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アニャン、気持ちを持てあます

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 乳でいっぱいになった桶を、皆で――と言っても、私の分はミミルに笑顔で取られて、彼女が両腕にさげている――天幕に運んでいく。
 先に辿り着いたミミルは、入り口の前で桶を下ろし、手ぶらで中に入っていった。他の人達も、そこで桶を置く。
 パタラが上着の埃を払い、服のあわせを整えて、髪の乱れも直した。

『公主、いずまいを正そうね』

 パタラに上着の埃をはたかれ、三つ編みのリボンも直される。ニーナも自分で同じことをしている。
 すぐにミミルがスプーンを持って出てきて、ささっと身繕いをしてから、桶の中の乳をすくっては、上に下にと、何度もまき散らしはじめた。

『人が乳をいただく前には、ああやって、蒼天と、天地の神と、精霊達に、かてを恵んでくださったお礼を捧げるんだよ』

 パタラが説明をしてくれたけど、難しくてよくわからない。首を傾げると、重要ならしいところだけ、ゆっくり繰り返してくれた。

『蒼天、天地、精霊達』
『しょ、……そ、そーてん、てんち、せーれーたち』
『そう。蒼天、天地、精霊達。……蒼天はね、あの青い空の上の上にあって、人は誰もそこから来て、死んだらまた還るんだよ』

 パタラは手を袖口に隠し、掌を上に向けて高く持ち上げ、うやうやしく戴く仕草をした。きっと、『そーてん』とは、とても尊いものなのだろう。

『そーてん』

 私も真似て、手を隠して空を戴いてみた。パタラが目を細めて頷いてくれる。

『天、地』

 パタラは今度は袖から手を出して空を指し示し、次に地面を指した。たぶん、空と地面のことだ。
 私が、『てん、ち』と復唱すると、次は、『精霊達』と言って、ぐるりとあたりすべてを腕で薙ぐようにする。どうやら、『せーれーたち』とは、あたり一面にあるものらしい。
 パタラもミミルも、ニーナでさえ、敬う様子なのが見て取れる。それで、ぼんやりと理解した。故郷でも、天と祖先を祀る時に供物を捧げる。それと似たものなのだろう。

『どうぞ皆様、一服していってください』

 乳をまき終わったミミルが、天幕の入り口を上にめくりあげ、中に入るようにと手招いた。
 中は、私が寝起きしている天幕の配置とよく似ていた。真ん中に炉があって、右に家事の棚、左に『ばぬーす』の袋、奥の左右にベッドがある。
 ベッドに掛かった布が綺麗な黄色で、それが優しく明るいミミルの印象と重なる。柱やなんかもあんまり煤けてなくて、全体的に新しい物のように見えた。

『ホラムとミミルの天幕だよ』

 あんまりしげしげ眺めていたからだろう、パタラが教えてくれる。『ミミル』と『天幕』が聞き取れた。きっと、ここがミミルの天幕なのだ。
 ベッドは二つあって、ミミル以外の誰かもここで寝起きするのだとわかる。

『ここ、ミミル、天幕。ニーナ、天幕?』
『ああ、ニーナはスレイの家族の天幕に泊めてもらっているんだよ。婚約者だからね』

 よくわからないけれど、ここでニーナが生活しているわけじゃないようだ。だったら、誰かも何かもない。あそこで寝るのは、エウル意外にいない。
 当然のことで、わかっていたはずのことなのに、思ってもみないほど心が沈んでいく。
 ……ここでエウルは、ミミルとどんなふうに過ごすんだろう……。

『どうぞこちらにおかけください。馬乳酒はいかがですか?』

 ミミルに椅子をすすめられて、杯を渡された。やわらかく微笑みかけられて、ぱっとこちらの気持ちまで明るくなる。素敵な人だなあと思う。エウルの妃になるのも、当然の人だと。
 この天幕ではパタラではなく、こうしてミミルが仕切っているのを見るかぎり、ここの主は彼女なのだろう。そうじゃないかと思っていたとおり、エウルの妻には、それぞれに天幕が与えられているようだった。

 ……私、だいぶ元気になってきた。いつまで、パタラやエウルは、私と暮らしてくれるんだろう?
 一人で暮らすようになったら、どのくらいの頻度で、エウルと会えるのだろう?
 今は、ミミルもニーナも、いつだって朝の挨拶だけで、食事さえ一緒にしない。私も別に天幕を与えられたら、エウルは毎日一つずつ巡って歩くのかな。

