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第八章 思い交わす時
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「アーサーとリリアは親子だったのだな。そう言われてみると、髪と目の色が同じだ」
殿下が二人をたっぷりと見比べ、脈絡もなく言った。
「リリアは妻に似ましたからな」
「二人が親子であることを知っている者は、少ないのであろう? それとも、今回のように私だけが知らなかったのか?」
「いいえ。陛下に王妃陛下、将軍、宰相、エルファリア様、そのくらいでしょうか」
「なぜ、それほどまでして隠した? それは、ソランの前世に関係があるのか?」
祖父は母に目を遣った。
「何をお知りになりたいのですか?」
母が尋ねる。
「あなたたちが知っていることをすべて。いや、違うな」
ソランを振り返り、手を取る。急にはじまった核心に近付く話に、かたく握り締めたそれを、ほぐすように一回り大きい手で包み込む。
「語れぬことは語らなくていい。聞かぬ方が良いこともあろう。ただ、ソランの助けとなることを。頼む」
母は一度目を瞑り、己の剣の柄に触れた。一呼吸。再び目を開いた時、その瞳には巫女の神秘を宿していた。そこにハレイ山脈の威容が重なって見え、確かにマイラの神威が彼女の上に降りていることを確信する。
あたりを薙ぎ払う清冽さは、いつか剣を抜いた母を前にして感じた恐怖と通じていた。ソランは気付き、驚いた。女神の神威。それが、彼女の強さの秘密であったのだ。
女神は与える神であるが、奪う神でもある。すべての命の母であり、生まれせしめ、豊穣と繁栄を与えるが、必ず例外なく生まれた命を縊る神なのだ。厳然とした秩序を守る神。
母は、その神の負の力を一身に受けている。
ソランは慄然とした。縊る神の凶器となるなど、人の身にはあまりに過ぎ、並みの精神では耐えられることではない。
「ソランは何を知りたい?」
母の声ではなかった。いや、母の声であった。だが、そこにのせられた響きに瞠目する。
「女神」
呟いたソランに、母は厳しい顔で首を横に振った。
「私に女神の言葉を伝える能力はない。それはおまえの祖母の役目だった。私にできるのは敵を屠(ほふ)ること」
ソランは母に科せられた役目の痛ましさに、奥歯を噛み締めた。
「嘆かなくていい。女神の剣であることは、私の喜びだ」
ソランは頷いた。同情は彼女を、ひいては女神を貶めることでしかない。神々は人間の理を越えたところに在る。人の、それも感情を交えた物差しで測ってよいものではない。
「私は」
失われた神なのか? 違う。そんなことはどうでもいい。そうだったとしても、強大な不思議な力を持っているわけではないのだから。ソランはただの人間でしかない。己の努力によって身につけたものしか、持ってはいない。そうではなくて、最も知りたいのは。
「私は、災いをもたらす存在なのですか?」
「ちがう」
一瞬の間もなかった。間髪おかず否定される。
「おまえは、祝福の娘。女神の喜び。世界も歓喜しているではないか。祭りの度に、おまえは世界の喜びに共感するだろう。あの歌のとおりだ。世界はおまえの欠片であり、おまえがいることで、まったき姿となるのだ」
「欠片? 世界が? 私ではなく?」
母は頷いた。
「おまえの欠片だ。世界は失われた神の欠片によって繋ぎ止められているのだから」
ソランは眩暈を覚え、目を瞑った。無意識に、繋がれた殿下の手を強く握り締めた。
「たとえそうであっても、失われた神は、二度も宝剣の主に死を与えました」
「いいや、守ったんだ。殺したのはセルレネレス」
「なぜ」
「嫉妬だ。失われた神は、かの神の最も愛した子だった。だから、心を奪った男を殺した。それだけでは足りず、男の生まれてくるだろう世界も壊そうとした」
「そんなことで」
胸の中で、突然、何かがひっくり返った。
そこから嘆きの涙が零れだし、あふれ、揺れる。そのさざなみが、ソランの感情を揺さぶる。それは、ソランのものであってソランのものではない記憶だった。
悲しかった。ただただ悲しかった。圧倒的なそれに流され、溺れそうになる。
「ソラン」
いたわる声とともに頬を拭われ、目を開ける。殿下が心配げに顔を覗き込んでいた。
――ああ。いつか、こんな気持ちの時に、同じ声に呼ばれた。
失ったはずの愛しいその声に、しがみつく。
ソランは体を倒し、殿下の胸元に顔を押しつけた。胸が痛くて痛くて涙が止まらなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。殿下の心音に安心を与えられ、包み込まれる感覚に体がほぐれていく。それにつれて、洪水のような感情は治まり、己が返ってくる。
ソランは長い息を吐いた。額に口付けを受け、顔を上げる。
「落ち着いたか?」
「はい」
殿下の微笑みにつられ、ぎこちなく笑った。体を起こし、離れ、鼻を啜る。いつの間にか手渡されていたハンカチはびしょぬれで、最早あまり用をなしていない。恥ずかしさを感じながら、居合わせた人たちに謝った。
「すみません、話の途中で」
母が横に首を振りながら言った。
「必要だったこと。女神は忘却をくださるが、魂に何も残らないわけではないんだ。それが時に、理由もわからない障害になることがある。殿下にも心当たりがあるはずですね。あなたは矢に狙われると、恐怖に動きが鈍くなられる」
「ああ。そうだ」
「それはセルレネレスの呪いの矢を受けたからです。それによって、あなたは死の痛みをかかえて一昼夜苦しんだ。今はもう、理解できますね?」
「ああ」
