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閑話集 四季折々
春嵐に散る(スタッティフォードの英傑)
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春荒れのその日、スタッティフォード城市は静まりかえっていた。
風の唸りが聞こえる以外、数千の兵士が城壁を挟んで睨みあっているにもかかわらず、盾の触れ合う音すらしない。
ただ一人、包囲する軍勢から歩み出てきた騎士に、すべての人間の視線がそそがれていた。
王太子軍の緋色のマントを纏ったその騎士は、冑を脱いでいた。首の後ろでくくっただけの長い黒髪が、一歩ごとにマントと一緒に風に煽られ、揺れる。
さらされた面は秀麗にして優美。その姿は間違えようもなく、この国の王太子妃、若干二十二歳にして王国の守護女神と呼ばれる、ソラン妃殿下のものだった。
再三の降伏勧告はすべて拒絶され、明朝、夜明けを待って決戦に挑むと、城より書状が届いている。
にもかかわらず、反乱領主の討伐軍の総大将である彼女が、なぜ、陥落も間近の城へと、一人で近付いていくのか。
その真意のわからぬ者たちは、彼女の優雅な足取りを、固唾を呑んで見守るしかなかったのだった。
やがて彼女は城門にたどりつくと、その上から弓を引いて狙いを定めている見張りの一人に、声をかけた。
「我が名はソラン・ファレノ・エレ・ジェナシス・ド・シェ・ウィシュタリア。王太子殿下から平定軍の全権を委譲されている。ザラント卿と話し合いたい。取り次いでもらえるか」
彼女は、けっして威圧的ではなかった。むしろ、旧知の友人を訪ねてでもきたようだ。しかし、それでもなお、彼女は人を呑む気配を纏っていた。
不幸にも、目を見合わせた見張りは、その気配に呑まれ、一瞬、我を失った。手元がゆるみ、矢が放たれてしまう。
だが、矢は折からの強風に流され、彼女のほつれ毛をさらっただけで地面へと突き立った。彼女は動くこともなく、驚いた素振りも見せなかった。
「恐れることはない。私は一人だ。話し合いに来た。必要ならば、この宝剣も置いていこう。ザラント卿に取り次ぎを願う」
彼女は剣をはずし、地面へと置いた。
黒い握りの巻かれた地味な拵えのそれは、おそらく王家に伝わる宝剣だ。地に置いてよいものではない。その昔、王家の王子の誓願によって、これを以て国を守れと、神より与えられたと言われているものなのだ。それを、妃が戦場に立つ度に、王太子は必ず授け渡すのだった。
持つ者が持てば、天を裂き、地を割るとまで言われる神剣だ。かてて加えて、彼女は十六の時にこの剣を握って、たった一人で千人の敵を退け、聖騎士の称号を得ている。そんな者を、たとえ女であろうと、おいそれと城内に入れられるわけがなかった。
返答のないままに、幾十の弓矢に狙われること数分。
城門の上に新たな人影が立った。
「妃殿下、王家の宝剣を地に置いてはなりません。どうかお持ちください」
「ああ、ザラント卿。久しいな」
彼女は髭面の巨躯を持つ男を認めて微笑んだ。けれどすぐに表情を引き締め、剣を顧みもしないで語りかけた。
「卿に篭城を強いたこと、我が不徳と詫びる。戦いは王太子殿下の真意ではない。殿下のお心をお話したい。どうか時間をとってはもらえまいか」
「でしたら、王太子殿下が御自らいらっしゃるべきでございました。殿下がいらっしゃるというのなら、私はそれまで待ちましょう。そうでなければ、お約束どおり、明朝、決戦といたします。どうぞお引き取りを」
言うだけ言い、背を向けた男に、彼女は、待たれよ、と声を張り上げた。
「王太子殿下はわかっておられる。卿は殿下の御前で命を絶つつもりだろうと。その一命と、スタッティフォード一領の滅亡でもって、考えを改めよとな。故に、御自らいらっしゃらなかったのだ」
男はゆったりと振り返った。
「それがわかっておられるなら、なおさらです。私は殿下にウィシュタリアの誇りを思い出していただきたいだけ」
「そのために、領民の命を贄にするというのか!」
彼女は初めて声を荒げた。
