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ナンセンス
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***
就職が何とか決まって以降、住まいを探してた私に、物件を紹介したのは駅向こう側の不動産屋だった。
ホストかと見間違うような、黒いスーツに髪を茶色く染めたお兄さんは
「お客様なら、気に入っていただけるでしょう」
そう言ってから、カウンターに間取り図を置いた。
怪しい人物には貸さないというのが、大家さんからの条件だそうだ。
ただ、まだ私の素性は一切明かしてない。
『怪しさ』の基準は謎だった。
それでもせっかく見せてもらえるなら、と視線を落として見た。
間取りもさることながら、物件詳細欄をじっくりとチェックした。
築年数はちょっと気になる…
でも駅から徒歩圏内でこの家賃はお手頃かも。
それに風呂とトイレが離れてるのが、ポイント高い。
脈有りと感じたのか、他の物件は勧められなかった。
「ご案内しましょう」
ホストチックな不動産の従業員は、昼の営業スマイルを浮かべて言った。
「こちらです」
停められた車。
どうやら到着したらしい。
こちら、と彼が手の平を上に向けた指の先にその建物はあった。
それはかなりの年代物に見えた。
一軒家を改築した賃貸物件だそうだ。
一階には大家さんである老夫婦が住んでる。
完全に独立した二階の部屋が物件だと言う。
今は巣立った大家さんの息子さん達が育った家。
修繕を繰り返してはいるものの、建物自体は昔のままらしい。
外観は確かに少し…多少…残念だけど、案内された二階の部屋はリフォームされてどこも綺麗だった。
日当たりも申し分ない。
窓を開けさせてもらうと見えたのが、通りを挟んだ向かいにある住宅街。
その後ろに続く高台には緑が茂ってた。
不動産の男性に尋ねると、あそこは公園だと言う。
さらに上には西洋風の建物が見えた。
公園の何か施設の一つかと思った。
一通り見せてもらってから下に降りると、在宅だった大家さん夫婦に挨拶ができた。
どうやら私は、怪しさ基準をクリアしたみたい。
次の日には賃貸の契約が交わされて、晴れてこの街の住民になった。
***
長くて冷たい夜が明けた。
太陽を置き土産に、台風は去って行った。
今の私は、ダイニングキッチンのイスの上で、膝を抱えて座ってる。
部屋の中で傘をさしたのは、人生で初めてだった。
そういえば『やまない雨はない、明けない夜はない』って誰かが歌ってたな…
…この光景も昔漫画で見たことがある。
床に並んだ雨水受けの鍋と食器たち。
見上げれば天井はシミだらけだった。
昼少し前、大家さんが大工を呼んで調べてもらって分かった。
昨晩の台風により建物の屋根が大きく剥がされてた。
飛んだ屋根が人に直撃しなかったのは幸いでした、と区の職員さんは言った。
大家さん宅の玄関前、なぜ区の職員さんがいるのか。
それは漏電火災や倒壊の危険性も考えて、この家は取り壊すようにと指導に来たからだ。
聞いたら大家さん夫妻、実は千葉に新居を建ててあるそうだ。
一足先にそこで長男さんが暮らしているらしい。
「長男は離婚したんでね、弥生ちゃん、うちにお嫁に来ないかい?」
「弥生ちゃん、美人さんだから喜ぶわよ、きっと」
夫妻からの衝撃のスカウトだった。
この夫婦の息子さんなら、若くても50代…?
もちろんそこは丁寧に辞退した。
とどのつまり…住まいも職も失った。
この家は私の転居先が決まり次第、壊すことになった。
濡れた物を拭いたり、乾かしたり、処分して午後を費やした。
剥がれた屋根には養生シートが被せてあって、今は何とか住むことはできる。
致命的なのは電気が点かないこと。
どこかで漏電の可能性もあるらしく、ブレーカーを決して上げてはいけないと言われてる。
大家さん曰く、壊す家にお金をかけて修繕するのはナンセンスらしい。
でも…老夫婦を責めるつもりはなかった。
仕事を辞めたならちょうど良い、一緒に千葉へと本気で誘われた。
結婚云々は冗談だよ、と笑い飛ばして。
普段から二人が仲睦まじく庭を手入れしたり、並んで買い物から帰ってくる姿を見かけてた。
理想的な、可愛らしいおじいちゃんとおばあちゃんだった。
引越しやダメになった家財道具の金銭的な保証はしてくれると言うし、それ以上の面倒はかけたくなかった。
それでも流石にあの部屋には居たくなかった。
今は公園のベンチに腰かけてる。
窓を開けると見える高台の公園。
何年もこの街に住んでたのに、ここに足を踏み入れたのは初めてだった。
もうとっくに陽は沈んで、広い公園のどこからも子供達の声は聞こえない。
疲れた…
ふと上げた視線の先に、灯りに照らされた建物が見えた。
高台のこの公園よりさらに上。
街を見下ろすように建ってる洋館。
ずっと気になってた建物だ。
夜が全貌を隠した。
街灯に照らされた部分だけが、公園の樹木の上に見えた。
それはまるで浮いているようで幻想的だった。
気付いたらフラフラと歩き始めてた。
建物の正体を暴きたい。
公園の一角の階段を登って道路へ出た。
さらにその坂になった道をしばらく登ったら、洋館へたどり着いた。
「うーん…」
思わず唸ってしまった。
ついてない。
ここまで来たのに洋館は見ることができなかった。
近付けば見えるのは、高い塀と建物の天辺だけだった。
仕方なく塀沿いを歩いた。
正面は多分こっちと、見当をつけて右に進んだ。
当たり!
