血の記憶

甘宮しずく

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別離

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 部屋は静かだった。蒼依は気だるさと心地よい疲労感に包まれ、動く気にもなれない。身体は満たされ、このまま眠ってしまいたいくらいだ。

 だけど、タイムリミットが迫っている。
 本当はすぐさま彼から離れ、永遠の別れを告げるべきだった。それが、未だこの有様だ。

 蒼依は彼の肩に頭を預け、横顔を見つめた。

 晃聖は彼女に腕を回し、目を閉じている。何を考えているのか、あれから一度も口をきいていない。肩先で親指が小さな円を描き続けていた。

 もしかしたら、彼も別れの算段をしているのかもしれない。

 そう思ったら、心を絞り取られるような感じがした。自分でも彼を追い払うために抱かれたくせに、勝手なものだ。
 しかも、そのせいでさらに厄介なことになっている。欲望のさなか優しさを見せつけられ、迷いが生じた。晃聖のそばにいたい。触れていたい。信じたい。早く彼から離れなければ、甘い誘惑に負けそうだ。

 蒼依はノロノロと、彼の腕から抜け出した。

 晃聖の手が、追いすがるように腕に絡みついてきた。

 それでも自分を叱咤して逃れ、下着に手を伸ばす。

 「蒼依?」

 もの問いた気な声に一瞬、手を止めたものの、そそくさと服をかき集める。せめて服で武装しなければ、彼をまともに見ることもできない。ましてや、これで終わりにする話など絶対、無理だ。

 なんとか身支度を整え、彼を振り返ったが、蒼依は間違っていた。裸の上半身を見ただけで落ち着きを失い、口がカラカラになる。その腕に守られたくて、厚い胸に寄り添いたくなる。

 彼はそこにいるだけで、確かな影響力を持っていた。

 蒼依は顔を赤らめ、目をそらした。
 「これで気が済んだでしょう?」決心が鈍らないうちに言葉を絞り出した。

 「何が?」

 「これであなたの欲望は満たされた。もう追いかける必要はなくなったじゃない。会うのはこれで最後にしましょうよ」自分で言っておきながら、心がボロボロになった。

 「なんだと?それじゃ、終わりにするために誘ったのか!?」

 その口調の激しさに、つい視線が彼に吸い寄せられる。

 晃聖は怒りをみなぎらせていた。厳しいまなざしが凄みを帯び、蒼依を見据えている。こめかみの血管が脈打つのが、彼女の目にもはっきりとわかった。

 「そんな話があるか!終わりにするために寝るなんて!」

 晃聖はベッドからおりようとしている。そして私をつかまえるだろう。

 怒った彼も怖いが、私の中のもうひとりの私はもっと怖い。つかまれば、母の血を継ぐ女はたちまち彼に溺れるだろう。今もその女は、彼の元に戻りたいと泣いている。なりふりかまわず、彼の女になりたいと叫んでいる。
 そんな言葉に耳を貸すわけにはいかなかった。

 蒼依は後ずさり、足元に落ちていたバッグを拾った。

 「終わりになんかしないからな。これは始まりだ!」

 晃聖が立ち上がったとたん、蒼依は踵を返した。

 晃聖が大声で呼んでいる。

 蒼依はかまわず外へ出た。ドアの外で一瞬立ち止まり、身だしなみをチェックした。さっきまで裸だったなんて誰にも悟られないよう心を落ち着ける。歩き出そうとしてそのまま固まった。

 すぐ先に若い女性が立っていた。

 隣の住人という感じではなかった。
 真っ白いトップに桜色のミニスカート。頭に桜色のかわいい帽子を載せている。

 女性が蒼依を見据え、ツカツカと近づいてきた。
 「やっぱり!」目を怒らせ吐き捨てる。「最近おかしいと思ったら、女なんか連れ込んで!」

 いきなり喉元に怒りの矛先を突きつけられ、茫然とした。

 「人の男、取ってんじゃないわよ!」

 人の男?真崎晃聖のこと?
 目の前が真っ暗になった。急に自分が最低最悪の尻軽になった気分だ。今更ながら、軽はずみな行動を悔やまずにいられない。
 これ以上、彼と関わる気がないことを、怒り狂ったこの女性にどう説明したものか?慌てふためき、言葉は何も出てこない。辺りには不穏な空気が立ちこめ始めていた。