「領民は領主の所有物ではない。慈しむべき民に憎しみを植え付け、死に追いやってはならない!」
「それを、妃殿下がおっしゃいますか。王太子殿下と共に国を混乱へと導いていらっしゃるあなた様が」
「違う。我らは、来る国難に備えているだけだ」
「ならば、ご心配には及びません。我ら領主がいくらでも国を守りましょうぞ」
「卿のような者ばかりならば、それも可能だろう。しかし、現状を見よ。領主の志を忘れた者のなんと多いことか」
「ならば、それらも我ら心ある者が粛清いたしましょう」
「それだけでは、足りないのだ」
彼女の切迫した訴えに、男は泰然として返した。
「でしたら、ウィシュタリアの誇りと共に、滅ぶのみ」
「愚かなことを言うな!」
彼女はとたんに眦を吊り上げ、祖父の歳になる男を怒鳴りつけた。
主を愚弄された兵たちが色めき立つ。だが彼女はそれにはかまわず、言を続けた。
「愚にもつかぬ誇りを守るために、赤子の命や未来まで奪おうというのか! それが領主の務めか! くだらぬ意地を張る気概があるなら、その命、真に民のために捨てよ! それとも、義の将ザラントの名は、伊達か!」
「そこまでおっしゃるのでしたら、あなた様こそ死んでくださいますか。あなた様の一命と引き換えに、我らは王太子殿下の軍門に降りましょう」
「断る」
彼女は即座に答えた。そんな答えが返ると思っていなかったのであろう、男は束の間、彼女を無言で見つめた。
「それこそくだらない。卿は本気ではあるまい。口先だけの脅しだ。誰も望みもしない、なんの利もない、そんな売り言葉は買わない」
「は。あはははは」
男は耐え難いとばかりに、笑いだした。虚勢や嘲笑ではない、明るく朗らかなものだった。
「剣も投げ捨て、何十もの矢に狙われながら、そこまでおっしゃるか! あなた様は、命が惜しくはありませんのか」
「惜しいにきまっている。今さっき、死ぬのを断ったばかりだろう」
「信じられませんな。一人で敵陣に乗り込んでくるような御仁の言葉とは思えませぬ」
「敵陣ではない。我が民の城だ」
男は、ふっと笑いを引っ込めた。
「我が民の城?」
「そうだ。王太子殿下は、そう仰った」
「……そうでございましたか」
男は穏やかに笑んだ。そうして、おもむろに後ろを向くと、孫を呼ばった。
「ヘルマン、ここへ!」
すぐに容貌も背丈もよく似た若い男が横に並んだ。
「妃殿下にお願いがございます。こちらは愚孫へルマンにございます。これに私よりの言伝を託し、王太子殿下に届けさせたいと思います。どうかお力添えを願います」
「引き受けよう。必ず対面させると誓う」
「ありがとうございます。どうぞ、もう剣をお取りください。王家の宝剣を捨て置かせたままでは、臣下として申し訳が立ちません」
彼女は頷き、剣を取り上げた。
「……抜いて見せていただけませぬか」
男は思いついたように懇願した。
彼女は鞘ごと目の前に持ち上げ、右手で柄を掴んで抜き放った。それを高く頭上へと掲げる。春のうららかな日差しが刀身を彩り、眩く男の目を射った。
「有り難き幸せ。……では、用意してまいります。しばしお待ちくださいませ」
男は一礼し、孫を伴って、城門の向こうへと消えていった。
半刻後、重い鋼鉄製の正面扉が、軋みをあげて内側へと開かれた。
中央にはヘルマンと呼ばれた青年が立ち、手に一つ荷物を提げていた。緑の地の布袋だが、下部が酷く汚れている。
……いや、今もじわじわと赤黒く広がる染みは。
青年は跪き、頭を下げ、国旗に包まれたそれを前に差し出した。
「反逆者テセウス・ザラントを討ち取りましてございます。この首をもって、王太子殿下に帰順をお誓い申し上げます。どうか、お受け取りを」
彼女は小さく息を吐き、瞑目した。
「……わかった。帰順を許す。ザラント卿の言伝は、あなたがそのまま持ってくるがいい」
風の運んだ血の臭いを吸い込みながら、彼女は悼みに唇を引き結んだ。
こうしてスタッティフォード城市の乱は、領主を慕い、共に立て篭もっていた領民に被害を出すことなく収束した。
