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エウル、生きた心地がしない思いをする

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 炉の側の椅子に座らせ、一日の移動が負担にならなかったか、熱の具合を見る。外で確認したときは、顔色も悪くなかった。これも念のためなだけで、家畜と同じだ、触れてみればわかる。耀華公主は健やかそのものだった。

「わたし。パタラ。おいで」

 ぴょこ、と立って、叔母上の方を指して、そんなことを言いだす。手伝おうというのだろう。一生懸命なのが可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。

「公主、それは、行く、だ。行く」

 ここからあちらへ、という仕草をしながら、何度か「行く」と繰り返す。公主がしっかり理解したらしいところで、手招く仕草で、「おいで」も復習しておく。ついでに、「来る」も教えているうちに、何事も手早い叔母上は、馬乳酒とチーズを人数分持ってきた。

「耀華公主、ほら、叔母上が来る、、

 公主は、あ、という顔をして、あからさまに意気消沈した。
 彼女は働き者なのだろう。……彼女自身を知るほどに、外交官が話していた「公主」像と重ならなくなる。言葉はいくらか覚えてくるはずだと言われていたのに、一言も通じないし、外へも出さずに人々にかしずかれて育てられた姫君というには、立ち働くことに慣れている。
 ……それで、かまわなかった。元の血筋がどうであろうと。むしろ、彼女で良かったと、心底思う。

 「公主」とやらと心を通わせられるとは、正直期待していなかった。妻にする以上、できるだけ便宜を図り、大切に守ろうと考えてはいたが、帝国の者が閻を蔑んでいるのは知っている。打ち解けてもらえるとは思っていなかったのだ。
 子を得られなくてもいいとも思っていた。俺たちの役目は、両国の和平の証となること。望んで来るのではないだろう「公主」に、無理強いをするつもりはなかった。
 俺は、王位継承候補からはずれ、家畜さえ好きに育てられれば、それでよかったのだ。

 それが今は、この娘が早く大人にならないものかと、じれったく思っている。
 離れていれば、どうしているかと気になり続け、傍にあれば、触れたくなる。まだ子供だと自分に言い聞かせていないと、しょっちゅう子供に見えなくなってしまうほどだ。
 子供に子を産ませるわけにはいかないとわかっているから、我慢している。もっと身体がしっかり育ってからでなければ、お産で命を落としてしまうだろう。絶対に、そんなことにだけはしたくなかった。
 俺は、この娘と長く手を携えて生きて、共に老いることを望んでいるのだから。
 ……この手が黒ずみ、しわしわになるまで。それもまた、きっと愛しく思うだろう。
 気がつくと、彼女の小さな手を取り、握りしめていた。

「さあ、そろそろ寝ようかねえ。明日も移動にするんだろ? しっかり休んでおかないと」
「……そうだな」

 叔母上がニヤニヤしている。……いいだろ! 手を握るくらい!

「その布もといてやらないと」

 もっと冷やかす目つきで言われて、俺は黙殺した。
 公主の首に巻いてやった布の結び目に、指をかける。彼女も、きょとんと布を見下ろした。このまじないの意味をわかってないんだろうなあ、と内心、苦笑する。

 閻では、愛用しているものには魂の一部が宿ると考える。それを相手の体に巻いて縛るというのは、魂の一部を縛り付けるのと同じ行為だ。
 不安そうに引き留めた彼女の傍に居てやりたいと、思った。それ以上に、彼女にこうしていいのは俺だけだと、誰彼かまわず示したいと思ったのだ。

 相手の無事を願い、再会を約して行う呪いだ。縛り付けた物をといていいのは、縛った者だけ。特に女性の首に巻くのは、夫や恋人しか行わない。
 だから、次に再会した時、首に巻いてあるものを取り去り、交わる約束をした男が居るのだと、示す物になる。

「……やくそく」

 彼女が、ぽつりと呟いた。

「えっ?」

 どきりとして口走れば、彼女は、あれ? という顔で俺を見た。間違えただろうかと、考え込む様子を見せる。

「そうだ、約束だ」

 あわてて相槌を打てば、ほっとした表情を浮かべた。
 俺が思い浮かべたようなものが欠片も見当たらない無垢なまなざしに、猛烈にいたたまれなくなった。

 ……「これから約束を果たすの?」と聞かれた気がしたのだ。この下の服も脱がしていいのだと、ほんの一瞬、錯覚した……。
 その瞬間に思い浮かんだ、何も纏わない白い肌が、打ち消そうとするほどに脳裏にちらつく。

「エウル?」

 不思議そうに名を呼ばれる。……甘い声で。
 カッと体が熱くなり、俺はうろたえて、ガタリと立ち上がった。
 それをさらに、心配そうに見上げられる。
 ……罪悪感のあまり、自分の頭をかち割りたくなった。

「エウル、あんた、まさか、病み上がりの子に手を出そうなんて思っていないだろうね?」
「まさか! だいたい、耀華公主はまだ子供だろう!」
「だったら、いいんだ。絶対に無体をはたらくんじゃないよ、いいね?」
「当然だ。そんなことするものか!」