 女性は我慢ならないとばかりに、眉をつりあげた。
 「無視してんじゃないわよ!あんたなんか――」怒りに震える手がバッグを探り、小さなナイフを取り出した。

 目の前で起こっていることが信じられない。今日が始まったとき、こんな結末は予想もしなかった。わかっていれば、決して彼には近づかなかったものを。彼女の視線を逃れ、石のように縮こまりたい。どこでもいい。ここ以外の場所にいたかった。
 だが、のたうつ恐怖に足がすくみ、向けられたナイフから目が離せなかった。

 「殺してやる!」ナイフを振りかざし、彼女が迫ってきた。

 蒼依が身をかわしたのはとっさのことだった。条件反射、本能、どちらでもいい。生きることを望んだのだ。鋭い切っ先は蒼依の上腕をかすめ、はずれた。

 彼女が悔しげな声を張りあげ、もう一度ナイフを振りあげたとき、背後でドアが開いた。

 「何してる!?」晃聖の驚愕した声が響き渡った。

 女性の視線は一瞬、晃聖に向いたが、再び蒼依に戻ってきたとき、さらに狂暴さが増していた。

 殺される!ギュッと目をつぶった。

 「知佳!」

 「放してよ!この女、殺してやる!」金きり声が耳に突き刺さる。

 「やめろ!」切迫した怒鳴り声が、彼女の声をけちらした。

 ナイフの落ちる音に、蒼依は恐る恐る目を開いた。

 目の前で晃聖が知佳の手をねじあげている。
 彼は外出できる姿ではなかった。ジーンズのジッパーはあげていたものの、ボタンははずれたまま、シャツに至っては全開だ。

 彼女は察したのだ。稲妻みたいにひらめく女の第六感で、彼がさっきまで全裸だったことを……。

 知佳の目はまだ憎悪を込め、蒼依をわしづかみにしていた。彼が押さえつけていなければ、つかみかかられていただろう。

 「大丈夫か?」知佳をつかまえたまま、晃聖が訊いた。

 それが蒼依の呪縛を解いた。度重なる緊張に、神経は限界を超えている。恐怖と惨めさと恥ずかしさで、吐きそうだ。
 蒼依はジリジリと後ずさった。

 「ちょっと!逃げんじゃないわよ!」憎しみが追ってくる。

 「蒼依!」苦しみが追ってくる。

 とうとう蒼依は背を向け、一目散に逃げ出した。
 非常階段を駆け下り、夕闇迫る街へと飛び出していく。恐怖から逃げるために。悲しみから逃げるために。
 しかし、そのどちらも彼女の中にあった。人の声も、街の音も何も聞こえない。ただ荒い呼吸だけが耳に響く。

 やがて疲れ果て、息を切らして歩き始めた。どこを歩いているのか見当もつかない。頭の中は恐怖の映像でいっぱいだ。知佳の叫びが耳にこびりついていた。

 彼女は晃聖の恋人だった。そして、私は恋人を奪った女?母から父を奪っていった女のような?
 そうだ。彼は友だちになろうと言ったのに、私が誘惑し、友だちの垣根を越えさせた。
 彼女は母と同じように、苦しんでいた。同じように刃物を手にし、ひとりは相手に向け、もうひとりは自らに向けた。

 その事実が蒼依をズタズタにした。いっそのこと、彼女の手にかかってしまえばよかった。
 強い衝撃にすべてが混沌として、筋道立てて考えられない。押し寄せる後悔に、蒼依の心は押しつぶされた。

 「あなた、大丈夫?」

 子ども連れの主婦に声をかけられ、蒼依はようやく歩みを止めた。疲れ果て、生気のなくなった顔をあげる。

 「怪我してるわよ」

 そう言われて、初めて自分の姿に目を落とした。白いブラウスの左袖が裂け、赤く染まっている。

 これは母の血?私の血?
 過去と現在がごっちゃになり、混乱する。蒼依はこの衝撃に耐えられなかった。かろうじて保っていた気力は途切れ、暗闇に飲み込まれていく。彼女は意識を失い、膝から崩れ落ちた。


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