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第三章 転
薬籠中の物
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お屋敷は、広かった。
掛け流しのお湯が滔々とあふれる檜風呂につかった私は、思わず遠い目になった。
あのお昼寝部屋は序の口だった。……そう。掛け軸のあるお部屋は、お昼寝部屋だったのだ。『お昼寝部屋』。お昼寝をするだけの部屋。しかも、あれらのお道具は、私がお昼寝で使うためだけに、お寺だか神社だかに奉納されていた品を献上させたんだって。
「どれもいわくつきの品として封印されていたり、ご神体として厳重にしまいこまれて日の目を見ないものばかりでございますから」
問題は何一つないのだと八島さんは言った。
確かにいわくつきの品だとは思う。絵の中の猫が出てくるのはまだしも、突然滝が現れたり、雷に打たれたりしたら、危険だもんね。それは、いい。どうかと思わないではないけど、あの子猫を閉じ込めておくぐらいなら、うちで面倒を見る。
だけど、ご神体はいけないと思うの。だって、ご神体だよ。神主さんが毎日祀って、大勢の人がそれを拝みに来てるものだよ。私一人のお昼寝を守るためだけに、ここに置いておいていいものではない。
だから今すぐ返してきてくださいってお願いしたのに、複製が飾ってあるから問題ないって笑顔で押し切られた。八島さんが作ったんじゃなくて、神社の方で、昔からそうしてたんだって。人目に触れさせるのは畏れ多いとか、警備の問題とか、そういうのらしい。つまり、ご神体が箱の中からなくなっていても、すぐには誰も気づかない……。
「それに、あの剣に人の願いを聞く力はございません。主に人の声を届けることすらできないのです。あそこにあっても、なんの役にも立ちません」
にっこりしながら、身も蓋もないことを八島さんは言った。私はそれに対して反論を思いつけなかった。
そんなわけで、あのお部屋はすべてそのまま。そして、お昼寝部屋でこれだから、当然他も推して知るべしだったというのはわかってもらえると思う。
……寝室が一番すごかったかな。薄いピンクの天蓋がふんわりと掛けられていて、襖が開けられた瞬間、ふああああ、と訳のわからない声をあげちゃったよ。そのピンクの布に精緻な透かし模様が入っていて、それが角度を変えて見るたびに、きらりきらりと虹色に光をはじいて綺麗なの。
そうしてまわりをめぐって眺めているうちに、天蓋のてっぺんに、なんか古そうな銅鏡が赤い紐で飾り物のように違和感なく吊るされているのを見つけてしまったけれど、由来を聞くのはやめにした。聞いたら最後、絶対に安眠に良くないと確信した。
寝室の天井絵と襖絵もとっても美しかった。黒と見まがう深い紺地に金で夜空を描いてあって、実際の天をそのまま写し取ってあるんだって。星の一つ一つに呼応する呪が刻まれていて、星の加護が施されているんだとか。この部屋が攻撃を受けた場合、恒星級の反撃が為されますので安心してお休みくださいって説明してくれたけど、いったいどんな報復がされるんだか、ちょっと想像つかない。
トイレもすごかったなあ。なにしろ、トイレなのに私の借りているアパートより広かったんだよ。豪華なお花がたくさん飾ってあって、いい匂いのする中でリラックスしながら用を足せるという、贅沢極まりない素敵空間が用意されていた。
ちなみに、このお風呂もすごいよ。目の前は全面ガラス張り。開放的で露天気分だ。実際、このガラスは開け放せるようになっていて、そこから瀟洒な中庭に出られる。裸のまま出るというより、外で遊んで汗をかいたら、そのままお風呂に直行できるという造りらしい。
すごいすごいと芸もなく同じ言葉を連発しているけれど、それ以外、どう表現したらいいのかわからない。至れり尽くせり。こんな贅沢をしたことないから、まごつくばかりだ。猫に小判。ブタに真珠。そんなことわざを思い出して、罪悪感すら覚えてしまう。
私は、ふう、とため息をついた。そこへ、タイミングを計ったかのように、家の中へと続く戸口から声がかかった。
「そろそろ頭をお流ししましょうか」
