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第四章 またまた転
喉元過ぎれば熱さを忘れる
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カイが来て七日目の朝。
足下にちょーんと座って、ふさふさの尻尾を揺らしているカイを眺めて、私は無言になった。
カイは毎朝会うたびに、どんどん大きくなる。朝の挨拶も忘れて、思わず無言になってしまうほどに。とうとう今日は、ツキノワグマの大きさを超えた。……と思う、たぶん。あんまりツキノワグマの大きさに詳しくはないんだけれど。とにかく、たった七日でこの成長。恐るべし、彼岸の犬。
四つ足だから、目線の高さこそ低いけれど、胴も腕も足も、最早、私のそれより太くて大きい。
しかも、うちのカイちゃん、ちっちゃい時も、そりゃあもう可愛かったけど、大きくなったらなったで、格好いいったらないのだ。
尖った耳、強そうな顎、きらりと煌めく真っ黒い瞳の、お顔はハンサム。つやっつやの灰色の毛は触り心地がいいし、体も均整がとれていて、どこの血統書付の犬かと思うくらい気品がある。
そんな子が、すっごく懐いてくれているんだよ!! これは飼い主馬鹿になったってしかたないよね!
「おはよー、カイちゃん!」
「ワッフ!」
尻尾がぶんぶんと千切れんばかりに振られ、お返事してくれる。
カイちゃん、賢い!! たった七日で、ご挨拶までできるようになった! 今では取ってこいもできるようになったしね! 私が教えたんじゃないけどね。八島さんが一言、取ってこい、と言ったら、それ以来できるようになっだけなんだけどね。うちはやっぱり、八島さんが一番すごいのだ。
いつもなら、これから如意棒(伸び縮みする便利な棒)で引っ張りっことか、乾坤圏(円盤状の飛ぶ玩具)で取ってこいをするのだけど、今日は八島さんが一緒だ。隣で、大きなバスケットを持って立っている。
「これからピクニックに行きますよ!」
「ワッフ!」
私は張りきって宣言した。高天原に来てから、初めてのお出掛け!! 嬉しいな!!
「足元が悪いといけませんので、おつかまりください」
八島さんが空いている方の腕を、常とは違って体から離して肘を張るようにした。
……腕を組めってことですか? そんなの、異性とは中学校のクラスマッチの二人三脚以来、やったことないんですが。いや、あれは肩を組んだんだっけ?
でも、八島さんが当然っていう顔をしているから、私もなんでもないみたいに、彼の腕に腕を絡めた。
そっと横を見上げると、優美に微笑まれ、私もつられて、へにゃりと笑う。いつもよりまなざしが近くて、照れてうまく笑えない。胸のあたりがこそばゆい。
「参りましょうか」
「はい!」
腕を組んだまま、ゆっくりと歩きはじめた。庭の大きな池にかかった橋を渡り、美しい散歩道を辿る。そうして、背の高い木がそよ風にさわさわと揺れ、木漏れ日が地面の上で踊る中を、三十分ほどかけて抜けた。そうしたら急に視界が開けて、私たちは小高い丘の上に立っていた。
「うわあ……」
思わず感嘆の声がもれた。
空はどこまでも青く、地上は見渡すかぎりの緑。そこここに鮮やかな色を挿して、花々が咲いている。そのどれもが生気にあふれていて、草の一本、花の一輪まで見分けられるほどだった。圧倒的な存在感を示してひしめくそれらに、世界が埋め尽くされている。
なんて、なんて、綺麗な世界。
たとえようもない景色を前にして、足がうずうずむずむずしてきた。
今すぐ丘を駆け下りて、この世界に飛び込みたい!
