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 ノックがした。
「はーい」
「ママから連絡あったよ。今日は向こうに泊るって」
 とパパが報告する。
「うん。わかった」
「お父さん、散髪に行ってくる」
「うん」
「夕食、考えといて」
「はい」
 父が出かけるのを見送った。

 一人になって、私はようやく泣けた。父の散髪は嘘かもしれない。こんなときに私を一人残して、髪を切りに行ってしまう父親がいるのだろうか。娘が泣いているのに。寂しくて、悲しんでいるのに。そりゃ、死んだのは他人のたーくんですよ。でもね、たーくんは特別だったの。好意があったわけじゃない。血もつながっていないし、血液型も違う。しかし、友達でもなくて、ただの知り合いでもなかった。何度もごはんを一緒に食べたし、何度も一緒に出かけた。むうちゃんがいなければたーくんに出会わなかった。私が生まれたときにはもう二人は一緒に暮らしていた。身近な人がまだ誰も死んでいない。だからむうちゃんの気持ちがわからない。心がからっぽになってしまうのかな。

 こんなときに父が不倫をしていても、別に何とも思わない。男前なのだからしょうがない。たーくんはそんなにいい顔ではなかった。もやしに似ていた。むうちゃんはたーくんのどこが好きだったのだろう。主従関係はなかった。虐げられてもいない。対等とも言い切れない。男と女だからだろうか。
 むうちゃんも前は漫画以外も描いていた。キャンバスに向かって空とか花とかを描いていた。最近はめっきり見ない。たーくんに遠慮しているのではなくて、畑違いとでも思っているのかな。そういうむうちゃんの絵も割と好き。時間がないのはわかるけれど、これからまた描き出したりするのかな。たーくんがいなければ少しは時間に余裕ができるもの。でも、それってたーくんがいないことを余計に感じてしまう行為なんじゃないだろうか。前みたいに、
「この色、どう?」
 って聞けないんだもん。私もだ。たーくんに一度もむうちゃんのどこが好きって聞いたことなかったな。一緒にいることが当たり前すぎる二人だった。

 父はすぐに帰って来た。本当に散髪をしていた。お土産にケーキ屋のプリンを3つ買って来た。
「切りすぎちゃったかな。これからもっと寒くなるのに」
 と襟足を気にしている。
「いいんじゃない?」
「夕食決めた?」
 鈍感な父は私の涙の痕跡には気づかない。
「まだ夕方だよ」
「早いほうがすいていていいじゃないか」
「じゃあラーメン」
 とわざと元気なふりして私は答えた。
「お昼がピザだったから、もっと野菜を取らないと。会社の人間がホテルのビュッフェがおいしいって言ってたな」
「高いんじゃない?」
「いいよ。そのために働いてるんだから」
「老後のためじゃないの?」
「家族の幸せのためだよ。パパはそこそこ高給取りだから、私立の中学に行ってもいいぞ。大学まで楽だろうし」
「子どもに楽させたいの?」
「させたいよ」
「困難の経験をしないといい大人になれない」
「今、辛い経験をしているじゃないか」
「そうね、確かに」
 見抜かれていたのか。当然かも。たーくんが死んで、平然でいられるわけがない。だから父は私に楽しいことを体験させてくれているのだ。ピザとか、短いアシンメトリーの髪型とか。
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