お湯の中に視線を落とす。うん。乳白色で透けて見えない。
「はあい、お願いします」
一応、胸元は腕で隠して、ガラリと音をたてたガラスの引き戸へと顔を向ける。私は入ってきた八島さんのいでたちに、ふふっと笑った。
いつも上から下まで隙なく装っているのに、さすがにお風呂場では上着を脱いでシャツの袖をまくるの。靴下も脱いで、裾も少し上げてある。そうしていても上品さも格好良さも減らないんだから、すごいよね。
「なんでございましょうか」
「なんでもないですよ」
「さようでございますか。……今日はどのシャンプーにいたしましょうか」
「ええとですねえ……」
八島さんが持ってきた籠の中を見せてくれる。ラベンダーにスズランにローズにシトラスにベルガモット等々……。十種類ほどあるそこから、ローズを選んだ。
「これでお願いします」
「かしこまりました」
お風呂の縁にシャンプー台みたいになっている所があって、そこへ頭をあずけた。目をつぶっておとなしく待っていると、失礼いたします、と声がかかって髪が濡らされる。それから、ふわっと薔薇のいい匂いが漂ってきた。
八島さんの頭皮マッサージ、とっても気持ちいいんだよねえ。彼に頭を洗ってもらうと、仕事疲れが吹き飛ぶっていうのか、生き返るっていうのか。残業で疲れ果ててた日に一度やってもらったら、それからやみつきになっちゃって。いやもう、あの日は本当にお風呂に入るのも面倒っていうか、中で寝てしまいそうだったのだ。
納期前日に重大な計算ミスが見つかって、それが大型公共施設の積算書の頭の方だったもんだから、千枚単位の差し替えという悪夢を見た。お昼もそこそこ、夕飯は抜きで、家に辿り着いたのは午前二時。へとへとだった。家に帰ったら八島さんが寝ずに待っててくれて、嬉しいのと申し訳ないので泣き笑いになっちゃった。
汗だけ流そうとお風呂に入ったのに、湯船につかったら、眠くてうとうとしちゃって、それで気付いたら八島さんが頭を洗ってくれていた。
あんまり気持ちよくって、はー、天国~と呟いたら、極楽より天国の方がお好きですかと聞かれた。変なこと聞くなあと思ったんだけど、支配地に極楽はあっても天国はないようだから、それを気にしてたのかもしれない。
そこまで思い出して、胸中に、ふと不安がよぎった。……どっちも好きですよと答えたけれど、あれ、失言になってないよね? お好きならば天国も取りそろえましょうって、いくらなんでもシャンプーと同列に扱ったりしないよね?
「あの、八島さん」
「はい、なんでございましょう」
「天国にはべつに行ってみたくありませんからね?」
「承知いたしました」
簡単に了承されて、肩すかしをくらう。でも。
「では、クリスマスはどのように楽しみましょうか。天使に演奏させて、聖杯でワインを召しあがっていただこうかと考えておりましたが、ご興味がないようでしたら、此岸のサンタクロース協会の方にお手紙でも出しておきましょうか」
天使の演奏は世界の終末を告げるラッパです! 吹き鳴らさせちゃだめです!
じゃなくて、
「も、もしかして、天国のある神域を手に入れようとしていたんですか?」
がばっと体を起こしそうになって、やんわりと止められる。
「シャンプーが目に入るといけませんので、もうしばらくお待ちください」
私はじりじりとして泡を流してもらうのを待った。お湯が止まったところで、今度こそ体を起こして振り返る。
「他にまだどこを手に入れようとしているんですかっ?」
私は詰問口調で、タオルを用意している八島さんに聞いた。
「次はユグドラシルに繋がれた神域をと思っておりますが」
聞いたことがあるような名だけど、どこだかわかんない。でも、そんなことはとりあえずどうでもよかった。
「危ないことはしないって言ったじゃないですか!」
「危なくございません」
「だって、そこの『 』と支配権を争うのでしょう? 危なくないはずがないじゃないですか!」
くすりと八島さんは余裕の笑みで笑った。
「危なくございませんよ。私は千世様を得たのですから。それよりも髪を拭きませんと。雫が冷たくてご不快でしょう」
伸ばされた手をよけて、お風呂の中ほどまで私は退いた。お風呂無駄に大きいからね! ここまで来ると、中に入らなきゃ手が届かないからね!