左に進んでたら遠回りだった。
もしかしたら隣接する建物に行く手を遮られてたかも知れない。
遠くから見た時は公園関連の施設かと思った。
でもそれは間違いで、どうやら個人の住宅らしかった。
車の出入りする跳ね上げ式のゲートの隣に屋敷の門扉があった。
どちらも硬く閉ざされてる。
でもゲートの目線よりも上の隙間から、建物を垣間見ることができた。
ガス灯を模した照明に照らされたアプローチ。
不規則な形の石材タイルが緩やかに蛇行して敷かれてる。
その両サイドには樹木が植えられて、見え隠れする先に重厚な両開きの玄関扉があった。
扉の上には長くて大きなガラスが数枚、はめ込まれてる。
中は吹き抜けになってるのかも知れない。
古いけどよく手入れされた洋館。
どんな人が住んでるんだろう?
でもここで今、想像するのはやめた。
爪先立ちで中を覗き込んでた。
あまり長居して中を窺ってても、怪しまれるかも知れない。
見る人が見れば、既に充分怪しいだろう。
近くで見られて満足だった。
もう行こう、一歩後ろへ下がった時、近づくエンジン音に気づいた。
ここまで歩いてきた道とは反対方向から来た車。
私から数メートル手前に止まると、数回のパッシングをした。
光の向こうの車中は暗くて、人物は見えない。
パッシングが何を意図するのか分からなかった。
ただハイビームが眩しくて、光を避けるために手の平をかざした。
その瞬間、私の意識は途絶えた。
曖昧な記憶はあった。
多分、崩れた時にアスファルトに膝を強打した。
ジンジンと痛む膝とは対照的に、なぜか身体はフワフワと浮いてるようだった。
温もりと安心感に包まれてた。
夢を見てる?
夢ならもうしばらく甘えてたい。
もう少しこのまま…
正体の分からない幸福感をギュッと抱きしめた。
就職が何とか決まって以降、住まいを探してた私に、物件を紹介したのは駅向こう側の不動産屋だった。
ホストかと見間違うような、黒いスーツに髪を茶色く染めたお兄さんは
「お客様なら、気に入っていただけるでしょう」
そう言ってから、カウンターに間取り図を置いた。
怪しい人物には貸さないというのが、大家さんからの条件だそうだ。
ただ、まだ私の素性は一切明かしてない。
『怪しさ』の基準は謎だった。
それでもせっかく見せてもらえるなら、と視線を落として見た。
間取りもさることながら、物件詳細欄をじっくりとチェックした。
築年数はちょっと気になる…
でも駅から徒歩圏内でこの家賃はお手頃かも。
それに風呂とトイレが離れてるのが、ポイント高い。
脈有りと感じたのか、他の物件は勧められなかった。
「ご案内しましょう」
ホストチックな不動産の従業員は、昼の営業スマイルを浮かべて言った。
「こちらです」
停められた車。
どうやら到着したらしい。
こちら、と彼が手の平を上に向けた指の先にその建物はあった。
それはかなりの年代物に見えた。
一軒家を改築した賃貸物件だそうだ。
一階には大家さんである老夫婦が住んでる。
完全に独立した二階の部屋が物件だと言う。
今は巣立った大家さんの息子さん達が育った家。
修繕を繰り返してはいるものの、建物自体は昔のままらしい。
外観は確かに少し…多少…残念だけど、案内された二階の部屋はリフォームされてどこも綺麗だった。
日当たりも申し分ない。
窓を開けさせてもらうと見えたのが、通りを挟んだ向かいにある住宅街。
その後ろに続く高台には緑が茂ってた。
不動産の男性に尋ねると、あそこは公園だと言う。
さらに上には西洋風の建物が見えた。
公園の何か施設の一つかと思った。
一通り見せてもらってから下に降りると、在宅だった大家さん夫婦に挨拶ができた。
どうやら私は、怪しさ基準をクリアしたみたい。
次の日には賃貸の契約が交わされて、晴れてこの街の住民になった。
***
長くて冷たい夜が明けた。
太陽を置き土産に、台風は去って行った。
今の私は、ダイニングキッチンのイスの上で、膝を抱えて座ってる。
部屋の中で傘をさしたのは、人生で初めてだった。
そういえば『やまない雨はない、明けない夜はない』って誰かが歌ってたな…
…この光景も昔漫画で見たことがある。
床に並んだ雨水受けの鍋と食器たち。
見上げれば天井はシミだらけだった。
昼少し前、大家さんが大工を呼んで調べてもらって分かった。
昨晩の台風により建物の屋根が大きく剥がされてた。
飛んだ屋根が人に直撃しなかったのは幸いでした、と区の職員さんは言った。
大家さん宅の玄関前、なぜ区の職員さんがいるのか。
それは漏電火災や倒壊の危険性も考えて、この家は取り壊すようにと指導に来たからだ。
聞いたら大家さん夫妻、実は千葉に新居を建ててあるそうだ。
一足先にそこで長男さんが暮らしているらしい。
「長男は離婚したんでね、弥生ちゃん、うちにお嫁に来ないかい?」
「弥生ちゃん、美人さんだから喜ぶわよ、きっと」
夫妻からの衝撃のスカウトだった。
この夫婦の息子さんなら、若くても50代…?
