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第十章 バートリエ事変
閑話 聖なる2
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まるで、裁きの神パルテノスのようだと思った。
人は死ぬと冥界の入り口で裁きを受けるのだという。現世で犯した罪は生きている間に償うべきものだが、それが足りなければ、地獄で罪を贖わなければならないのだそうだ。何度殺されても、どれほど責められても、決して死ねない魂の姿で。
魂を裁き、罰を与えるのがパルテノスだ。かの神は美しく、残酷だと言われている。どんなに容赦を請おうと、言い訳をしようと、一切受け付けず、ただ理に則って裁きを下していくと。
ソラン様もまた、一片の慈悲も見せなかった。
恐ろしかった。体が震えだすほど恐ろしかった。
あの夜から始まった悪夢に、どれほど嫌だと、怖いと、助けてと叫んだか知れない。それは聞き入れられることはなく、むしろ嘲笑われた。抗うこともできず、蹂躙されるしかなかった。
あの無力感が甦った。ソラン様の前に立った男たちが感じているだろうそれを、一体となって感じていた。
恐怖に震えながら、もっと、と思った。もっと、苦しめ、もっと、絶望しろ、もっと、もっと、もっと、ただ死なせてなどやるものか、泣き叫べ、そして惨めに、惨たらしく死ね、意味なきもののように、屠られろ。
暗い悦びに心が震えた。奴らに植え付けられた闇が体中に広がり、流される血に酔い痴れた。
なのに。
『おまえは、一人でも、そうやって命乞いをした者を助けたことがあるか?』
冷や水を浴びせられた心地がした。突然、我に返った。
いた、のだ、あの地獄の最中に、確かに、そうした者がいた。
赤ん坊や小さな子供は服を脱がされ性別を確かめられた。そうして連れて行かれてしまった子もいた。でも、見て見ぬ振りをした男たちも、いたのだ。
若い娘に子供の服を着て汚物を体にすり込めと囁いた男も。一晩中呼び出しておいて辱めを与えなかった男も。
いた、のだ。
憎い、憎い、憎い男たちの中に!
たとえ一人でも赦されるなど、耐えられなかった。奴らが私たちからすべてを奪ったのだ。愛しいものも、優しいものも、幸せも、過去も、未来も。奴らが、生きることを煉獄へと変えてしまった。
この世に一欠片も残さず抹消してやりたかった。そして地獄でパルテノスに責め苦を負わされればいい。
けれど。『命乞いをした者を助けたことがあるか?』。
助けなければ、私は奴らと同じモノになる。
ソラン様に裁かれるべきモノに成り果てる。
血を浴びて尚、聖なる輝きを失うことのない方。
なぜパルテノスが残酷でありながら美しいと言われるのか、わかった気がした。
気付けば、冷たい風が吹いていた。たくさんの兵が決闘を見守っていた。
ラショウと目が合った。硬い岩を鑿で削ったようなご面相な人。でも、その瞳はいつでも雄弁で、覗き込めばなんでもわかった。だから、気付いた。まだ愛されていると。
いいえ、違う。本当はずっと知っていた。助けに来てくれた時から。逃げる私を呼んだ声を聞いた時から。
だけど、私が受け入れられなかった。彼とあの男たちの違いがわからなかった。共に生き残った彼女たち以外、世界のすべてを失ったと思っていた。それに、この体の中には、奴らの植えつけた闇以外にも、命が宿っているかもしれないのだ。どこの誰とも知らぬ輩の子が。
目は彼から先にそらされた。彼は立会人としての責務に戻っていった。彼もまた重いものを背負い、黙って耐えてそこに立っていた。私の、私たちの痛みに、彼も傷ついて、共に背負おうとしてくれていた。
心が漣に揺すられる。本当は何も感じたくなんかないのに。憎んで恨んで蔑んで奴らと同じモノになってしまえれば、楽なのに。私は諦めてしまいたいのに。消えて無くなってしまいたいのに。
涙があふれる。あふれて彼が、ソラン様が見えなくなった。
