綱渡り

真麻一花

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王子

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「最近、ずいぶんとほっそりしてきたね」

 私は聖女の手を取った。彼女は不思議そうに微笑むと首を少しだけかしげた。
 最近、彼女の様子が少しだけ変わった。穏やかになったというのだろうか、どこか儚げで洗練されたような空気を醸し出すようになった。 

 良い傾向だ。くだらないことに声をあげて笑い、些細なことで動揺し、甲高い声でくだらない話を垂れ流すばかりの態度には辟易していた。以前の落ち着きのない様子では、私の隣に並ぶのにふさわしくなかった。
 肉付きのよすぎた身体も見られた物ではなかったが、これならまだましだ。ベールでもかぶせておけば地味な顔も隠せるし、聖女の神秘さも出せるだろう。
 淡いほほえみを浮かべて、落ち着いた様子で言葉を交わす彼女に私は満足していた。
 これならもう少し教育すれば、それなりに「王妃」としても使えるようになるだろう。

 彼女に起こった小さな変化を、私はこの時まだ、よき変化と捉え「なぜ」なのかを考えることすらせずにいた。
 彼女はこの国にとって非常に重要な存在だ。だからこそより効率よく使わなければならない。それ故に、彼女の精神状態は重要だ。彼女の持つ祝福をうまく引き出すために留意すべきもので、常に気にかけている。
 それが彼女の価値。
 対して、心とは祝福を左右する面倒な条件、気にはかけても思いやるなどと言う考えなど、はなからなかった。
 祝福の効果に問題のない彼女の変化など取るに足らぬものでしかなく、変わったという認識のみで十分だった。
 ゆえに、それが彼女の歩みはじめた消極的な自滅の道だったなど、思いもしなかった。

「最近食事をあまり召し上がりません」
「あまり出歩くことをなさらなくなりました」
「いつも笑顔ですが楽しそうに笑うことがなくなりました」
「長い時間ぼんやりとすることが増えました」

 次々と上がってくる召使いたちの声。

「お心を煩わせる何かがあったのではないかと、心配です」

 そう進言してきたのは聖女に最も近い侍女だ。
 だからどうした、と思っていた。 
 この侍女は聖女に傾倒しているらしく彼女のそばに置いておくにはちょうど良いが、少しうるさい。
 だが、一番近くにいる侍女の言葉は聖女を都合よく転がすには必要な情報源でもある。何か思い悩んでいるのであれば、たまには連れ出してやるのも良いかもしれない。
 あの変化が思い悩んでの物ならば気分転換ぐらいにはなるだろう。もっとも、元に戻ったら戻ったでうっとうしいが、仕方あるまい。少し仕事を詰めて聖女を保養地にでも連れて行ってやろうか。
 満面の笑顔で「行きたい!」と楽しみにする姿が容易に想像できる。聖女はまた大げさに喜んで笑うのだろう。どこが良いかと、彼女の好みそうな保養地をいくつか思い浮かべ、簡単な物だと私は笑った。



「そんなに気を使わなくても大丈夫よ」

 返ってきたのは予想外の反応だった。
 気を使って気分転換にどうかと、心配してる風を装い誘ってやったにもかかわらず、消極的な拒否をされたのだ。
 喜ぶ様子のないことに軽い苛立ちを覚えるも、それは笑顔の裏に隠して「では、何かやりたいこととかはないかい? たまには気分転換も必要だろう」と、他の候補をいくつか挙げて彼女の喜びそうなことを探った。
 なのに彼女は笑顔を浮かべて、またもやさらりと断りを入れてくる。

「そんなことしなくても大丈夫よ。私はちゃんと笑っているでしょう?」 

 そうだが、と思いかけて、彼女に目を向ける。うっすらと浮かべた笑みが、人形のように作り物めいて見える。
 どきりとした。
 いつもの彼女らしくない。これは、本当に何かあるのではないか……嫌な胸騒ぎがした。

「いや、そうではなく、何か思い悩んでいるのではないのか? 私は君が心配なんだ」

 小さな手を取り懇願するように言葉を促しながら、笑顔のままじっと見つめてくる彼女の瞳に不安を覚える。
 何かを見透かされているような気がして、少し焦りつつ彼女の喜びそうな言葉をかき集める。

「食事の量も減っていると聞いたよ。何か気になることがあるのではないか? 私は君が楽しそうに食事をする様子が好きなんだ。そういえば……声をあげて笑ってくれなくなったね。なにかあったのかい?」

 よい変化だと思っていた。けれど確かにこれは少し不自然だ。所作の変化と言うより、性格が変わったかのような……。
 最近「おいしい!」としあわせそうに笑って食事をする彼女を見ていない。私の話に目を輝かせて、興味津々に聞いてくる姿も見ていない。このままあの日常は失われてしまうのではないか。
 それはダメだと思った。
 その判断に何か裏付けが合ったわけではない。けれどとっさにそれを失わせてはダメだと思った。理屈ではなかった。
 彼女に憂いがあるのなら、取り除かねば。
 奇妙な焦りが沸き上がっていた。

「君が、心配なんだ」

 手を取ったまま見つめれば、やはりうっすらと笑みを浮かべたままの彼女は、私の瞳の奥を見透かすかのように見つめてくる。
 訳の分からない衝撃に息を飲んだ。
 以前の彼女なら顔を真っ赤にしていた。動揺もあらわにどもりながら必死で返事を返してきた。でも今彼女の顔に浮かんでいるのは、興味のないものをただ瞳に映し出しているだけのような、形ばかりの笑み。

 そこに、私の知っている天真爛漫な彼女は、いなかった。

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