 叔母上に威勢よく啖呵を切ったのだったが、この夜はずいぶん悶々として、俺は何度も寝返りを打つハメになったのだった。



「エウル、おあようございます」

 公主は今日も朝から可愛らしい声で挨拶してくれた。昨日の疲れはまったく見えない。よく眠れたのだろう。今日も移動してさしつかえなさそうだった。
 それに比べて、俺は少々寝不足気味だった。

 何事もなく移動すること半日。ふわあ、と大きなあくびをして、俺は前を行く馬車から目を離し、草原へと向けた。
 ゆるやかな地面の起伏の彼方に、放牧中の姿が小さく見える。誰かはわからないが、あちらでも気付いたらしく、大きく手が振られた。それに応えて手を挙げた。

 その時、パシッ、と何かが弾ける音がし、俺は音源を探して耳を澄ませた。ミシミシミシッと軋む音が急速に大きくなっていき、まさか、と注視した先で、バキンッと大きな破砕音とともに、馬車の車輪が砕け散る。
 馬車はガタガタと引きずられながら傾いて、ゆっくりと横転していった。ウォリが御者席から放り出され、引っ張られた馬が棹立ちになっていななく。

「耀華公主! 叔母上!」

 俺は馬から飛び降りて、馬車に駆け寄った。めくれた幕から中を覗くと、叔母上が滅茶苦茶に散乱した布をかきわけて、よろよろと立ち上がった。

「叔母上!! 大丈夫か!?」
「ああ、私は大丈夫だよ、でも、公主の姿が見えなくて」
「俺が探す。叔母上はいったん外へ出るんだ。怪我をしているといけない」

 俺は叔母上に手を貸して、馬車から抱き下ろした。

「スレイ、叔母上を頼む。他は警戒を怠るな」

 言い置いて、馬車の中に入った。一歩一歩、足下に公主が埋まってないか確認しながら、彼女を呼ぶ。

「耀華公主!!」

 少しでも振動を減らそうと、幾重にも布を敷き詰めたのが仇になっていた。剥いでも剥いでも、重い布がぐしゃぐしゃになって積み重なっている。どのふくらみに彼女が入っているのか、ぜんぜん見分けがつかなかった。
 なぜこんな、ということばかりが頭の中をめぐる。そうでなければ、首の骨を折って事切れた彼女の姿が。

「耀華公主っ」

 頼む、生きていてくれ。祈る気持ちで叫んだ時、少し先の布の山が、もごもごと動いた。
 俺は這い寄って、手あたりしだいに布を剥ぎ取った。必死だった。ようやく最後の一枚をむしり取った時、けれど、俺ははすぐに、うずくまる彼女に触れられなかった。致命的な場所を骨折していたらと考えると、どこに触ったらいいのかわからなかったのだ。
 のろ、と乱れた頭が動いて起き上がり、目が合う。

「エウル」

 安心したように俺を呼んだ直後、彼女は泣きそうに表情をゆがめた。呆然と、彼女の目元に涙がたまるのを見つめる。
 彼女が生きているのが信じられなくて、恐る恐るその頬に触れた。あふれた涙がボロボロとこぼれ落ち、彼女がしがみついてくる。胸元に、とさっとあたたかいものがくっつき、ぎゅっと心臓が握られたような心地がして、俺は我に返った。
 俺は馬鹿か! 彼女は怖い思いをしたのに! なぜもっと早く抱きしめてやらなかった!?
 しっかりと両腕で小さな体を包み込めば、彼女は、ひいいいっく、と嗚咽を漏らした。震える小さな背中に、胸がキリキリと痛んだ。

「大将、公主は!?」
「見つけた。無事だ」
「よかった! 大将が動かなくなったから、公主が死んじまって、ショックを受けてるのかと思ったぜ!」

 なはは、と入り口からのぞきこんでウォリが笑うのを、俺は振り返って、ギロリと睨んだ。

「おー、怖っ。公主に怪我は?」
「今、見ているところだ。おまえこそ、怪我は?」
「俺は身軽なのが取り柄だぜー。どっこもなんともないよ」
「そうか」
「ホラムがテント張ったぜ。生きてても死んでても、いるかなって、うっ、そう睨むなよ、俺も生きててよかったって思ってるって!」

 そう言いながら、ウォリはニカッと笑って、突然ひらひらと手を振った。

「公主様、大丈夫ですかー?」

 公主もおずおずとウォリに手を振り返している。
 俺は反射的にムカッとして、自分の体で彼らの視線を遮った。

「だから、なんで睨むんだ!? そこから出てくるのに人手がいるかと思ったんだけど、俺の手でいい!? 他の奴にする!?」
「おまえの手で我慢する」
「我慢なのかよ!?」

 そう言いつつ、身を乗り出して腕を伸ばしてくる。
 俺は公主を抱き上げて、どこも痛がらないのを確認し、片腕でしっかり抱き留めると、ウォリの手を取り、馬車の外へ出た。
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