「エレーナ」
心配した、隣にいたアウラが肩を抱いてくれる。
「違うの。何でもないの」
そう伝えれば、彼女はそれ以上何も聞かずに、黙ってそのままでいてくれた。彼女も泣いていたのかもしれない。他の皆も。
涙が出るにまかせ、しばらく目を押さえていた。後ろで赤ん坊が泣きだす声が聞こえた。それをあやす声も。
振り返ると、誰もが悲しみに疲れきった顔をしていた。子供たちでさえ、母親に取りついて縮こまっている。
私が、私たちが諦めたら、彼女たちの、そしてこの子たちの未来さえ奪うことになる。他でもない、私が。奪われた痛みを知る、私たちが。
だから、私たちは。
生きないと。
「子供たちを見逃してくれた男の顔を覚えている?」
痛みを堪えた視線が幾つもこちらに向けられる。
「辱めを与えなかった男の顔を覚えている?」
全員が私を見ていた。
「私たちは、ソラン様に恥じない生き方をしなければいけない。命懸けで救いの手を差し伸べてくださったあの方に」
涙が再び出てくる。嗚咽交じりで彼女たちに頼む。
「お願い。一緒に助命をお願いして」
誰も答えてくれない。それでも言葉を重ねる。しゃくりあげながら、切れ切れに。
「ごめんね。苦しいのはわかるの。赦せないのも。私だって、赦したくないもの。だけど、私たち、このままじゃ本当に何もかも失くしてしまう。私たちが、あの方に相応しい人間にならないと、きっと、どんなに助けようとしてくださっても、駄目になってしまう。あいつらと同じモノになってしまう。それだけは、駄目。お願い、一緒にお願いして、一緒に、……一緒に、生きて」
必死に搾り出した声が、無様に裏返った。それに、傍にいた何人かが手を差し伸べてくれた。それがきっかけだった。誰もが泣きながら、寄り添いあう。冷え切った体を寄せあって、痛みを分かちあう。
お互いのぬくもりに少しだけ痛みが和らぐまで、私たちは世界の片隅で泣くしかなかった。
残酷なほどに優しく、無慈悲なほどに美しい、血を浴びて尚、聖なる輝きを失わない方。
私たちの心に残った小さな光に、力を注いでくれる奇跡。
ソラン様は、私たちの大切な方。
人は死ぬと冥界の入り口で裁きを受けるのだという。現世で犯した罪は生きている間に償うべきものだが、それが足りなければ、地獄で罪を贖わなければならないのだそうだ。何度殺されても、どれほど責められても、決して死ねない魂の姿で。
魂を裁き、罰を与えるのがパルテノスだ。かの神は美しく、残酷だと言われている。どんなに容赦を請おうと、言い訳をしようと、一切受け付けず、ただ理に則って裁きを下していくと。
ソラン様もまた、一片の慈悲も見せなかった。
恐ろしかった。体が震えだすほど恐ろしかった。
あの夜から始まった悪夢に、どれほど嫌だと、怖いと、助けてと叫んだか知れない。それは聞き入れられることはなく、むしろ嘲笑われた。抗うこともできず、蹂躙されるしかなかった。
あの無力感が甦った。ソラン様の前に立った男たちが感じているだろうそれを、一体となって感じていた。
恐怖に震えながら、もっと、と思った。もっと、苦しめ、もっと、絶望しろ、もっと、もっと、もっと、ただ死なせてなどやるものか、泣き叫べ、そして惨めに、惨たらしく死ね、意味なきもののように、屠られろ。
暗い悦びに心が震えた。奴らに植え付けられた闇が体中に広がり、流される血に酔い痴れた。
なのに。
『おまえは、一人でも、そうやって命乞いをした者を助けたことがあるか?』
冷や水を浴びせられた心地がした。突然、我に返った。
いた、のだ、あの地獄の最中に、確かに、そうした者がいた。
赤ん坊や小さな子供は服を脱がされ性別を確かめられた。そうして連れて行かれてしまった子もいた。でも、見て見ぬ振りをした男たちも、いたのだ。
若い娘に子供の服を着て汚物を体にすり込めと囁いた男も。一晩中呼び出しておいて辱めを与えなかった男も。
いた、のだ。
憎い、憎い、憎い男たちの中に!