 ……ああ、だけど、エウルとはなかなか会えなくなっても、パタラとはこうして、乳搾りで毎日会えるかもしれない。ミミルとも、会えるといいな。
 美人なニーナはツンとしているけれど、それは無理もないことだとわかっている。突然来て、自分より上の地位の妻に収まってしまった女に、いい顔なんてしたくないに決まっている。

 それを考えると、時々心配になる。パタラはよくできた第一夫人で、他の妻との交流もおおからに見守ってくれているけれど、本当に嫌な思いはしてないだろうか?
 私、パタラにだけは、どうしても嫌われたくない。ここに来て、何もわからない私に、親身になってくれた人。こんなに優しくて親切な人の邪魔者にだけは、絶対に、絶対に、なりたくなかった。

 私は馬乳酒を飲み終わって、わからない言葉に耳を澄ませているのも疲れてきて、うつむいた。手持ち無沙汰に、杯の側面に見える木目を指でたどる。

『公主、大丈夫かい? 疲れてしまったかね』

  パタラが心配そうに私の首に手をやり、熱を確かめて、ほっとした顔をした。

『……ああ、良かった、熱はないようだ。だけど、無理をさせてしまったようだね』

 先に立ったパタラに、支えられるようにして立ち上がらされる。

『ミミル、ニーナ、私達はこれで抜けさせてもらうよ』
『はい。耀華公主、どうぞお大事に』

 二人が口々に挨拶するのを後にして、私達はミミルの天幕を後にした。



『耀華公主!』

 夕の冷たい風が吹く前に、屋根に乗せていた『ちーず』を取り込んでいると、羊を連れた男たちが戻ってきた。エウルが馬から下りて、駆けてくる。

『ただいま戻った』
『おかえりなさいませ』

 なんとなく、彼の笑顔が見ていられなくて、板に載った『チーズ』が転げ落ちないよう気にしているふりをし、目をそらした。そそくさと天幕の中に運び込む。

『叔母上、公主に何かあったのか』

 すぐにエウルも入ってきて、パタラに話しかけた。

『うーん。熱はないんだよ。体調も悪そうじゃないしね。でも、今日はどことなく落ち着かない様子で、やたら、立ち働きたがってね。
 ……ほら、今朝、泣いていただろう。じっとしていると、何か思い出したくないことでも思い出してしまうんじゃないかと思ってねえ。話を聞いてやりたくても、言葉が通じないし、どうしたものかと思っていたんだよ』

 エウルがちらりと私を見る。二人の沈黙がいたたまれなくて、私は屋根にはもう『ちーず』がないのをわかっていて、見に行く素振りで外へ出た。

『耀華公主』

 エウルが追って出てきた。それには答えず、屋根を見てまわっていると、後ろから唐突に腕を掴まれた。びっくりして反射的に体を引くと、彼は眉を寄せて不機嫌な顔になり、強引に私の腕をひっぱった。

「あっ」

 足がもつれて、勢いよく彼にぶつかる。抱き留められたと思ったら、そのまま腰を掬われ、縦に抱き上げられた。

「なっ! 下ろして、くださいっ!」

 ぐ、と両手でエウルの胸を押しやった。こうして自分から触れてみると、彼の胸板は厚く、腕は太く、自分の細くて小さな手ではびくともしない。
 いつもゆるぎないここに安心して身を任せていたはずなのに、急に、彼の大きさと、それに抗えない自分の非力さが怖くなる。私は、力の限りもがいた。

「……い、いや! いや!」
『耀華公主!!』

 エウルに怒鳴りつけられて、体がすくんだ。一瞬動きが止まったところを、顎を押さえられ、彼へと向かされる。目を合わせてくる彼の真剣な視線に射抜かれ、そのまま動けなくなった。

 彼がとても怖い顔をしていた。さっきの声も怖かった。……明らかに怒っていた。私に対して。
 ……怒るほど、すごく心配してくれている。たぶん。逃れることを許さないほど、私と向き合おうとしてくれている。
 言葉がわからなくても、それ以外のすべてで知ろうとしてくれているまなざしだった。

 お腹の底から熱い物がこみあげてきて、唾と一緒に呑み込んで押し戻そうとした。なのに、ひいっく、と嗚咽がもれて、我慢できずに、ぼたぼた涙が落ちる。
 あわてて目をこすった。泣いていたら、エウルはもっと心配する。気にして、離してくれない。
 今は、そうしてほしくなかった。放っておいてほしかった。
 自分でも、どうしてこうなってしまうのかよくわからない。彼の優しさに胸が震えて熱くなるのに、それがにがくて、くるしくてたまらなくなってくる。
 私は必死に嗚咽をこらえて、涙を止めようとした。

