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第七章 不死人(ふしびと)
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殿下の胸元は、マリーや女の子たちを抱きしめるのとは、ぜんぜん違う感触だった。父や祖父の抱擁とも違う。広いそこに囲い込まれていると、感じたこともないほどの大きな安堵に包まれた。
ソランは満足の溜息を吐いた。男の匂いとしかいいようのないものが鼻腔をくすぐり、体の力が抜けていく。
だから、じっとして殿下に身を任せていた。とても心が満たされて、何も考えられなかった。うっとりとし、眠たくなってくる。昼間は汗だくになるまで鍛錬をしたし、お酒も入っている。彼女は殿下に取りすがったまま、半分眠りに落ちかけていた。
ところが。繋いでいた指が離され、その手が背中をゆっくりと撫で上げた。その感覚に、びくりとする。うなじで止められ、支えられて、少し身を離した殿下に、顔を覗きこまれた。
顔のすべてを見ることができないほど近くで、瞳がかち合う。熱を孕んだそれから視線をそらすことができず、ソランは目を見開いて体を強張らせた。
得体の知れない焦燥と恐怖に身がすくむ。なのに熱が体を焼きつけて殿下へと留めつけてしまい、逃げ出すことができなかった。
――なに? なになになに? なんだろう?
同じ言葉がぐるぐる頭の中を回る状態で、少し仰向くように殿下を見つめ続けた。
殿下は微かに眉を顰めた。
「怖がるな。取って喰ったりはせん」
そして体を離した。ソランは安心と寂しさの両方に同時に襲われた。
「べつに、取って喰われるとは思っていませんが」
「ふうん?」
どこか小馬鹿にした様子で言う。ソランはむきになって言い募った。
「心地よくてうつらうつらしていたので、急に背中を撫でられて、びっくりしただけです」
「心地よかったのか」
笑いを含んで聞き返され、大きく頷いた。
「はい。うたた寝をしていて、ベッドに運んでもらうような感じです」
殿下はソランを見たまま、くっと笑いを零した。次いで、くっくっくっくっと堪え切れずに屈みこむ。手近にあったクッションに顔を埋め、声を殺しているようだった。
やがて笑い疲れた様子で、殿下はクッションに寄りかかりながら起き上がった。
「私はおまえに随分と信頼されているのだな」
「信頼しておりますよ」
何を当然のことを言っているのか。ソランは意外に思った。
「そうか」
殿下は思案気にしながら、置きっ放しだった杯を取り上げ、もう一杯注ぐようにと、ソランへと突き出した。
ソランは酒瓶を取り、完璧な所作で杯を満たした。じっと見ていた殿下に、どうぞ、という意味で、にこりと笑いかける。
「そうだな。もう少し慣れてもらう必要があるか」
酒で口を湿らせた殿下は、そう言った。ソランは問い返すように首を傾げた。
「あの程度で一々怯えられては、これから先、婚約者扱いするのに支障が出よう」
「それは」
――そうかもしれないが。
ソランは少し後退った。殿下がムッとした顔をする。
「慣れろと言ったのだが、理解できなかったか」
「でしたら、その、からかって遊ぼうという悪戯心に満ちた目はやめてください」
「からかおうなどと思ってはおらん」
――嘘だ。今だって、人の悪い笑みでニヤリとしたではないか。
「誘惑してるだけだ」
そう言った殿下は、杯の側面にキスをし、ソランに送るように掲げて見せた。
ソランはその色っぽい仕草に思わず見惚れ、我に返った瞬間、頭に血が上り、真っ赤になった。
――この、我儘傲慢いじめっ子王子めー!
何か言い返したくて口をぱくぱくするのに言葉にならず、真っ赤な顔で睨みつけるソランを見て、殿下はまたもや笑い転げたのだった。
ソランは満足の溜息を吐いた。男の匂いとしかいいようのないものが鼻腔をくすぐり、体の力が抜けていく。
だから、じっとして殿下に身を任せていた。とても心が満たされて、何も考えられなかった。うっとりとし、眠たくなってくる。昼間は汗だくになるまで鍛錬をしたし、お酒も入っている。彼女は殿下に取りすがったまま、半分眠りに落ちかけていた。
ところが。繋いでいた指が離され、その手が背中をゆっくりと撫で上げた。その感覚に、びくりとする。うなじで止められ、支えられて、少し身を離した殿下に、顔を覗きこまれた。
顔のすべてを見ることができないほど近くで、瞳がかち合う。熱を孕んだそれから視線をそらすことができず、ソランは目を見開いて体を強張らせた。
得体の知れない焦燥と恐怖に身がすくむ。なのに熱が体を焼きつけて殿下へと留めつけてしまい、逃げ出すことができなかった。
――なに? なになになに? なんだろう?
同じ言葉がぐるぐる頭の中を回る状態で、少し仰向くように殿下を見つめ続けた。
殿下は微かに眉を顰めた。
「怖がるな。取って喰ったりはせん」
そして体を離した。ソランは安心と寂しさの両方に同時に襲われた。
「べつに、取って喰われるとは思っていませんが」
「ふうん?」
どこか小馬鹿にした様子で言う。ソランはむきになって言い募った。
「心地よくてうつらうつらしていたので、急に背中を撫でられて、びっくりしただけです」
「心地よかったのか」
笑いを含んで聞き返され、大きく頷いた。
「はい。うたた寝をしていて、ベッドに運んでもらうような感じです」
殿下はソランを見たまま、くっと笑いを零した。次いで、くっくっくっくっと堪え切れずに屈みこむ。手近にあったクッションに顔を埋め、声を殺しているようだった。
やがて笑い疲れた様子で、殿下はクッションに寄りかかりながら起き上がった。
「私はおまえに随分と信頼されているのだな」
「信頼しておりますよ」
何を当然のことを言っているのか。ソランは意外に思った。
「そうか」
殿下は思案気にしながら、置きっ放しだった杯を取り上げ、もう一杯注ぐようにと、ソランへと突き出した。
ソランは酒瓶を取り、完璧な所作で杯を満たした。じっと見ていた殿下に、どうぞ、という意味で、にこりと笑いかける。
「そうだな。もう少し慣れてもらう必要があるか」
酒で口を湿らせた殿下は、そう言った。ソランは問い返すように首を傾げた。
「あの程度で一々怯えられては、これから先、婚約者扱いするのに支障が出よう」
「それは」
――そうかもしれないが。
ソランは少し後退った。殿下がムッとした顔をする。
「慣れろと言ったのだが、理解できなかったか」
「でしたら、その、からかって遊ぼうという悪戯心に満ちた目はやめてください」
「からかおうなどと思ってはおらん」
――嘘だ。今だって、人の悪い笑みでニヤリとしたではないか。
「誘惑してるだけだ」
そう言った殿下は、杯の側面にキスをし、ソランに送るように掲げて見せた。
ソランはその色っぽい仕草に思わず見惚れ、我に返った瞬間、頭に血が上り、真っ赤になった。
――この、我儘傲慢いじめっ子王子めー!
何か言い返したくて口をぱくぱくするのに言葉にならず、真っ赤な顔で睨みつけるソランを見て、殿下はまたもや笑い転げたのだった。
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