初愛シュークリーム

吉沢 月見

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★忙しくても

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 利紗子のパソコンをうっかり見てしまった。
『こっちに来てからまだお金を稼いでいない。お願いですから仕事をください 海豹ゆめ』
 利紗子は自分が海豹に似ていると思っているのだろうか。前髪なしのセンターわけだから? 
 海豹というよりはアシカのほうが似ている。ペンネームのようなものなのだろうか。
 焦っても、お金は逃げるだけだ。私だって、シュークリームの利益は然程ない。表面上はお金を得ていても材料費や光熱費に消えてゆく。
 あんなに貯金があるのになぜ利紗子は不安なのだろう。傲慢なタイプでもないと思う。
 ようやく私は車の免許を取得した。試験の日は利紗子が免許センターのある市までついてきてくれた。
「駅から遠いでしょ?」
「でも利紗子、時間潰せる?」
「ほら、交通センターの目の前にカフェマーク」
 利紗子がスマホを見せる。
「じゃあ、悪いけど本でも読んで待ってて」
「うん。そうする」
 車で1時間ほどかかった。電車だと気づかないけど、下っている。高低差があるのだ。振り向いたら私たちが暮らしている山が遠ざかっていった。
 利紗子がスマホで見たレストマークは困ったことにカフェでも喫茶店でもなくステーキと書かれている。
「他の店探すわ」
 と利紗子は広い駐車場をぐるりと回った。
 またここまで来るのは面倒だから、なんとか一発合格を目指したい。
 車を運転できるようになれば利紗子の負担も減るはず。なるべくネットで注文できるものはしているが、食材は買いに行かざるを得ないし、ゴミ袋などの必需品も近くのホームセンターのほうが割安。利紗子と出かけるのも好きだけれど、一人で行けるようになれば利紗子は自分の仕事に集中できるだろう。
 利紗子の仕事のことはよくわからないが、ホームページを作ってくれて嬉しかった。私に、
「どうしたい?」
 とも聞かない。希望がないから丸投げしたい。デザイン重視なのか黒っぽいのは嫌だけど、店名から新緑をイメージして緑も多用してくれたから文句はない。
 書類を提出して、視力検査をクリア。いよいよ試験だ。
 昔から、勉強はなぜかよくできた。でも勉強は好きじゃなかった。大人になるまで人を好きにならなかった。ほぼ  全員が敵だと思っていた。親がよく海外に行く人で、差別をどこでも感じていたからだと思う。平和な日本に戻るとほっとした。料理も肉じゃがが一番好き。ケーキはどこの国にもあった。そして、それを食べるとみんな幸せそうだった。ニューヨークもみんな服は黒なのに、なぜかケーキは色鮮やか。フランスは本当に、ショーケースが宝石箱みたい。ぼんやりとその道に進みたいなと思い始めていた。
 菓子職人になることに親は反対した。反対されると頑なになってしまうタイプだ。だから進むしかなかった。大学を中退してからは親とは疎遠。縁を切りたいのに、情けないことに金の無心が過去に数回。向こうからの連絡は完全にない。ただ家の鍵を変えないのが彼らの愛なのだろう。
 今は、楽しくやってますよ。大事な人もいるし、生活の中に敵がいない。変えてくれたのは利紗子だ。オーナーは師匠だから尊敬しているし、要領のいい人は見ているだけで羨ましい。ホテルで働いたときに痛感した。人を想って動ける人ってすごい。しかし、それは腕前と比例しない。むしろ要領のいい人ほどずるくて努力をしない。自分が楽になることばかりを考えて仕事をしなくなる。お菓子作りは楽しい。膨らむ、色となる果物を混ぜ、甘く、おいしい。
 運は信じないほう。努力が結果に結びつくと信じている。そして今は人も少し信じている。
 利紗子はどうしているだろうか。家にいるときは部屋着みたいな恰好のくせに、なぜ外出をするときはだいたいスカートなのだろう。ナンパをされていないだろうか。
 電光掲示板に自分の受験番号が出る。合格だ。よかった、一安心。
 写真を撮って免許証を受け取り、利紗子に連絡をした。
「おめでとう」
 とシルバーの車から顔を出す。
「これでもう乗れるなんて信じられない」
「運転する?」
 さらっと利紗子が聞く。
「怖いな。でも慣れないとだから、車通りが少ないうちの近くでチェンジする」
「OK」
