「きっと、アンドリュー様のお年では、その呪いに打ち勝つのは不可能に近かったと思うわ。打ち勝ったという人は、アンドリュー様より十も年上で、しかも今よりも大変厳しい時代に生きていた方ですもの。心身共に、鍛えられ方が違っているはずよ。

 それよりも、フェリアに会う度に混乱を起こしていたというのは、それだけあなたを思っていたと言うことではないかしら。それは、彼も、あなたも誇って良いことだと思うの。

 今すぐ許して差し上げなさいとは、言わないわ。
その代わり、たくさん悩みなさいな。時にはアンドリュー様を責めて、そして、過ぎたと思ったなら反省をなさい。

 心から許せるのは十年先になるかもしれない。もしかしたらあなたたちに子が生まれて、あなたたちぐらいの年になる頃になるかもしれない。けれど、その頃になれば、必ずわかるわ。心から、仕方のないこともあるんだって。許せる日が来るわ。その時にはきっと、悩んだことも、苦しんだことも、責めたことも、悔やんだことも、全てが自身を作る大事な糧だったのだと思えるようになるわ。……それまでは、たくさん、悩みきってご覧なさい」

 と、ひどいことを、お母様は笑っておっしゃった。

「過ちを犯さない人間はいないわ。責めて責められ、許し許され、悔やみ悔やまれ、そうやって愛情は築いていく物よ」

 そうは言われても、あの苦しみの日々を心から許せる日が来るとは、今はまだ思えない。

 それは、クレアさんの呪いのようで、悔しいけれど。

 曖昧にうなずいたわたくしにお母様は柔らかく微笑んで、幼子にするような仕草で、わたくしの髪をそっと撫でた。

 わたくしとアンドリュー様の中に、歪に残る、彼女のつけた爪痕。

 お母様のおっしゃるように、二人でこれから先も歩んでいくことで、消していけることが出来るだろうか。傷跡を、若かったのだと二人で笑えるような日が来るだろうか。
 今はまだ、わからないけれど、それでもわたくしは、これから先も彼と共にいられたらと、願う。

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