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エウル、最善を祈る

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 公主と叔母上に怪我はなく、ウォリも馬も無事だった。安堵の溜息と共に感謝の言葉がこぼれた。

「蒼天よ、慈悲と加護に感謝いたします」

 馬車を引き起こし、車体を点検する。車軸はなんともなく、車輪が砕けただけのようだった。

「車輪をすべて拾い集めろ。欠片も残すな。持ち帰る」

 替えの車輪を付けさせ、その作業とまわりの様子に目を配る。
 馬車は、新しく作らせたばかりのもので、酷い場所を走らせたこともない。この程度の使用で壊れるとは考えられなかった。
 運が悪かったで済ますつもりはなかった。持って帰って、元から欠陥があったのか、それとも、誰かに細工されたのか、職人に検めさせる。
 誰も疑いたくはないが、必ず原因を見つけなければならない。

 この放牧集団アイルは、俺が耀華公主と婚姻して独り立ちするにあたって、編成されたものだ。
 構成人員は、腹心とその親族、つまり目付役を中心に集まっている。奴僕ぬぼくは親父様から譲り受けたが、彼らとも幼い頃からの付き合いだ。
 俺にとって気心の知れた、信頼している者ばかりなのだ。もしこの中に細工をした者がいるとしても、見当もつかなかった。

 ただ、俺と親しいということは、俺の親族とも親しいということだ。誰がどのような意図で俺の下に来たのか、その真意までは知ることができない。
 それに、皇帝の血筋だというだけで、忌み嫌う者が多いというのもある。
 竜――蛇とトカゲを掛け合わせたような人ではないもの――を始祖に持つ話は、有名だ。帝国では神と崇められても、閻で崇めるものは蒼天だ。
 そんなものとロムランの血が混じることに反対したのは、ルツをはじめ、親父様の重臣の半分以上に及んだ。

 だからこそ、竜血に連なる妻を持つ俺は、王位から遠ざけられるのだし、俺の子もその孫も、子々孫々、どれほどロムランの血筋の男子が減ったとしても、けっして王位に推されることはないだろう。

 皇帝の娘を妻にするというのは、たとえ一族から孤立しても彼女を守り、生きていくということ。
 この話があった時、親父様に問われたのだ。「その覚悟があるか」と。俺は迷いなく答えた。

「俺がしたことで、女が身一つで命懸けでやってくるというのに、それに応えなければ、男を名乗る資格はない。俺は、閻の男の誇りにかけて、彼女を守る」

 あの時は、もっと話は簡単な気がしていた。敵は目の前に現れ、立ちふさがるのだと。それを恐れたりはしていなかった。向こうが命のやりとりを望んでいるのなら、こちらも遠慮はしない。
 けれど今は、不安が腹の底から次から次にわいてくる。
 形の見えないものに、自分ではなく、非力な彼女が襲われるという恐怖。
 彼女を本当に守りきれるのだろうか。……いや、守らなければならない。それには、どうしたらいいのか。

 ふと、思いつく。ロムランの声を使えばどうか。
『誰だ』と。『名乗り出ろ』と叫べば、犯人が見つかるかもしれない。
 ……使いたい。その衝動に突き上げられる。

 だが、ただの事故だったら? 今は犯人がここにはいなかったら? そう。他国や他部族の者の仕業かもしれない。または、やった者にそんな気はなく、違う意図を持って行動した結果だとしたら?

 俺が疑えば、今最も信頼している人々との間に、亀裂ができてしまう。味方を敵にしてしまう。
 それは愚かな行動だ。

 空を見上げて、は、と息を吐いた。深い青さに心が静まる。偉大なる蒼天に思いを馳せ、祈る。
 蒼天よ、どうか最善の選択ができるよう、お導きください。

「エウル、馬車の準備ができた」

 誰もが俺の判断を待っていた。
 まだここで止まるわけにはいかない。他の集団の放牧地と近すぎる。この草の状態では、うちの家畜たちに、じゅうぶん食わせてやれない。
 急拵えのテントへと行き、声をかける。

「叔母上、耀華公主、出発できるだろうか」
「ああ。開けていいよ」

 公主はぐしゃぐしゃになっていた髪を、綺麗に結い直してもらってあった。俺を見て、表情を和らげる。

「耀華公主、行くぞ」
「はい。行く」

 手を差し出せば、素直に手を預けてくる。彼女の顔に恐れは見えず、安堵した。……嫌がったとしても、連れて行かなければならなかったから。
 彼女を抱き上げて連れ出し、馬に乗せる。もう今日は、馬車に乗せていく気にはなれなかった。