「私、ただの人間ですよ、神様じゃないんですからね、八島さんに力なんて貸せないんですよ!」
「力は必要ございません。私は主なしでも八つの神域を支配いたしました。それだけの能力を備えて生じてまいりましたので」
「じゃ、じゃあ、私なんて、全然必要なかったんじゃないですか!」
ショックだった。役にもたたない私を主にして、こんなに仕えてくれて、それでどんないいことが八島さんにあるっていうんだろう。
「いいえ。私を保つのに、必要なのでございます」
八島さんは立ち上がって、お風呂の縁に立った。
「力を揮うとは、『 』の本性に立ち返るということ。それは、自我を曖昧にします。千世様を得る前の私は、己を失わない程度にしか力を使うことができませんでした。しかし、千世様がいらっしゃれば、私はけっして己を失いません」
ゆらりと彼が動き、ちゃぷんと小さな音をたてて、お湯の中に右足を入れた。すぐに左の足も。ズボンが濡れてしまうのもかまわずに、湯船の中に降り立つ。
それのみならず、彼はゆっくりと腰を下ろし、私の前で膝立ちになった。白いシャツがじわじわと水を吸って上まで色を変えていく様子を、目を瞠って見守る。……シャツが肌にはりつき、透けて、彼の体の線をあらわにしていくのを。
「千世様の生気が私の輪郭を保ってくれるのです。そして、我が心も貴女様を求めて、我を失わない」
彼の声は耳を素通りしていた。それよりも、肩に伸ばされてくる手に意識を捕らわれていた。
いつも服に隠されている腕は、筋肉質で大きく太さのあるものだった。男の人の腕だった。……シャツの貼りついた体も。今まで八島さんがお風呂場に入ってきたって全然気にならなかったのに、何だか急に、男の人だって意識せずにはいられなかった。
とうとう彼の指が素肌に触れて、反射的に、びくりと体がすくんだ。
ちち、ちかちか近いよ、八島さん!!
私は体の前で貧弱な体を隠している腕を、ますます強く体に押し付けて、あたふたと下がっていこうとした。
お湯で見えないだろうけど、私裸なんだよ、この下なにも着てないんだよ!!
けれど、八島さんの手がついっと動いて、首の後ろへとまわった。うなじに指を当てられる。それだけなのに後方への動きが封じられて、私は息を止めてますます大きく目を見開いた。心臓が早鐘をうって、ど、ど、ど、ど、と音をたてて血が体をめぐっていた。
八島さんがなまめかしく少しだけ首を傾げる。そうして、彼の指が肌をたどっていく。首筋に添ってゆるゆると。……髪をかき集め、頭の上へと巻き上げ、それから左手に持っていたタオルを使って、くるりと頭を包み込んだ。
彼は清々しく微笑むと、口を開いた。
「ご理解いただけましたか?」
「へ?」
「私が千世様を必要としていることです」
何か説明してたっけ。そんな気もするけれど、まともに覚えていなかった。だって、だって、私裸なんだよ! とにかく、裸なんだよ!