私はそわそわと八島さんを見上げた。
「お気に召しましたか?」
「はい、はい、とっても綺麗です! あの、下の草原まで走ってみてもいいですか? ……あ、危険な動物とか植物とかなければ、ですけど」
なにしろ、彼岸だもんね。何がいるかわからない。
「この一帯に危険なものはございません。ご自由になさって大丈夫ですよ」
「はい! ……カイ!」
八島さんの肘から腕を抜きつつ、カイと一緒に駆け下りようと呼びつけたら、お待ちください、と呼び止められた。
「こちらをお召しください」
ふわりと首のまわりに薄布が巻かれる。そのままもう一周して、首の横で蝶々結びにされた。
「天の羽衣でございます。少し体が浮きますので、これで酷く転ぶことはないでしょう」
ああ、童話とかで天女がひらひらと両腕に掛けて、ふわふわ浮いているやつ! おおー、これがそうかーと、試しにぴょんと飛び上がってみると、降りる時が、ふわりとする、気がする。
「これ、伸ばすと飛べるんですか?」
「飛ぶというより、浮くだけでございますが」
なるほど。小さくたたむと、浮力も小さくなるらしい。よくできている。
「ありがとうございます。……いってきますね!」
「はい。いってらっしゃいませ」
八島さんは慇懃に見送ってくれた。
「カイちゃん、おいで! 追いかけっこだよ!」
走りだしたら、羽衣の効力がいっそう感じられた。体が軽くて、飛ぶように走れるの。思いきり強く地面を蹴ったら、ぴょーんと飛んで、前を走るカイの横に降り立てた。それに気づいて、カイがいっそう速度をあげる。
「競争だよ!」
私は風を切って、いっきに斜面を飛び下りた。
走って、走って、走って、抜きつ抜かれつ、最後はカイに飛びついて、一緒にごろごろ転がった。楽しくて、おかしくて、息切れするほど笑って、頬とお腹が痛くなってきたから笑うのをやめて、バタンと草原に仰向けに寝転がった。
カイが傍で、のそりと伏せる。草や花が体のまわりで風に揺れて、吸い込まれそうに青い空を縁取っていた。
目の前に広がる空があんまり綺麗で、胸の奥がぎゅっとなる。
その瞬間に、帰りたい、という思いがわきあがっていた。
空の色はいつかどこかで見たことのあるものだった。一歩踏み出せば空の底に降りていけそうな色合い。幼い頃に、兄や友達と一緒に見たそれと、同じ色。
でもここに、あの人たちは誰一人といない。迂闊に会いにいくことすらできない。
会社に退職願を書いて、菓子折りと一緒に八島さんに届けてもらった時に、これからしばらくはここで生きていくんだと、覚悟を決めたはずだった。
早く慣れて、この世界のことを知って、ここで私のできることを探して、この美貌をごまかす術も探して、あっちにも帰れるようになれたらなって。
もしかしたら二度と帰れないかもしれない、帰れたとしても、時間がかかりすぎて、誰一人として知っている人はいなくなっているかもしれない、……そっちの可能性の方が高い、そういったことをちゃんとわかっているつもりだった。
けれど、あんなに簡単に覚悟ができたのは、本当にはわかっていなかったからなのだと、今、思い知らされていた。
今すぐ、ものすごく家族や友人や同僚に会いたかった。急に、暗闇に落ちてしまったように、寂しくてたまらない気持ちでいっぱいだった。泣きたくなんかないのに、勝手に涙が滲んでくる。
私は下唇を噛みしめて、空を見据えた。
「千世様」
空が遮られ、人影が現れる。
「八島、さん」
私はとっさに、涙声で彼に向って両手を伸ばした。すぐに手が握られ、引かれて体を起こされる。引き寄せられ、頬が彼の胸に当たり、すっぽりと腕の中に囲いこまれた。頭に柔らかいものが触れ、彼の頬が寄せられたのだとわかる。
八島さんに触れた場所から、安堵が体に広がった。そうして、心にも染み込んできて、ふわりとした温かさで身も心も包み込まれる。
「千世様。いかがなさいましたか?」
甘やかな呼び声に、私は吐息をつき、鼻の頭を彼の胸にこすりつけた。
「……はしゃぎすぎました。疲れました」
それも嘘ではなかった。こんなに手放しで笑ったのも、走ったのも、どのくらいぶりだろう。ちょっとすぐには思い出せなかった。
「では、ちょうどようございました。昼食の用意が整いました。休憩がてらお召し上がりになりませんか?」
言われて気付く。お腹がペコペコだ。……そうか、きっとそれで、少しセンチメンタルな気分になっちゃったんだな。
「はい。いただきます」
伏せていた目を上げれば、優しい瞳が私を見つめていた。私はそれに、ニコリと笑い返した。……笑うことができた。彼の微笑みに応えるように、自然と心の奥から浮かびあがってきたから。
八島さんの微笑に見惚れながら、本当にすごい威力だなあと、改めて思う。だって、目にするだけで、心の中がほわんほわんになっちゃうんだよ。あんなに心を覆っていた暗闇も寂しさも、もう、欠片も残っていなかった。
「ご飯楽しみです」
私は馬鹿みたいにニコニコ笑いながら、付け加えたのだった。
足下にちょーんと座って、ふさふさの尻尾を揺らしているカイを眺めて、私は無言になった。
カイは毎朝会うたびに、どんどん大きくなる。朝の挨拶も忘れて、思わず無言になってしまうほどに。とうとう今日は、ツキノワグマの大きさを超えた。……と思う、たぶん。あんまりツキノワグマの大きさに詳しくはないんだけれど。とにかく、たった七日でこの成長。恐るべし、彼岸の犬。
四つ足だから、目線の高さこそ低いけれど、胴も腕も足も、最早、私のそれより太くて大きい。
しかも、うちのカイちゃん、ちっちゃい時も、そりゃあもう可愛かったけど、大きくなったらなったで、格好いいったらないのだ。
尖った耳、強そうな顎、きらりと煌めく真っ黒い瞳の、お顔はハンサム。つやっつやの灰色の毛は触り心地がいいし、体も均整がとれていて、どこの血統書付の犬かと思うくらい気品がある。
そんな子が、すっごく懐いてくれているんだよ!! これは飼い主馬鹿になったってしかたないよね!