後の世に、ソラン王妃の起こした数々の奇跡の一つとして数え上げられる出来事だが、そこに名を残さず埋もれていった、英傑と呼ばれるべき人々がいたのも、また真実の一端なのだった。
風の唸りが聞こえる以外、数千の兵士が城壁を挟んで睨みあっているにもかかわらず、盾の触れ合う音すらしない。
ただ一人、包囲する軍勢から歩み出てきた騎士に、すべての人間の視線がそそがれていた。
王太子軍の緋色のマントを纏ったその騎士は、冑を脱いでいた。首の後ろでくくっただけの長い黒髪が、一歩ごとにマントと一緒に風に煽られ、揺れる。
さらされた面は秀麗にして優美。その姿は間違えようもなく、この国の王太子妃、若干二十二歳にして王国の守護女神と呼ばれる、ソラン妃殿下のものだった。
再三の降伏勧告はすべて拒絶され、明朝、夜明けを待って決戦に挑むと、城より書状が届いている。
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その真意のわからぬ者たちは、彼女の優雅な足取りを、固唾を呑んで見守るしかなかったのだった。
やがて彼女は城門にたどりつくと、その上から弓を引いて狙いを定めている見張りの一人に、声をかけた。
「我が名はソラン・ファレノ・エレ・ジェナシス・ド・シェ・ウィシュタリア。王太子殿下から平定軍の全権を委譲されている。ザラント卿と話し合いたい。取り次いでもらえるか」
彼女は、けっして威圧的ではなかった。むしろ、旧知の友人を訪ねてでもきたようだ。しかし、それでもなお、彼女は人を呑む気配を纏っていた。
不幸にも、目を見合わせた見張りは、その気配に呑まれ、一瞬、我を失った。手元がゆるみ、矢が放たれてしまう。
だが、矢は折からの強風に流され、彼女のほつれ毛をさらっただけで地面へと突き立った。彼女は動くこともなく、驚いた素振りも見せなかった。
「恐れることはない。私は一人だ。話し合いに来た。必要ならば、この宝剣も置いていこう。ザラント卿に取り次ぎを願う」
彼女は剣をはずし、地面へと置いた。
黒い握りの巻かれた地味な拵えのそれは、おそらく王家に伝わる宝剣だ。地に置いてよいものではない。その昔、王家の王子の誓願によって、これを以て国を守れと、神より与えられたと言われているものなのだ。それを、妃が戦場に立つ度に、王太子は必ず授け渡すのだった。
持つ者が持てば、天を裂き、地を割るとまで言われる神剣だ。かてて加えて、彼女は十六の時にこの剣を握って、たった一人で千人の敵を退け、聖騎士の称号を得ている。そんな者を、たとえ女であろうと、おいそれと城内に入れられるわけがなかった。
返答のないままに、幾十の弓矢に狙われること数分。
城門の上に新たな人影が立った。
「妃殿下、王家の宝剣を地に置いてはなりません。どうかお持ちください」
「ああ、ザラント卿。久しいな」
彼女は髭面の巨躯を持つ男を認めて微笑んだ。けれどすぐに表情を引き締め、剣を顧みもしないで語りかけた。
「卿に篭城を強いたこと、我が不徳と詫びる。戦いは王太子殿下の真意ではない。殿下のお心をお話したい。どうか時間をとってはもらえまいか」
「でしたら、王太子殿下が御自らいらっしゃるべきでございました。殿下がいらっしゃるというのなら、私はそれまで待ちましょう。そうでなければ、お約束どおり、明朝、決戦といたします。どうぞお引き取りを」
言うだけ言い、背を向けた男に、彼女は、待たれよ、と声を張り上げた。
「王太子殿下はわかっておられる。卿は殿下の御前で命を絶つつもりだろうと。その一命と、スタッティフォード一領の滅亡でもって、考えを改めよとな。故に、御自らいらっしゃらなかったのだ」
男はゆったりと振り返った。
「それがわかっておられるなら、なおさらです。私は殿下にウィシュタリアの誇りを思い出していただきたいだけ」
「そのために、領民の命を贄にするというのか!」
彼女は初めて声を荒げた。
「領民は領主の所有物ではない。慈しむべき民に憎しみを植え付け、死に追いやってはならない!」
「それを、妃殿下がおっしゃいますか。王太子殿下と共に国を混乱へと導いていらっしゃるあなた様が」