「もっと詳しくご説明申し上げたほうがよろしいでしょうか?」
私はふるふると横に首を振った。どうでもいいから、一人にしてほしかった。
「承知いたしました。……まだ入っていらっしゃいますか? あまり長湯されるとのぼせてしまわれます。冷たいお飲み物をお持ちいたしましょうか?」
「あ、え、えと、あがります」
最早のぼせているのかもしれなかった。顔も頭も熱くてたまらなかった。
「かしこまりました。ドレッシングルームにお飲み物を用意しておきます」
「……はい、ありがとうございます」
彼は一礼すると、すみやかにお風呂を出ていった。
私はぺたんと座り込んで、膝の上に手をついてうつむいて、あまりの恥ずかしさに、うひゃーとわけのわからない奇声をこぼした。
掛け流しのお湯が滔々とあふれる檜風呂につかった私は、思わず遠い目になった。
あのお昼寝部屋は序の口だった。……そう。掛け軸のあるお部屋は、お昼寝部屋だったのだ。『お昼寝部屋』。お昼寝をするだけの部屋。しかも、あれらのお道具は、私がお昼寝で使うためだけに、お寺だか神社だかに奉納されていた品を献上させたんだって。
「どれもいわくつきの品として封印されていたり、ご神体として厳重にしまいこまれて日の目を見ないものばかりでございますから」
問題は何一つないのだと八島さんは言った。
確かにいわくつきの品だとは思う。絵の中の猫が出てくるのはまだしも、突然滝が現れたり、雷に打たれたりしたら、危険だもんね。それは、いい。どうかと思わないではないけど、あの子猫を閉じ込めておくぐらいなら、うちで面倒を見る。
だけど、ご神体はいけないと思うの。だって、ご神体だよ。神主さんが毎日祀って、大勢の人がそれを拝みに来てるものだよ。私一人のお昼寝を守るためだけに、ここに置いておいていいものではない。
だから今すぐ返してきてくださいってお願いしたのに、複製が飾ってあるから問題ないって笑顔で押し切られた。八島さんが作ったんじゃなくて、神社の方で、昔からそうしてたんだって。人目に触れさせるのは畏れ多いとか、警備の問題とか、そういうのらしい。つまり、ご神体が箱の中からなくなっていても、すぐには誰も気づかない……。
「それに、あの剣に人の願いを聞く力はございません。主に人の声を届けることすらできないのです。あそこにあっても、なんの役にも立ちません」
にっこりしながら、身も蓋もないことを八島さんは言った。私はそれに対して反論を思いつけなかった。
そんなわけで、あのお部屋はすべてそのまま。そして、お昼寝部屋でこれだから、当然他も推して知るべしだったというのはわかってもらえると思う。
……寝室が一番すごかったかな。薄いピンクの天蓋がふんわりと掛けられていて、襖が開けられた瞬間、ふああああ、と訳のわからない声をあげちゃったよ。そのピンクの布に精緻な透かし模様が入っていて、それが角度を変えて見るたびに、きらりきらりと虹色に光をはじいて綺麗なの。
そうしてまわりをめぐって眺めているうちに、天蓋のてっぺんに、なんか古そうな銅鏡が赤い紐で飾り物のように違和感なく吊るされているのを見つけてしまったけれど、由来を聞くのはやめにした。聞いたら最後、絶対に安眠に良くないと確信した。
寝室の天井絵と襖絵もとっても美しかった。黒と見まがう深い紺地に金で夜空を描いてあって、実際の天をそのまま写し取ってあるんだって。星の一つ一つに呼応する呪が刻まれていて、星の加護が施されているんだとか。この部屋が攻撃を受けた場合、恒星級の反撃が為されますので安心してお休みくださいって説明してくれたけど、いったいどんな報復がされるんだか、ちょっと想像つかない。
トイレもすごかったなあ。なにしろ、トイレなのに私の借りているアパートより広かったんだよ。豪華なお花がたくさん飾ってあって、いい匂いのする中でリラックスしながら用を足せるという、贅沢極まりない素敵空間が用意されていた。
ちなみに、このお風呂もすごいよ。目の前は全面ガラス張り。開放的で露天気分だ。実際、このガラスは開け放せるようになっていて、そこから瀟洒な中庭に出られる。裸のまま出るというより、外で遊んで汗をかいたら、そのままお風呂に直行できるという造りらしい。
すごいすごいと芸もなく同じ言葉を連発しているけれど、それ以外、どう表現したらいいのかわからない。至れり尽くせり。こんな贅沢をしたことないから、まごつくばかりだ。猫に小判。ブタに真珠。そんなことわざを思い出して、罪悪感すら覚えてしまう。
