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アニャン、一生の願いを抱く

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 目が覚めると、エウルの腕の中だった。肩を抱かれて、彼の胸元に顔を寄せていて、頭の上で、すうすう寝息がしている。
 今触れているここに、布をへだてずに抱きしめられた記憶が、わっと思い出されてきて、息を止めて、ぎゅっと体を縮めた。
 どうしたらいいのかわからないくらい恥ずかしい。でも、舞い上がってしまいそうなほどの幸せも感じる。胸の中で小鳥が羽ばたいているみたい。居ても立っても居られなくて、じたばたしたくてたまらなかった。
 だけど、そんなことをしたら、この人を起こしてしまうだろう。……広くて厚い胸に抱かれていると、あたたかくて、すごく安心する。もうしばらくこうしていたかった。
 それに、どんな顔をして、『おはようございます』を言えばいいのかわからない……。
 私は息をひそめて、じっとしていた。

 あ! でも、パタラも居ないし、この天幕の炉を守るのは、妻の私の役目なんじゃないだろうか。
 ……と考えて、また胸がこそばゆく騒がしくなって、息を止める。
 私が、妻。エウルの妻。
 ここで、エウルの子を産んで、一緒に家畜の世話をして、生きていくんだ。
 ……ここが、私の家なんだ。
 ふと、そう気付いて、泣きたいような気持ちになった。

 故郷の家が、思い浮かんだ。父さんがいて、母さんがいて、兄さん達がいて、妹と弟がいて。小さなあばら屋だった。炉を囲んで皆でご飯を食べ、寒い冬には炉の傍で抱きあって眠った。
 ずっと、もう一度帰りたかった。いつだって、元気にしてるかな、て気掛かりで。あの家が、恋しくて恋しくてしかたなかった。
 長くて寒い冬、日照り続きの夏、しのつく長雨。そんな時は、特に心配でたまらなかった。……生き延びていてくれるだろうか、と。もしも誰もいなくなってしまっていたら、どうしよう、て。
 ……家族がいなければ、私は本当のひとりぼっちになってしまう。それが怖くてたまらなかった。

 旦那様のお屋敷では、誰一人として、笑いかけていい人が、いなかった。うっかり笑んでしまえば、なにニヤニヤしているんだい、と言われた。気持ち悪い。仕事もろくにできないのに、媚びてるんじゃないよ、と。
 仕事の辛さよりも、蹴られるよりも、それが一番辛かった気がする。仲良くなりたくても、そう思うだけで、もっと嫌われる。
 価値がないどころか、汚い嫌なものだと思われて、必死に働いて役に立つのを示すことで、ようやくお屋敷の隅に居ることを許されていた。

 どうして、私、こんなに駄目な人間なんだろうって、思ってた。どうしたら、あんなふうに人の輪に入れるんだろうって。誰でもできていることが、なんで私にはできないんだろうって、惨めでしかたなかった。
 本当は、私ていどがどんなに働いたって、家に帰してもらえないのはわかっていた。働くだけ働かされて、死んだら捨てられるだけなんだろう、て。
 ひとりぼっちで生きて、死んでいくんだって。必死に見ないようにしていた。
 寒くて、怖くて、押しつぶされそうで。ただただ、うずくまって、その場をやり過ごすだけでせいいっぱいだった。

 ……はずなのに。
 不思議と、今はあの辛い気持ちが思い出せなかった。
 思っていたことも、感じていたことも、こんなにはっきり思い出せるのに。でも、どうしてか、まるで悪い夢くらいにしか感じられない。……これまでは、あんなに何度も思い出しては、その場に居るように体がすくんでいたのに。

 胸の中に、抱きしめてくれている彼の体温と同じだけのあたたかさがあって、それでいっぱいだった。
 ……きっと、昨夜、たくさん教えてもらった、から。エウルが私を、どんなに大切に思ってくれているか。好きでたまらないって、思ってくれているか。

「エウル」

 起こさないように、ほんの少しだけ強く顔を押しつけて、小さな声で呼んだ。
 ……抱かれながら、この人の妻として生きていきたい、と思った。どうか、お願いですと、ありったけの神様に――天にも、ご先祖様にも、『そうてん』にも、『てん』にも、『ち』にも、『せいれい』にも――願った。
 たいへんなときも、ううん、たいへんなときこそ、彼の手を離しませんから、だからお願いですから、彼と共に生きさせてください、と。

『うん、なんだ?』

 思いがけない返事に、びっくりして、振り仰いだ。天窓を開けてないし、そうでなくてもベッドは帳に包まれており、暗くて輪郭くらいしか見えない。けれど、彼の影がもっと近付いてきて、あやまたず額に口づけられた。

『もう起きられるのか?』

 ……起きたかと聞かれた。もしかして、私より先に目覚めて、私が起きるのを待っていたとか……?
 かっと顔が熱くなった。起きているところに、すり寄ってしまったの!? 恥ずかしくて、ぶわあって汗ばんできた。

