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1 獣人の世界
しおりを挟む「ミーナ! 飯は?!」
ドアを開けると同時に家を揺るがしたガウスの声に、「まだだよー!」と応える。
あれから七年が経った。
この世界に落ちてきた時は十歳の子供だった私だけど、今は、この世界ではもう成人した大人だ。
この世界は、人間にとってひどく厳しい場所だった。ガウスに拾われて何とか生きているけれど、きっと彼に捨てられたら瞬く間に死んでしまうほどに儚い生き物だ。
地球で……日本で生きてた頃の生活は、天国だったと思う。それが当たり前すぎて、この世界に来た時は荒廃した絶望の世界にしか見えなかった。食事を当たり前に取れるということは裕福なことだと知った。安心して眠れる場所があるのは、幸運なのだと知った。学問を学べるということは奇跡的なほどに恵まれていることなのだと知った。
この世界において守り手を持たない弱者は、いつ殺されるのかと震えながら眠り、這いつくばって食べ物を探し、命と食べ物を乞うしかないのだ。強い者に虐げられ、「当たり前に生きる」権利などなく、それを振りかざすのは力ある者のみ。弱い者は目先のことだけ考えて無知なまま這いずり回って生きていくのが普通なのだ。弱者に権利などない。惨めに脅えながら、何をされても文句一つ言えないまま生きていくしかないのだ。
私は虐げられる弱者を横目に、ああならなくてすみますようにと祈りながら生きている。彼らは、ガウスに捨てられたときの私の姿だから。
あの日、私はガウスに拾われた。目が覚めるとガウスの家にいて、どうやら狼に囲まれていたところを彼に救われたらしい。
曰く、落ちていたから、拾った、と。
私が知っている事実はそれだけだ。
役に立たないひ弱な子供を彼がなぜ拾ったのかは未だにわからない。でも私はあれから七年間、捨てられることなくガウスに庇護されて生きている。
肉をかまどに入れたところで、直ぐそばにまで近寄ってきたガウスにべろりと首筋を舐められる。
それから抱きしめられてグリグリと頭をこすり合わせるのを好きにさせる。
これは、マーキング……臭い付けの行為だ。私が、ガウスの所有物だというあかし。私にはガウスが付けているという臭いはよくわからないけれど、これはこの世界でとても重要な意味を持つ。
あれはガウスに拾われて間もない頃だった。暑くて水浴びをしてから外へ出た時のこと。少しこの世界になれて、町並みも覚えて、言葉はあまりわからないけど片言ならしゃべれるようになって、ちょっとした買い物なら出来るようになっていた。だから、いつも通りの買い物のつもりだった。
買い物する時に、肉屋の熊耳のおじさんに何かを聞かれた。「ガウス」がどうとか言ってたから「ガウス、しごと。わたし、ごはん、じゅんび」と答えていつものように買い物をしたら、おじさんは少し困ったような顔をしていた。
顔見知りの獣人達はそろって似たような反応を返してくる。不思議に思いつつも、言葉はよくわからない。でも私を見た見知らぬ獣人達が微妙なよくわからない反応をするのはいつものことで、人間は珍しいのだろうとあまり深く考えなかった。
その瞬間まで、私はこの世界を侮っていた。一人でいる時でさえガウスに守られていたことを知らなかった。
その帰り道、私は見知らぬ獣人に襲われた。
後で知ったことだけど、獣性の強過ぎる獣人は、獣性の弱い者の血を本能でほしがるらしい。弱肉強食の世界で獣性の強さはそのまま強さと比例する。でも強すぎると今度は人の形から遠ざかってしまう。そうなると理性、知性、器用さと言った人の気質が薄れ獣人の世界では不利となる。だから、人の血の濃い弱者は獣性の濃い強者に蹂躙される。理性の低い、けれどとても強い獣人によって、いとも簡単に。
私はそのとき、見知らぬ獣人に連れ込まれ、無理矢理に犯されそうになっていた。暴力を振るわれ、痛みと恐怖で動けなくなって、服を破かれ悲鳴を上げたその時、ガウスが窓をたたき壊して救ってくれた。
店のおじさんが私に臭いがあまり付いてないことをおかしく思い、ガウスに知らせてくれたのだと後に知った。
ガウスは強い。強い獣人の臭いは、町の者なら誰でも知っている。その臭いが付けられていたから、私はガウスの所有物と認識されて襲われることがなかったのだと、その時になってはじめて知った。
いつも受ける見知らぬ獣人達の視線は、ひ弱な人間の私に強い獣人の臭いが付いていたから。今日の顔見知りの獣人達の視線は、私にいつものガウスの臭いがほとんど付いてなかったから。
獣人の町にも秩序はある。弱いからと言って襲うような者がそうそういるわけではない。特に群れを作る習性のある獣性を持つ者は、弱い仲間を守るから、そういった意識や牽制が一方的な弱者への蹂躙を抑えている。それに、だいたい弱者には強者の護りがあるのが一般的だ。
ただ、むしゃくしゃしていたからと簡単に暴力を振るうのが比較的普通のことで、その一環として弱者への無体が比較的多いのだ。
私の知っている「ケンカはいけません」なんて言う日本の常識が打ち砕かれるぐらいには、それが常識だった。私がこの世界では生きていけないと感じるぐらいに。しかも弱くても獣人なら耐えられる暴力でも、私の体では大けがとなる。それは身をもって知った。
けれど、強者の臭いが付いていれば、大抵のトラブルはそれで回避される。町中を歩いていても全く問題がないぐらいには。
ガウスに救われた後、私はガウスにしがみついて涙が涸れるほどに泣いた。
助け出した直後はいきり立って私を怒鳴っていたガウスは、折れた腕を必死に動かしてしがみついて離れない私に困惑して、落ち着くまでずっと抱えたまま、後はひたすら慰めてくれた。
ガウスだけは安心して良い場所なのだと既に私にはすり込まれていたけど、この時それは絶対の物になった。
それからしばらくはガウスのそばを離れることができなかった。そうでない時は家の中にこもった。
家をまた一人で出られるようになったのは、ガウスが何度もしてくれた説明がようやく意味を持って理解出来てからだ。
だから私は、ガウスが臭いを付ける行為を止めることはない。ガウスが私を大切にしてくれている証拠でもあるから、うれしいとも思っている。
肉食系の獣人が多いこの町では、獣性の強い者が多く、その獣の性質は一目でわかる物が多い。
耳であったり、しっぽであったり、体毛であったり、牙であったりと獣の性質が体に出るのだ。
強い者ほどその性質が顕著に表れる。顔立ちがほぼ動物に近い者や手足が獣じみた者までいる。
その点、強いと言われているガウスは、どっからどう見ても、全くの人間だった。見てわかるような獣性がないのに、とんでもなく強いらしい。
実際、私を襲った虎の獣人は顔も手も虎に近い物だったぐらい強い獣性を持っていたのに、ガウスによっていとも簡単に捕まえられた。
人間なのかと聞くと違うという。じゃあ何の獣人なのかと問うと、それは秘密だと笑った。七年もの年月を一緒に過ごしているというのに、未だ何の獣性を持っているのかも教えてくれない。
ニヤニヤと笑って躱されるのだ。
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