私は、ふう、とため息をついた。そこへ、タイミングを計ったかのように、家の中へと続く戸口から声がかかった。
「そろそろ頭をお流ししましょうか」
お湯の中に視線を落とす。うん。乳白色で透けて見えない。
「はあい、お願いします」
一応、胸元は腕で隠して、ガラリと音をたてたガラスの引き戸へと顔を向ける。私は入ってきた八島さんのいでたちに、ふふっと笑った。
いつも上から下まで隙なく装っているのに、さすがにお風呂場では上着を脱いでシャツの袖をまくるの。靴下も脱いで、裾も少し上げてある。そうしていても上品さも格好良さも減らないんだから、すごいよね。
「なんでございましょうか」
「なんでもないですよ」
「さようでございますか。……今日はどのシャンプーにいたしましょうか」
「ええとですねえ……」
八島さんが持ってきた籠の中を見せてくれる。ラベンダーにスズランにローズにシトラスにベルガモット等々……。十種類ほどあるそこから、ローズを選んだ。
「これでお願いします」
「かしこまりました」
お風呂の縁にシャンプー台みたいになっている所があって、そこへ頭をあずけた。目をつぶっておとなしく待っていると、失礼いたします、と声がかかって髪が濡らされる。それから、ふわっと薔薇のいい匂いが漂ってきた。
八島さんの頭皮マッサージ、とっても気持ちいいんだよねえ。彼に頭を洗ってもらうと、仕事疲れが吹き飛ぶっていうのか、生き返るっていうのか。残業で疲れ果ててた日に一度やってもらったら、それからやみつきになっちゃって。いやもう、あの日は本当にお風呂に入るのも面倒っていうか、中で寝てしまいそうだったのだ。
納期前日に重大な計算ミスが見つかって、それが大型公共施設の積算書の頭の方だったもんだから、千枚単位の差し替えという悪夢を見た。お昼もそこそこ、夕飯は抜きで、家に辿り着いたのは午前二時。へとへとだった。家に帰ったら八島さんが寝ずに待っててくれて、嬉しいのと申し訳ないので泣き笑いになっちゃった。
汗だけ流そうとお風呂に入ったのに、湯船につかったら、眠くてうとうとしちゃって、それで気付いたら八島さんが頭を洗ってくれていた。
あんまり気持ちよくって、はー、天国~と呟いたら、極楽より天国の方がお好きですかと聞かれた。変なこと聞くなあと思ったんだけど、支配地に極楽はあっても天国はないようだから、それを気にしてたのかもしれない。
そこまで思い出して、胸中に、ふと不安がよぎった。……どっちも好きですよと答えたけれど、あれ、失言になってないよね? お好きならば天国も取りそろえましょうって、いくらなんでもシャンプーと同列に扱ったりしないよね?
「あの、八島さん」
「はい、なんでございましょう」
「天国にはべつに行ってみたくありませんからね?」
「承知いたしました」
簡単に了承されて、肩すかしをくらう。でも。
「では、クリスマスはどのように楽しみましょうか。天使に演奏させて、聖杯でワインを召しあがっていただこうかと考えておりましたが、ご興味がないようでしたら、此岸のサンタクロース協会の方にお手紙でも出しておきましょうか」
天使の演奏は世界の終末を告げるラッパです! 吹き鳴らさせちゃだめです!
じゃなくて、
「も、もしかして、天国のある神域を手に入れようとしていたんですか?」
がばっと体を起こしそうになって、やんわりと止められる。
「シャンプーが目に入るといけませんので、もうしばらくお待ちください」
私はじりじりとして泡を流してもらうのを待った。お湯が止まったところで、今度こそ体を起こして振り返る。
「他にまだどこを手に入れようとしているんですかっ?」
私は詰問口調で、タオルを用意している八島さんに聞いた。
「次はユグドラシルに繋がれた神域をと思っておりますが」
聞いたことがあるような名だけど、どこだかわかんない。でも、そんなことはとりあえずどうでもよかった。
「危ないことはしないって言ったじゃないですか!」
「危なくございません」
「だって、そこの『 』と支配権を争うのでしょう? 危なくないはずがないじゃないですか!」
くすりと八島さんは余裕の笑みで笑った。
「危なくございませんよ。私は千世様を得たのですから。それよりも髪を拭きませんと。雫が冷たくてご不快でしょう」
伸ばされた手をよけて、お風呂の中ほどまで私は退いた。お風呂無駄に大きいからね! ここまで来ると、中に入らなきゃ手が届かないからね!