『ん? 熱っぽいのか!? 大丈夫か!? いや、大丈夫じゃないのか!』

 がばっとエウルが起き上がり、反対に私は丁寧に布団の中にしまい込まれそうになった。私はあわててエウルの手を押さえた。

「お、起きます! 何ともないですよ! 起きます! 起きられます!」
『寝てろ! ……その、昨夜は悪かった。自分でも驚くほど、何一つ我慢できなかった。すまない!』

 何か勢いよく頭を下げられた。

「え? え? どうしたんですか? あの、エウル、顔を上げてください。え、ええと、ええと、『うまをみにいく』に行って、『ごはんです』にしましょう。『わたし、よういする』ので」
『そうか、そうだな、わかった。用意する。ちょっと待っててくれ!』

 手早く上着を引っ掛けたと思ったら、外に出ていって、天窓が開いた。けっこう日が高い。いつもよりだいぶ寝坊したみたいだった。
 外で、エウルが誰かと話している声がしていた。
 私も起き上がり、ベッドのヘッドボードに掛けてある重たい衣装を見つけて、途方に暮れた。これを着たら何もできない。……どこかに、パタラがくれたいつもの服が置いてないだろうか。
 探すまでもなく、櫃はベッドの脇ですぐに見つかった。しゃがんで蓋を開け、中を覗きこむ。……あった。よかった。

「あ、これ」

 こちらに来る道中に世話をしてくれた男性が持たせてくれた、小袋と朱塗りの瓢箪を見つけた。そういえば、すっかり忘れていた。一口も手をつけなかったけれど、中はどうなってしまっただろう。
 試しに瓢箪を開けると、つんとした匂いがした。元が何なのかわからないけれど、どうやら発酵してしまったらしい。袋の方も、とうに食べられなくなってしまっているだろう。後で捨てなければ。
 それを脇に置き、私は閻の服を着込んだ。
 それから、炉の様子を見て牛糞を足し、水袋のところへ行った。……ちょっとだけ飲んで、毒味をする。変な物が入り込んだり、腐ってしまっていることもあるから。……うん、大丈夫かな。
 杯二つに水を注いでいたら、エウルが戻ってきた。

『馬の用意ができた。起きてて大丈夫なのか? ……あ、うん、水か、ありがとう』

 私が起き出したのを心配して、わあわあ言いそうだったので、杯を一つ、にっこりとして押しつけた。私がにこにこしていれば、だいたいエウルはそのうち黙るのだ。

『じゃあ、行こう』

 きっと抱き上げてくれるつもりなのだろう。手を差し伸べてきたエウルは、だけど、私の手元を見て、ピシリと音がしそうな唐突さで動きを止めた。

『それ……』
「中身を捨てないといけなくて」

 私の言ったことは伝わってないようだった。元から伝わるとは思ってない。ただ、たいしたことではないけれど、これに用があるのだけわかってもらえればいい。
 エウルは何か言いたそうにして、何度か私と手元を往復して見たあげく、なぜか複雑な表情で頷いた。

『そうか、わかった。とにかく行こう』

 私はいつものように抱き上げられて、天幕の外へ出たのだった。



 エニとマニが、新しい天幕の外でもちゃんと待っていて、『うまをみにいく』のについてきた。
 済ますことを済ませてから、エウルが見つけやすい場所に座って、怖々袋を開けてみた。白っぽい丸い物がころころ出てくる。……なんか、前より白くなってる気がする。もしかして全部カビてるのかもしれない。

「あ、エニ! マニ! 食べちゃ駄目! お腹壊すから!」

 二匹が顔を突っ込んできて、舌を出してペロリと舐め取ろうとした。急いで手を重ね合わせて上へ上げる。そのままの格好で、隠した物を狙って飛びかかってくる二匹から身を躱す。

「もー! これは駄目なの! ほらっ、しっ、しっ! あっちへ行きなさい!」
『どうした、大声をあげて』

 エウルがやってきて、犬達から狙われて逃げ惑う私に目を丸くした。

「あ、エウル! 『エニ、マニ、おいで』して!」
『おいで「して」? ……ああ、わかった。エニ、マニ、来い!』

 犬達が離れていく。

『伏せ!』

 命じられて、エウルの足下で腹ばいになる。それを見計らって、私も数歩下がってから背を向けてしゃがんだ。カビた玉を地面に置き、食べられないように穴を掘って埋めることにする。

『あっ、耀華公主、駄目だ! 土を掘り返すな!』

 いつの間に来ていたのか、エウルが大きな声をあげて、後ろから私の手をつかんだ。
 その隙に、エニとマニが、カビた玉を咥えて、アグアグしながら走り去っていく。それを止めなきゃと思うのに、エウルが眉をしかめていて、声が喉の奥に消えた。

『耀華公主、土は絶対に掘り返したらいけないんだ。……というのは、知らなかったんだよな。大きな声を出してすまなかった』

 ふわりと抱きあげられて、抱きしめられ、ぽんぽんと背を叩かれる。……怒っては、ないらしい。私はおずおずと彼の首に腕をまわした。

『腹ごしらえしたら、オーウェルを呼び出して説明してもらおうな』

 オーウェルは、昨日、訳して伝えてくれた人だ。込み入った話をする必要があるのだろう。私は、わかったことを示すために、彼の首元に顔を押しつけたまま、こくりと頷いた。
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