 今回は、初めて連れてきた時と違って、前を向かせて馬に跨らせた。閻の服は、女性のものでも足を開いて馬に乗れる形にできている。
 おっかなびっくり鞍に両手でしがみついて及び腰になっているのを、抱き寄せて、しっかり俺の体に密着させる。そうすると、鞍にしがみついているのが難しくなったようで、彼女はだいぶ迷った末に、自分の腹に巻きついている俺の腕を、両腕で抱え込んだ。

 細い指を立てられるのがこそばゆい。高さが怖いのか、下を向きそうになるたび、あわてて空を見上げているらしいのも、いじらしい。俺は自然と笑っていた。

「大丈夫だ、落とさないから」

 耳元で囁いてやれば、びくっとしたものの、恐る恐るというように振り返って首を傾げる。

「だーじょぶっだー……?」
「大丈夫だ、落とさない」
「だ、だいっじょおーぶ、おとーしゃにゃい」

 発音が難しいのだろう。眉間に皺を寄せて口をとがらせて、顔中に力を込めて一所懸命真似をしているのが、おかしくて可愛い。

「ああ。そうだ。大丈夫だ、落とさない」

 彼女に言い聞かせながら、自分にも言い聞かせ、俺は出発の号令をかけた。



 誰もが無言で進んだ。緊張で空気がピリピリしている。アイルの主たる俺が、気を張りつめさせているからだ。アイル全体に伝播していくのが手に取るようにわかる。
 ……それでいい。どのような意図が働いているかわからない今は、警戒する必要がある。

 時々、腕の中の耀華公主の姿勢を直してやる。変な格好をしていると体が疲れるし、尻か内股の皮がすりむけてしまう。
 公主は、慣れてない以上に怖いのか、だいぶ体が強ばっている。もっと馬にあわせて体をやわらかく使うといいのだが、こればかりは何度もやって体得するしかない。

 これからは、少しずつでもこうしていった方がいいのかもしれない。苦い思いで、そう考える。
 大事に囲うにも限界がある。どうしても、俺の目や手が届かないところは出てくるだろう。……さっきのように。
 考えたくはないが、『その時』に備えて、一つでも、少しでも、彼女が自分で生き延びる方法を増やしてやらなければ。

「エウル、エウル」

 スレイが馬を寄せてきて、咎めるように呼んだ。

「不機嫌を引っ込めろ。公主まで緊張して、かわいそうだ。そんなんじゃ、尻のあたりをすりむいてしまうぞ」

 スレイは、耀華公主、と呼びかけた。彼女がぎくしゃくと首を巡らす。それに、人好きのする笑顔をうかべてみせて、話しかける。

『痛い、ある、か?』
『え?』

 彼女が驚いた声をあげた。体を前のめりにして、早口でスレイに話しかける。

『帝国の言葉が話せるんですかっ?』

 スレイは苦笑して横に首を振った。彼女の言うことはわからないようだった。

「おまえ、何と聞いたんだ? どうして言葉を知っている?」
「痛くないかと聞いた。たぶん、だけどな。前に、商人の子供と遊んだ時に、少し知った程度だから、自信は無いんだけどさ。
 今回、公主がおまえの妻になると聞いて、実は、教えてもらえたらと思っていたんだ。
 言っておくけど、公主を口説こうとかいうんじゃないからな! 俺にはニーナがいる。変な嫉妬はしないでくれよ。
 ただ、相手を知るには、どうしたって言葉が必要になるだろう。……特に、俺たちには必要だ」

 うんうん、とホラムやウォリも頷いている。リャノは、だったら俺は他に任せると言いたげな顔だが。どうやら、皆、一人で思いつめるなと言いたいらしい。それは伝わってきた。
 ああ、そうだった。俺達は、生きるも死ぬも一緒なんだった。
 ふうっと、心にかかった重しがほどけていく。

「それなら、俺にも一枚噛ませてくれ。料理の説明を聞くのに、どうしようかと思ってたんだ」

 ナタルが反対側に馬を寄せてきて、そんなことを言った。
 ちょっと感動しかけていた気持ちが、すとんと落ち着く。……よかった。うっかり涙ぐむところだった。
 ナタルは夢見る瞳で宙を眺めていた。

「帝国の料理は、こちらにはない味付けをすると聞いた。いろんな『調味料』というものがあるんだと。いずれはぜひ取り寄せて、作ってみたいよなあ。皆だって、食べてみたいだろ、な?」
「面白そうだな! 俺も食ってみたい!」

 なんでも面白がるウォリが、話に食いついた。他の奴らが声をあげて笑っている。
 気付くと、公主は声をする方に顔を向けては、耳を傾けていた。その体は、自然と馬の揺れに合わせて、動いていた。

 ……俺はこいつらに助けられている。
 改めて、忘れかけていた当たり前のことが胸に迫って、俺も一緒になって笑い声をあげた。
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