「私、ただの人間ですよ、神様じゃないんですからね、八島さんに力なんて貸せないんですよ!」
「力は必要ございません。私は主なしでも八つの神域を支配いたしました。それだけの能力を備えて生じてまいりましたので」
「じゃ、じゃあ、私なんて、全然必要なかったんじゃないですか!」
ショックだった。役にもたたない私を主にして、こんなに仕えてくれて、それでどんないいことが八島さんにあるっていうんだろう。
「いいえ。私を保つのに、必要なのでございます」
八島さんは立ち上がって、お風呂の縁に立った。
「力を揮うとは、『 』の本性に立ち返るということ。それは、自我を曖昧にします。千世様を得る前の私は、己を失わない程度にしか力を使うことができませんでした。しかし、千世様がいらっしゃれば、私はけっして己を失いません」
ゆらりと彼が動き、ちゃぷんと小さな音をたてて、お湯の中に右足を入れた。すぐに左の足も。ズボンが濡れてしまうのもかまわずに、湯船の中に降り立つ。
それのみならず、彼はゆっくりと腰を下ろし、私の前で膝立ちになった。白いシャツがじわじわと水を吸って上まで色を変えていく様子を、目を瞠って見守る。……シャツが肌にはりつき、透けて、彼の体の線をあらわにしていくのを。
「千世様の生気が私の輪郭を保ってくれるのです。そして、我が心も貴女様を求めて、我を失わない」
彼の声は耳を素通りしていた。それよりも、肩に伸ばされてくる手に意識を捕らわれていた。
いつも服に隠されている腕は、筋肉質で大きく太さのあるものだった。男の人の腕だった。……シャツの貼りついた体も。今まで八島さんがお風呂場に入ってきたって全然気にならなかったのに、何だか急に、男の人だって意識せずにはいられなかった。
とうとう彼の指が素肌に触れて、反射的に、びくりと体がすくんだ。
ちち、ちかちか近いよ、八島さん!!
私は体の前で貧弱な体を隠している腕を、ますます強く体に押し付けて、あたふたと下がっていこうとした。
お湯で見えないだろうけど、私裸なんだよ、この下なにも着てないんだよ!!
けれど、八島さんの手がついっと動いて、首の後ろへとまわった。うなじに指を当てられる。それだけなのに後方への動きが封じられて、私は息を止めてますます大きく目を見開いた。心臓が早鐘をうって、ど、ど、ど、ど、と音をたてて血が体をめぐっていた。
八島さんがなまめかしく少しだけ首を傾げる。そうして、彼の指が肌をたどっていく。首筋に添ってゆるゆると。……髪をかき集め、頭の上へと巻き上げ、それから左手に持っていたタオルを使って、くるりと頭を包み込んだ。
彼は清々しく微笑むと、口を開いた。
「ご理解いただけましたか?」
「へ?」
「私が千世様を必要としていることです」
何か説明してたっけ。そんな気もするけれど、まともに覚えていなかった。だって、だって、私裸なんだよ! とにかく、裸なんだよ!
「もっと詳しくご説明申し上げたほうがよろしいでしょうか?」
私はふるふると横に首を振った。どうでもいいから、一人にしてほしかった。
「承知いたしました。……まだ入っていらっしゃいますか? あまり長湯されるとのぼせてしまわれます。冷たいお飲み物をお持ちいたしましょうか?」
「あ、え、えと、あがります」
最早のぼせているのかもしれなかった。顔も頭も熱くてたまらなかった。
「かしこまりました。ドレッシングルームにお飲み物を用意しておきます」
「……はい、ありがとうございます」
彼は一礼すると、すみやかにお風呂を出ていった。
私はぺたんと座り込んで、膝の上に手をついてうつむいて、あまりの恥ずかしさに、うひゃーとわけのわからない奇声をこぼした。
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