「でしたら、二人とも、もう大丈夫です。恐れることは何もありません。あなたたちの上には、常に女神と世界の祝福がある」
母は剣の柄から手を離した。
殿下が二人をたっぷりと見比べ、脈絡もなく言った。
「リリアは妻に似ましたからな」
「二人が親子であることを知っている者は、少ないのであろう? それとも、今回のように私だけが知らなかったのか?」
「いいえ。陛下に王妃陛下、将軍、宰相、エルファリア様、そのくらいでしょうか」
「なぜ、それほどまでして隠した? それは、ソランの前世に関係があるのか?」
祖父は母に目を遣った。
「何をお知りになりたいのですか?」
母が尋ねる。
「あなたたちが知っていることをすべて。いや、違うな」
ソランを振り返り、手を取る。急にはじまった核心に近付く話に、かたく握り締めたそれを、ほぐすように一回り大きい手で包み込む。
「語れぬことは語らなくていい。聞かぬ方が良いこともあろう。ただ、ソランの助けとなることを。頼む」
母は一度目を瞑り、己の剣の柄に触れた。一呼吸。再び目を開いた時、その瞳には巫女の神秘を宿していた。そこにハレイ山脈の威容が重なって見え、確かにマイラの神威が彼女の上に降りていることを確信する。
あたりを薙ぎ払う清冽さは、いつか剣を抜いた母を前にして感じた恐怖と通じていた。ソランは気付き、驚いた。女神の神威。それが、彼女の強さの秘密であったのだ。
女神は与える神であるが、奪う神でもある。すべての命の母であり、生まれせしめ、豊穣と繁栄を与えるが、必ず例外なく生まれた命を縊る神なのだ。厳然とした秩序を守る神。
母は、その神の負の力を一身に受けている。
ソランは慄然とした。縊る神の凶器となるなど、人の身にはあまりに過ぎ、並みの精神では耐えられることではない。
「ソランは何を知りたい?」
母の声ではなかった。いや、母の声であった。だが、そこにのせられた響きに瞠目する。
「女神」
呟いたソランに、母は厳しい顔で首を横に振った。
「私に女神の言葉を伝える能力はない。それはおまえの祖母の役目だった。私にできるのは敵を屠(ほふ)ること」
ソランは母に科せられた役目の痛ましさに、奥歯を噛み締めた。
「嘆かなくていい。女神の剣であることは、私の喜びだ」
ソランは頷いた。同情は彼女を、ひいては女神を貶めることでしかない。神々は人間の理を越えたところに在る。人の、それも感情を交えた物差しで測ってよいものではない。
「私は」
失われた神なのか? 違う。そんなことはどうでもいい。そうだったとしても、強大な不思議な力を持っているわけではないのだから。ソランはただの人間でしかない。己の努力によって身につけたものしか、持ってはいない。そうではなくて、最も知りたいのは。
「私は、災いをもたらす存在なのですか?」
「ちがう」
一瞬の間もなかった。間髪おかず否定される。
「おまえは、祝福の娘。女神の喜び。世界も歓喜しているではないか。祭りの度に、おまえは世界の喜びに共感するだろう。あの歌のとおりだ。世界はおまえの欠片であり、おまえがいることで、まったき姿となるのだ」
「欠片? 世界が? 私ではなく?」
母は頷いた。
「おまえの欠片だ。世界は失われた神の欠片によって繋ぎ止められているのだから」
ソランは眩暈を覚え、目を瞑った。無意識に、繋がれた殿下の手を強く握り締めた。
「たとえそうであっても、失われた神は、二度も宝剣の主に死を与えました」
「いいや、守ったんだ。殺したのはセルレネレス」
「なぜ」
「嫉妬だ。失われた神は、かの神の最も愛した子だった。だから、心を奪った男を殺した。それだけでは足りず、男の生まれてくるだろう世界も壊そうとした」
「そんなことで」
胸の中で、突然、何かがひっくり返った。
そこから嘆きの涙が零れだし、あふれ、揺れる。そのさざなみが、ソランの感情を揺さぶる。それは、ソランのものであってソランのものではない記憶だった。
悲しかった。ただただ悲しかった。圧倒的なそれに流され、溺れそうになる。
「ソラン」
いたわる声とともに頬を拭われ、目を開ける。殿下が心配げに顔を覗き込んでいた。
――ああ。いつか、こんな気持ちの時に、同じ声に呼ばれた。
失ったはずの愛しいその声に、しがみつく。
ソランは体を倒し、殿下の胸元に顔を押しつけた。胸が痛くて痛くて涙が止まらなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。殿下の心音に安心を与えられ、包み込まれる感覚に体がほぐれていく。それにつれて、洪水のような感情は治まり、己が返ってくる。
ソランは長い息を吐いた。額に口付けを受け、顔を上げる。
「落ち着いたか?」
「はい」
殿下の微笑みにつられ、ぎこちなく笑った。体を起こし、離れ、鼻を啜る。いつの間にか手渡されていたハンカチはびしょぬれで、最早あまり用をなしていない。恥ずかしさを感じながら、居合わせた人たちに謝った。
「すみません、話の途中で」
母が横に首を振りながら言った。
「必要だったこと。女神は忘却をくださるが、魂に何も残らないわけではないんだ。それが時に、理由もわからない障害になることがある。殿下にも心当たりがあるはずですね。あなたは矢に狙われると、恐怖に動きが鈍くなられる」
「ああ。そうだ」
「それはセルレネレスの呪いの矢を受けたからです。それによって、あなたは死の痛みをかかえて一昼夜苦しんだ。今はもう、理解できますね?」
「ああ」
「でしたら、二人とも、もう大丈夫です。恐れることは何もありません。あなたたちの上には、常に女神と世界の祝福がある」
母は剣の柄から手を離した。
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