もちろんそこは丁寧に辞退した。
とどのつまり…住まいも職も失った。
この家は私の転居先が決まり次第、壊すことになった。
濡れた物を拭いたり、乾かしたり、処分して午後を費やした。
剥がれた屋根には養生シートが被せてあって、今は何とか住むことはできる。
致命的なのは電気が点かないこと。
どこかで漏電の可能性もあるらしく、ブレーカーを決して上げてはいけないと言われてる。
大家さん曰く、壊す家にお金をかけて修繕するのはナンセンスらしい。
でも…老夫婦を責めるつもりはなかった。
仕事を辞めたならちょうど良い、一緒に千葉へと本気で誘われた。
結婚云々は冗談だよ、と笑い飛ばして。
普段から二人が仲睦まじく庭を手入れしたり、並んで買い物から帰ってくる姿を見かけてた。
理想的な、可愛らしいおじいちゃんとおばあちゃんだった。
引越しやダメになった家財道具の金銭的な保証はしてくれると言うし、それ以上の面倒はかけたくなかった。
それでも流石にあの部屋には居たくなかった。
今は公園のベンチに腰かけてる。
窓を開けると見える高台の公園。
何年もこの街に住んでたのに、ここに足を踏み入れたのは初めてだった。
もうとっくに陽は沈んで、広い公園のどこからも子供達の声は聞こえない。
疲れた…
ふと上げた視線の先に、灯りに照らされた建物が見えた。
高台のこの公園よりさらに上。
街を見下ろすように建ってる洋館。
ずっと気になってた建物だ。
夜が全貌を隠した。
街灯に照らされた部分だけが、公園の樹木の上に見えた。
それはまるで浮いているようで幻想的だった。
気付いたらフラフラと歩き始めてた。
建物の正体を暴きたい。
公園の一角の階段を登って道路へ出た。
さらにその坂になった道をしばらく登ったら、洋館へたどり着いた。
「うーん…」
思わず唸ってしまった。
ついてない。
ここまで来たのに洋館は見ることができなかった。
近付けば見えるのは、高い塀と建物の天辺だけだった。
仕方なく塀沿いを歩いた。
正面は多分こっちと、見当をつけて右に進んだ。
当たり!
左に進んでたら遠回りだった。
もしかしたら隣接する建物に行く手を遮られてたかも知れない。
遠くから見た時は公園関連の施設かと思った。
でもそれは間違いで、どうやら個人の住宅らしかった。
車の出入りする跳ね上げ式のゲートの隣に屋敷の門扉があった。
どちらも硬く閉ざされてる。
でもゲートの目線よりも上の隙間から、建物を垣間見ることができた。
ガス灯を模した照明に照らされたアプローチ。
不規則な形の石材タイルが緩やかに蛇行して敷かれてる。
その両サイドには樹木が植えられて、見え隠れする先に重厚な両開きの玄関扉があった。
扉の上には長くて大きなガラスが数枚、はめ込まれてる。
中は吹き抜けになってるのかも知れない。
古いけどよく手入れされた洋館。
どんな人が住んでるんだろう?
でもここで今、想像するのはやめた。
爪先立ちで中を覗き込んでた。
あまり長居して中を窺ってても、怪しまれるかも知れない。
見る人が見れば、既に充分怪しいだろう。
近くで見られて満足だった。
もう行こう、一歩後ろへ下がった時、近づくエンジン音に気づいた。
ここまで歩いてきた道とは反対方向から来た車。
私から数メートル手前に止まると、数回のパッシングをした。
光の向こうの車中は暗くて、人物は見えない。
パッシングが何を意図するのか分からなかった。
ただハイビームが眩しくて、光を避けるために手の平をかざした。
その瞬間、私の意識は途絶えた。
曖昧な記憶はあった。
多分、崩れた時にアスファルトに膝を強打した。
ジンジンと痛む膝とは対照的に、なぜか身体はフワフワと浮いてるようだった。
温もりと安心感に包まれてた。
夢を見てる?
夢ならもうしばらく甘えてたい。
もう少しこのまま…
正体の分からない幸福感をギュッと抱きしめた。
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