「おはよー、カイちゃん!」
「ワッフ!」
尻尾がぶんぶんと千切れんばかりに振られ、お返事してくれる。
カイちゃん、賢い!! たった七日で、ご挨拶までできるようになった! 今では取ってこいもできるようになったしね! 私が教えたんじゃないけどね。八島さんが一言、取ってこい、と言ったら、それ以来できるようになっだけなんだけどね。うちはやっぱり、八島さんが一番すごいのだ。
いつもなら、これから如意棒(伸び縮みする便利な棒)で引っ張りっことか、乾坤圏(円盤状の飛ぶ玩具)で取ってこいをするのだけど、今日は八島さんが一緒だ。隣で、大きなバスケットを持って立っている。
「これからピクニックに行きますよ!」
「ワッフ!」
私は張りきって宣言した。高天原に来てから、初めてのお出掛け!! 嬉しいな!!
「足元が悪いといけませんので、おつかまりください」
八島さんが空いている方の腕を、常とは違って体から離して肘を張るようにした。
……腕を組めってことですか? そんなの、異性とは中学校のクラスマッチの二人三脚以来、やったことないんですが。いや、あれは肩を組んだんだっけ?
でも、八島さんが当然っていう顔をしているから、私もなんでもないみたいに、彼の腕に腕を絡めた。
そっと横を見上げると、優美に微笑まれ、私もつられて、へにゃりと笑う。いつもよりまなざしが近くて、照れてうまく笑えない。胸のあたりがこそばゆい。
「参りましょうか」
「はい!」
腕を組んだまま、ゆっくりと歩きはじめた。庭の大きな池にかかった橋を渡り、美しい散歩道を辿る。そうして、背の高い木がそよ風にさわさわと揺れ、木漏れ日が地面の上で踊る中を、三十分ほどかけて抜けた。そうしたら急に視界が開けて、私たちは小高い丘の上に立っていた。
「うわあ……」
思わず感嘆の声がもれた。
空はどこまでも青く、地上は見渡すかぎりの緑。そこここに鮮やかな色を挿して、花々が咲いている。そのどれもが生気にあふれていて、草の一本、花の一輪まで見分けられるほどだった。圧倒的な存在感を示してひしめくそれらに、世界が埋め尽くされている。
なんて、なんて、綺麗な世界。
たとえようもない景色を前にして、足がうずうずむずむずしてきた。
今すぐ丘を駆け下りて、この世界に飛び込みたい!