 利紗子のようにスムーズに運転できるのだろうか。私のお腹が鳴って、お昼を食べていないことに気づく。ステーキハウスに入った。
「利紗子も食べてないの?」
「うん。すごく大きな本屋があって、カフェが併設されていたから本読んでた」
「へえ。こっちにもそういう店あるんだ?」
「お洒落ではなかったけどね。私以外、コーヒー飲んでいる人いなかったし」
 利紗子はたまに棘のある言い方をする。
 安いランチを二人で食べた。スープがやけにおいしかった。
 ファミレスみたいな店で、こんな時間でも家族連れがいた。緑のシートに赤ちゃんが眠っている。うちの店は椅子だけだ。子どもが眠れるように長細い椅子を用意しなくては。
 泣き始めた赤ん坊は母親に抱かれると泣き止んだ。泣いていても泣き止んでも眠っていた。
 利紗子が、
「かわいいね」
 と笑う。
「うん」
 男になりたいと思ったことはない。私たちでは授かることは不可能だ。仮に体や戸籍がメイルになっても、男性が性転換して妊娠したとは聞くが、女はどうなのだろう。そのうち細胞から精子の要素を取り出せそうだが、それではコピーに近いのだろうか。
「郁実、免許のお祝いにパフェも頼もうよ」
 利紗子がメニューを指さす。
「うん」
 利紗子のことは好き。利紗子が子どもを望んだら養子か、精子バンクを頼るのだろうか。自分とは血縁のない子どもを愛せるとは思えない。
 冷たいというか、冷静なのだ。
 苺のパフェを分け合った。女同士でよかったなと思うのは、これは男同士では厳しい。世間の目は同じなのだろうか。
「ごちそう様です」
 お金は利紗子が払ってくれた。生活費はうやむやにしたくないのに、曖昧にはなってしまう。二人の財布を作るのがいいと聞いて実践したが、お互いに必要なものが違い過ぎた。私はネイルはしないし、生理用品はかぶれないものがいい。どちらともなくやめようということになった。
 利紗子がエンジンをかける車に乗り込む。どちらもタバコは吸わない。ラジオしか聞けない車。運よく譲り受けたけど車検もあるし、二人で乗ればその分ガソリン代もかかるだろう。
 お金を稼がなければ。ネットでの注文はあれきりだ。神様のご褒美みたいな唐突な注文だった。利益を出すってむつかしい。
 道路って、どこまでも続いている。来た道を戻っているのに、行きは運転できないのに帰りはしていい。免許一枚で許される。人生はそんなふうにシンプルではない。
 上っている。坂道怖いな。でも利紗子にそんなこと言えない。
「もう道わかる? そろそろ代わる?」
 利紗子が試すように聞く。
「うん」
 一本道だがカーブが多い。どうしてまっすぐ作れないのだろう。川に沿っているからだろうか。線路は道路よりあとに作られたから更にうねうね。
 運転席に座りシートベルト。
「いい? 発進するよ」
「はい、お願いします」
 合宿中はトントン拍子だった。追加でお金を払うこともなかった。それなのに、めちゃくちゃ緊張する。力を込めないと手が震えそう。利紗子の命がこの両腕にかかっているのだ。
「郁実、30キロはさすがに遅いよ。うしろ来ないからいいけど」
 と利紗子に注意される。
「慎重になっちゃって」
「あ、チャリに抜かされた。ははっ」
 どれくらいアクセルを踏み込めばいいのかわからない。車って怖いなと改めて思う。人を殺せるし自分も死ぬ。今は嫌だ。利紗子が笑うから、幸せなのだ。それだけで、幸せだよ。
 うしろから煽られることもなく、無事に我が家に帰還。
「やっと帰ってきた」
 シートベルトを外しても、体中が固まっている。
「おかえり。疲れた?」
 利紗子が聞く。
「うん」
 と頷いて、やっと少しほっとする。
 駐車場のチューリップは赤が全部散っていた。花弁を利紗子と取り除く。雌しべ丸出しで、目を覆いたくなる。なぜか黄色が一番背が高くて、紫の開花は遅く今頃満開。人間だって同じようで違うのだからチューリップにもチューリップの都合があるのだろう。
「まだ満腹」
 利紗子がダイニングの椅子に座る。二人掛けのソファが欲しい。くっつくきっかけがない。
 夜にコーヒーは飲まない。寝坊したくないし、寝ぼけてシュークリームづくりの手順を間違えたくない。今まで飲まずに来たから、これからもその延長。いろんなことがあったからすぐに眠ってしまった。免許を取っただけ、利紗子を乗せて運転しただけそれなのにオープン日並みの緊張。
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