「違う。我らは、来る国難に備えているだけだ」
「ならば、ご心配には及びません。我ら領主がいくらでも国を守りましょうぞ」
「卿のような者ばかりならば、それも可能だろう。しかし、現状を見よ。領主の志を忘れた者のなんと多いことか」
「ならば、それらも我ら心ある者が粛清いたしましょう」
「それだけでは、足りないのだ」
彼女の切迫した訴えに、男は泰然として返した。
「でしたら、ウィシュタリアの誇りと共に、滅ぶのみ」
「愚かなことを言うな!」
彼女はとたんに眦を吊り上げ、祖父の歳になる男を怒鳴りつけた。
主を愚弄された兵たちが色めき立つ。だが彼女はそれにはかまわず、言を続けた。
「愚にもつかぬ誇りを守るために、赤子の命や未来まで奪おうというのか! それが領主の務めか! くだらぬ意地を張る気概があるなら、その命、真に民のために捨てよ! それとも、義の将ザラントの名は、伊達か!」
「そこまでおっしゃるのでしたら、あなた様こそ死んでくださいますか。あなた様の一命と引き換えに、我らは王太子殿下の軍門に降りましょう」
「断る」
彼女は即座に答えた。そんな答えが返ると思っていなかったのであろう、男は束の間、彼女を無言で見つめた。
「それこそくだらない。卿は本気ではあるまい。口先だけの脅しだ。誰も望みもしない、なんの利もない、そんな売り言葉は買わない」
「は。あはははは」
男は耐え難いとばかりに、笑いだした。虚勢や嘲笑ではない、明るく朗らかなものだった。
「剣も投げ捨て、何十もの矢に狙われながら、そこまでおっしゃるか! あなた様は、命が惜しくはありませんのか」
「惜しいにきまっている。今さっき、死ぬのを断ったばかりだろう」
「信じられませんな。一人で敵陣に乗り込んでくるような御仁の言葉とは思えませぬ」
「敵陣ではない。我が民の城だ」
男は、ふっと笑いを引っ込めた。
「我が民の城?」
「そうだ。王太子殿下は、そう仰った」
「……そうでございましたか」
男は穏やかに笑んだ。そうして、おもむろに後ろを向くと、孫を呼ばった。
「ヘルマン、ここへ!」
すぐに容貌も背丈もよく似た若い男が横に並んだ。
「妃殿下にお願いがございます。こちらは愚孫へルマンにございます。これに私よりの言伝を託し、王太子殿下に届けさせたいと思います。どうかお力添えを願います」
「引き受けよう。必ず対面させると誓う」
「ありがとうございます。どうぞ、もう剣をお取りください。王家の宝剣を捨て置かせたままでは、臣下として申し訳が立ちません」
彼女は頷き、剣を取り上げた。
「……抜いて見せていただけませぬか」
男は思いついたように懇願した。
彼女は鞘ごと目の前に持ち上げ、右手で柄を掴んで抜き放った。それを高く頭上へと掲げる。春のうららかな日差しが刀身を彩り、眩く男の目を射った。
「有り難き幸せ。……では、用意してまいります。しばしお待ちくださいませ」
男は一礼し、孫を伴って、城門の向こうへと消えていった。
半刻後、重い鋼鉄製の正面扉が、軋みをあげて内側へと開かれた。
中央にはヘルマンと呼ばれた青年が立ち、手に一つ荷物を提げていた。緑の地の布袋だが、下部が酷く汚れている。
……いや、今もじわじわと赤黒く広がる染みは。
青年は跪き、頭を下げ、国旗に包まれたそれを前に差し出した。
「反逆者テセウス・ザラントを討ち取りましてございます。この首をもって、王太子殿下に帰順をお誓い申し上げます。どうか、お受け取りを」
彼女は小さく息を吐き、瞑目した。
「……わかった。帰順を許す。ザラント卿の言伝は、あなたがそのまま持ってくるがいい」
風の運んだ血の臭いを吸い込みながら、彼女は悼みに唇を引き結んだ。
こうしてスタッティフォード城市の乱は、領主を慕い、共に立て篭もっていた領民に被害を出すことなく収束した。
後の世に、ソラン王妃の起こした数々の奇跡の一つとして数え上げられる出来事だが、そこに名を残さず埋もれていった、英傑と呼ばれるべき人々がいたのも、また真実の一端なのだった。
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