私はそわそわと八島さんを見上げた。
「お気に召しましたか?」
「はい、はい、とっても綺麗です! あの、下の草原まで走ってみてもいいですか? ……あ、危険な動物とか植物とかなければ、ですけど」
なにしろ、彼岸だもんね。何がいるかわからない。
「この一帯に危険なものはございません。ご自由になさって大丈夫ですよ」
「はい! ……カイ!」
八島さんの肘から腕を抜きつつ、カイと一緒に駆け下りようと呼びつけたら、お待ちください、と呼び止められた。
「こちらをお召しください」
ふわりと首のまわりに薄布が巻かれる。そのままもう一周して、首の横で蝶々結びにされた。
「天の羽衣でございます。少し体が浮きますので、これで酷く転ぶことはないでしょう」
ああ、童話とかで天女がひらひらと両腕に掛けて、ふわふわ浮いているやつ! おおー、これがそうかーと、試しにぴょんと飛び上がってみると、降りる時が、ふわりとする、気がする。
「これ、伸ばすと飛べるんですか?」
「飛ぶというより、浮くだけでございますが」
なるほど。小さくたたむと、浮力も小さくなるらしい。よくできている。
「ありがとうございます。……いってきますね!」
「はい。いってらっしゃいませ」
八島さんは慇懃に見送ってくれた。
「カイちゃん、おいで! 追いかけっこだよ!」
走りだしたら、羽衣の効力がいっそう感じられた。体が軽くて、飛ぶように走れるの。思いきり強く地面を蹴ったら、ぴょーんと飛んで、前を走るカイの横に降り立てた。それに気づいて、カイがいっそう速度をあげる。
「競争だよ!」
私は風を切って、いっきに斜面を飛び下りた。
走って、走って、走って、抜きつ抜かれつ、最後はカイに飛びついて、一緒にごろごろ転がった。楽しくて、おかしくて、息切れするほど笑って、頬とお腹が痛くなってきたから笑うのをやめて、バタンと草原に仰向けに寝転がった。
カイが傍で、のそりと伏せる。草や花が体のまわりで風に揺れて、吸い込まれそうに青い空を縁取っていた。
目の前に広がる空があんまり綺麗で、胸の奥がぎゅっとなる。
その瞬間に、帰りたい、という思いがわきあがっていた。
空の色はいつかどこかで見たことのあるものだった。一歩踏み出せば空の底に降りていけそうな色合い。幼い頃に、兄や友達と一緒に見たそれと、同じ色。
でもここに、あの人たちは誰一人といない。迂闊に会いにいくことすらできない。
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早く慣れて、この世界のことを知って、ここで私のできることを探して、この美貌をごまかす術も探して、あっちにも帰れるようになれたらなって。
もしかしたら二度と帰れないかもしれない、帰れたとしても、時間がかかりすぎて、誰一人として知っている人はいなくなっているかもしれない、……そっちの可能性の方が高い、そういったことをちゃんとわかっているつもりだった。
けれど、あんなに簡単に覚悟ができたのは、本当にはわかっていなかったからなのだと、今、思い知らされていた。
今すぐ、ものすごく家族や友人や同僚に会いたかった。急に、暗闇に落ちてしまったように、寂しくてたまらない気持ちでいっぱいだった。泣きたくなんかないのに、勝手に涙が滲んでくる。
私は下唇を噛みしめて、空を見据えた。
「千世様」
空が遮られ、人影が現れる。
「八島、さん」
私はとっさに、涙声で彼に向って両手を伸ばした。すぐに手が握られ、引かれて体を起こされる。引き寄せられ、頬が彼の胸に当たり、すっぽりと腕の中に囲いこまれた。頭に柔らかいものが触れ、彼の頬が寄せられたのだとわかる。
八島さんに触れた場所から、安堵が体に広がった。そうして、心にも染み込んできて、ふわりとした温かさで身も心も包み込まれる。
「千世様。いかがなさいましたか?」
甘やかな呼び声に、私は吐息をつき、鼻の頭を彼の胸にこすりつけた。
「……はしゃぎすぎました。疲れました」
それも嘘ではなかった。こんなに手放しで笑ったのも、走ったのも、どのくらいぶりだろう。ちょっとすぐには思い出せなかった。
「では、ちょうどようございました。昼食の用意が整いました。休憩がてらお召し上がりになりませんか?」
言われて気付く。お腹がペコペコだ。……そうか、きっとそれで、少しセンチメンタルな気分になっちゃったんだな。
「はい。いただきます」
伏せていた目を上げれば、優しい瞳が私を見つめていた。私はそれに、ニコリと笑い返した。……笑うことができた。彼の微笑みに応えるように、自然と心の奥から浮かびあがってきたから。
八島さんの微笑に見惚れながら、本当にすごい威力だなあと、改めて思う。だって、目にするだけで、心の中がほわんほわんになっちゃうんだよ。あんなに心を覆っていた暗闇も寂しさも、もう、欠片も残っていなかった。
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★↑例の如く恐ろしく省略してます。
★9月14日投稿開始、完結は9月16日です。
★コメントの返信は遅いです。
★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
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