『エウル……』

 パタラが天幕から出てきて、遠慮がちに彼を呼んだ。エウルは聞こえてないかのように無視をする。

『エウル、何やってるんだ! 泣いているじゃないか。嫌がることはやめろよ!』

 だけど、駆けてきたスレイが、エウルの肩を突いて、私ごとエウルの体が揺れ、顎を押さえる手がはずれた。視線もはずれ、エウルはスレイを睨み、唸るように問い返した。

『……嫌がること?』
『嫌だって、叫んでただろ。……帝国の言葉で』

 躊躇いがちに付け加えられた最後の一言に、エウルはぎゅっと眉根を寄せると、唇を真一文字に結んだ。忌々しげに顔を背ける。

『エウル、公主は驚いただけだよ。仕事しているところを、急に抱き上げられて。公主がいつでも一生懸命なのは、わかっているだろ?』

 パタラが何かを言い、しばらくすると、ふっと彼の力がゆるんで下ろされた。
 彼はこちらを見もしない。体をいからせて、黙りこんでいる。
 パタラもスレイも、もちろん私も、そんなエウルに何も言えず、言葉もなく立ち尽くした。
 やがて、エウルが顔を背けたまま、ぽつりと言った。

「いや?」

 一瞬、わからなかった。閻の言葉だと思ったのだ。でも、うかがうようにこちらに視線を寄こしたエウルの表情を見て、わかった。帝国の言葉だ、と。
 後悔している顔だった。
 私がとっさに答えられないのを見て、彼の顔に、傷ついた色がよぎる。
 彼はふいっと目をそらし、踵を返した。足早に天幕から離れていってしまう。

「エウル!」

 私は思わずエウルの後を追った。呼んでも振り返ってくれない。いつも、彼と歩くのに、早足になんてなったことはなかったのに、今は走らないと追いつけなかった。
 ああ、あれは、歩調を合わせてくれていたんだ。そう気付いて、また涙があふれてきた。嗚咽も止まらない。
 彼の背中は拒絶を示していて、声をかけることも、どこかを掴むこともできなかった。私は泣いて喘ぎながら、ただただ彼の後をついて走った。

 どのくらい走ったのだろう。とうとつに彼が立ち止まって振り返った。私も足を止める。どこまで近付いていいかわからなかったのだ。
 彼が顔を顰めた。苛立ちがそこに浮かんでいた。

『「いや」なんだろ?』

 私は横に首を振った。何度も、強く。
 私が「いや」と言ったことを、怒っているらしいと感じた。
 どうしてそんな言葉は伝わってしまうのだろう? 本当にそんなふうに思って吐いた言葉じゃなかった。けれど、私たちの間では、字面通りにしか伝わらない。
 そんなこともわからずにしでかしていまう私は、やっぱりどうしようもないのろまだと思った。他の人達と違って、彼に大事にしてもらえるだけの何もない自分に、どうしようもなく情けなく、悲しくなる。
 とうとう私に我慢がならなくなったのか、エウルが激しく怒りだした。

『そんなはずないだろう!? 正直に「いや」だと言えばいい! 抱き上げられるのも、触られるのも、恐ろしげなこの顔も、「いや」だと!
 ……いいや、そもそも、帝国を離れて、こんなところに一人連れてこられて、「いや」に決まっているよな。
 帝国は俺たちを「蛮族」とも「夷狄いてき」とも呼ぶ。野蛮で、卑しい者だと。帝国の言葉がわからない俺でも、それくらいは知っている。
 そんな相手に身を任せるなんて、我慢ならないだろう。
 耀華公主、「いや」だと、正直に言え。そうしたら、どんなことをしても、俺が帝国に帰してやる!!』

『エウル、何を言ってるんだ!』
『そうだよ、何を言ってるんだい!』

 スレイとパタラが駆けてくる。パタラは私を追い越し、その勢いのまま握った拳を、横殴りにエウルの胸に叩きつけた。ドンッと鈍い音がして、ごほ、とエウルは咳きこんだ。

『この馬鹿息子!! 情けないことを言うんじゃないよッ!!
 意のままにならないからって、おまえは放り出そうっていうのかい!? だったら、ロムランを模してさらってきたなどとうそぶくくんじゃないよ!!
 攫われてきた女がどんな気持ちになるか、考えたことがあるかいッ!? 己の意思でなく、住み慣れた場所から引き離されるんだよ!? それが、どれほど心細く、怖いことか。
 か弱い女の身で、逆らうことも逃げ出すこともできないで、自分を攫った男にいいようにされる、その辛さを責める権利は、男にはないよッ!!』