たとえ一人でも赦されるなど、耐えられなかった。奴らが私たちからすべてを奪ったのだ。愛しいものも、優しいものも、幸せも、過去も、未来も。奴らが、生きることを煉獄へと変えてしまった。
この世に一欠片も残さず抹消してやりたかった。そして地獄でパルテノスに責め苦を負わされればいい。
けれど。『命乞いをした者を助けたことがあるか?』。
助けなければ、私は奴らと同じモノになる。
ソラン様に裁かれるべきモノに成り果てる。
血を浴びて尚、聖なる輝きを失うことのない方。
なぜパルテノスが残酷でありながら美しいと言われるのか、わかった気がした。
気付けば、冷たい風が吹いていた。たくさんの兵が決闘を見守っていた。
ラショウと目が合った。硬い岩を鑿で削ったようなご面相な人。でも、その瞳はいつでも雄弁で、覗き込めばなんでもわかった。だから、気付いた。まだ愛されていると。
いいえ、違う。本当はずっと知っていた。助けに来てくれた時から。逃げる私を呼んだ声を聞いた時から。
だけど、私が受け入れられなかった。彼とあの男たちの違いがわからなかった。共に生き残った彼女たち以外、世界のすべてを失ったと思っていた。それに、この体の中には、奴らの植えつけた闇以外にも、命が宿っているかもしれないのだ。どこの誰とも知らぬ輩の子が。
目は彼から先にそらされた。彼は立会人としての責務に戻っていった。彼もまた重いものを背負い、黙って耐えてそこに立っていた。私の、私たちの痛みに、彼も傷ついて、共に背負おうとしてくれていた。
心が漣に揺すられる。本当は何も感じたくなんかないのに。憎んで恨んで蔑んで奴らと同じモノになってしまえれば、楽なのに。私は諦めてしまいたいのに。消えて無くなってしまいたいのに。
涙があふれる。あふれて彼が、ソラン様が見えなくなった。
「エレーナ」
心配した、隣にいたアウラが肩を抱いてくれる。
「違うの。何でもないの」
そう伝えれば、彼女はそれ以上何も聞かずに、黙ってそのままでいてくれた。彼女も泣いていたのかもしれない。他の皆も。
涙が出るにまかせ、しばらく目を押さえていた。後ろで赤ん坊が泣きだす声が聞こえた。それをあやす声も。
振り返ると、誰もが悲しみに疲れきった顔をしていた。子供たちでさえ、母親に取りついて縮こまっている。
私が、私たちが諦めたら、彼女たちの、そしてこの子たちの未来さえ奪うことになる。他でもない、私が。奪われた痛みを知る、私たちが。
だから、私たちは。
生きないと。
「子供たちを見逃してくれた男の顔を覚えている?」
痛みを堪えた視線が幾つもこちらに向けられる。
「辱めを与えなかった男の顔を覚えている?」
全員が私を見ていた。
「私たちは、ソラン様に恥じない生き方をしなければいけない。命懸けで救いの手を差し伸べてくださったあの方に」
涙が再び出てくる。嗚咽交じりで彼女たちに頼む。
「お願い。一緒に助命をお願いして」
誰も答えてくれない。それでも言葉を重ねる。しゃくりあげながら、切れ切れに。
「ごめんね。苦しいのはわかるの。赦せないのも。私だって、赦したくないもの。だけど、私たち、このままじゃ本当に何もかも失くしてしまう。私たちが、あの方に相応しい人間にならないと、きっと、どんなに助けようとしてくださっても、駄目になってしまう。あいつらと同じモノになってしまう。それだけは、駄目。お願い、一緒にお願いして、一緒に、……一緒に、生きて」
必死に搾り出した声が、無様に裏返った。それに、傍にいた何人かが手を差し伸べてくれた。それがきっかけだった。誰もが泣きながら、寄り添いあう。冷え切った体を寄せあって、痛みを分かちあう。
お互いのぬくもりに少しだけ痛みが和らぐまで、私たちは世界の片隅で泣くしかなかった。
残酷なほどに優しく、無慈悲なほどに美しい、血を浴びて尚、聖なる輝きを失わない方。
私たちの心に残った小さな光に、力を注いでくれる奇跡。
ソラン様は、私たちの大切な方。
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