 パタラは怒鳴りつけながら、ドンッ、ドンッとエウルの胸といわず腕といわず、手当たりしだいに殴り続けた。

『こんな甲斐性のない男は、こっちから願い下げだよッ! あんたは公主を連れてくるよう言いつかっているかもしれないけれど、私は公主がこちらに馴染めるように、世話係を申しつかっているんだ。
 あんたにその気がないなら、私が公主にいい男を見繕う! あんたはもう、公主に近づくでないよッ!!』

 ことさら大きく振りかぶり、パタラは最後にエウルの顔を殴りつけようとした。
 私は、その腕にとっさに飛びついた。必死にしがみつき、抱きこむ。パタラは、あっと言ってバランスをくずし、私達は一緒に倒れこんだ。

『あいたたっ! 公主、何を……、あっ、公主、大丈夫かい!?』

 パタラが私の上から起き上がろうとするけど、私は力いっぱい彼女の腕を抱きしめて体を縮めた。もう彼女にエウルを殴らせたくなかった。

 ……だって、そんなつもりでは、なかったのだ。
 ただ、触れられたくないと、思っただけだった。……いつか離れていくのなら。何人かのうちの一人になるのなら。これ以上優しくしてほしくなかった。そんな記憶を積み上げてほしくなかった。
 彼に優しく触れられれば触れられるほど、離れている間中、その手に焦がれてしまうだろう。それが、苦しくて、怖かった。
 それで、エウルがあんな顔をするなど……、傷ついた顔をするなど、思ってもみなかった。
 その上、パタラまで悲しそうに怒って。エウルは避けもしないで殴られるままになって。
 パタラに責められて、エウルが辛そうに顔を歪めたのを見た瞬間、私はパタラの腕に飛びついていた。

『公主、公主、大丈夫か!?』

 エウルがパタラを押しのけ、私の肩を抱きかかえた。私は驚いて、パタラの腕を放してしまった。

『どこか痛いところはないか? ええと、何て言ったか。おい、スレイ、この前、おまえ、聞いていたよな!? 何て聞けばいいんだ!?』
『「いたい、ある、か」だ』
「公主、いたい、ある、か!?」

 頭をさぐり、頬を撫で、肩や腕や背中を、怪我はないかと探しているのだろう、切羽詰まった表情で、ぎゅ、ぎゅ、と握っては確かめていく。
 ……ああ、本当に、この人は。
 胸の奥が甘く痛んだ。目頭が熱くなり、鼻がツンとする。けれど、笑みも浮かんでくる。
 私はその手を上から押さえた。横に首を振りながら伝える。

「痛く、ない、です」

 エウルは見るからに、ほっとした。

「……ごめんなさい、エウル」

 閻の言葉がわからなくて、帝国の言葉で言った。言わずにはいられなかった。
 ところが、エウルは戸惑ったような、……少し怯えた表情を目に浮かべた。
 ああ、違う。そんな顔をさせたいんじゃない。
 私は焦って、彼の服を掴んだ。彼の瞳が問うように揺れる。……だから、思いきって彼の胸に額をくっつけた。
 もしも間違っていたら、ただ振り払われるだけだ。私がまぬけなことを重ねるだけ。
 けれど、愛想を尽かされたんじゃなかったら。あの叱責も、何かを伝えようとしてくれたものだったのなら。……まだ、彼の手を、求めても、いいのなら。
 しがみついて、離れたくないと示す、それ以外に、どうしたらいいかわからなかった。

『耀華、公主』

 少し、震えたような声だった。背中に彼の両腕がまわって、抱きすくめられる。
 あたたかさに包まれて、ほうっと吐息がこぼれた。そうしたら、また涙がこみ上げてきて、彼の胸に顔を埋めて、しゃくりあげた。彼の腕が、さらに力強く抱きしめてくれる。

 ああ、本当は、いつだってこうして抱きしめられたい。他に立派な奥様が居ても、その人に嫌われたくないと思っていても、私なんか、相応しくないとわかっていても。どうしても、この人のぬくもりが欲しい。

 私は人目も忘れて、彼にすがりついたまま泣いてしまったのだった。
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