霖の幻

詩方夢那

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第一話:幻の宿 山の楼閣

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「こんな所に道なんてあったんだ……」
 駆け出しのウェブライターである高木ちづるは先輩ライターであり雇い主でもある大西六津美が運転する車の助手席から、初めて見る山道の景色を眺めていた。
 六津美が慎重にアクセルを踏み込みながら車を進ませる山道が有る山はちづるの自宅からそう遠くない場所に位置しているが、ちづるはそこに自動車で入れる山道が有る事も、ましてや宿が有る事も知らなかった。
 二人が向かう先に有るのは幽玄楼なる旅館。この旅館についての情報は殆ど知られておらず、インターネット上では幻の旅館として都市伝説的に語られるばかりでその正体を知る事は出来ない。だが、つい最近になり、六津美はこの旅館についての情報を得る事に成功した。ちづるの自宅に残されていた昭和後期の電話帳に、幽玄楼の連絡先が残っていたのである。
 そのきっかけは、ちづるの父が商店を畳むと決めた事だった。ちづるの母方の祖父母は農機具の販売と修理を手掛ける商店を経営しており、かつて一家が暮らす土地に多くの田畑が有った頃にはかなり繁盛していた。故にちづるの父は商店の後継者として婿入りしていたが、この数年の間に土地の古老が農業を諦めて土地を不動産業者に売却し始めた事で売り上げが激減し、赤字決算からの回復は見込めなくなったのだ。
 最早大型農機具を保管する場所はただ固定資産税がかかるだけの空き地と化し、農機具と並行して販売を始めた園芸用品が不定期に売り上げを出すだけとなった今、一家は事業所を兼ねた広い住宅を離れる事になっている。そこでちづるは家屋を引き払うにあたって古い家財の処分を手伝い、ネットオークションで販売できそうな古道具や古雑誌をより分けていた。
 そうして片付けを手伝っていたちづるが古い雑誌や農機具のカタログに埋もれていた一冊の電話帳を開いたのは、本当に偶然の事だった。電話帳に出稿された広告の昭和らしい古めかしげな書体が物珍しく、それを眺める中で偶然にも幽玄楼の名前を見つけたのである。
 そして、埋もれた電話帳の存在を知らされた六津美がとうに廃業しているだろうと期待せずにかけた電話はだ生きており、取材が叶う事となったのだ。

「此処だわ」
 車の車輪が目の粗い砂利に乗り上げると同時に、六津美の視界に入ったのは楼閣だった。
「こんなものがあったなんて、まるで見えないから知らなかった」
 一階部分は重厚なガラス扉の玄関となっているが、並ぶ大きな硝子窓は木製の格子で目隠しが施されており、さながら遊郭の講師を思わせるつくりである。その一階部分が支える階上は如何にもな和風建築で、時代を忘れさせる奇妙な造りになっている。
「行きましょう」
 六津美はエンジンを止め、砂利の上へと出た。そして、重い硝子戸を押し開けて薄暗い玄関へと入る。
「ごめん下さい」
 番台の頭上にある裸の蛍光灯の一本さえも点灯していない玄関は暗く、湿度が籠った様に空気は重い。
 少しの間を空けて姿を現したのは、鮮やかなエメラルドグリーンのワンピースを着た女性だった。
「先日、取材を申し込みました日本ミステリーウォーカーの大西です」
「高木です」
 六津美に続き、ちづるは慌てて名乗り頭を下げる。
「お待ちしておりました。女将のひろみです」
「早速ですが、中を見せて頂いてもよろしいですか? あの格子窓が気になって」
「えぇ、もちろんです。ご案内しますわ」
 ひろみは番台を出て、二人を格子の奥にある応接スペースへと案内する。
 応接スペースはそれまでの打ちっぱなしの三和土とは異なり、一段低い場所に赤絨毯を敷き詰めた設えだった。
「素敵な応接セットですね、アンティークですか?」
「フランス製と聞いています」
「へぇ……」
 赤絨毯の上に据えられた年季の入った焦げ茶色の木目が美しいローテーブルと、色は煤けているが高級そうな布の張られたソファは古びた和風の佇まいには似つかわしくないが、六津美の興味をそそる物であった。
 六津美が応接セットをひとしきり眺めた後、ちづるは格子の奥のガラス窓が映る様に、応接スペースの全景を写真に収める。
「クッキー、瓶の中に入れてるんですね」
 写真を撮ったちづるが首を傾げていると、ひろみは笑いながら答えた。
「缶のままだと、空き缶と勘違いされてしまいますからね。さ、お風呂の方も案内しますわ」
 格子の向こうから差し込む光に照らされたひろみは色白で大人しい印象の女性だったが、その口紅はやけに鮮やかな赤色で、ワンピースと共布の幅広なカチューシャは古めかしく野暮ったい。
 いくら流行らない旅館とはいえ、女将がそんな物でよいのだろうかとちづるは再び首を傾げながら、裸の蛍光灯一本だけが照らす暗く狭い廊下を歩く。
「温泉ではありませんけれど、足を延ばして入っていただけるのが自慢です」
 赤い暖簾を潜り、ひろみは二人を女湯へと案内する。
 棚が有るだけの脱衣所の奥に広がっていたのは、目の小さなタイル張りの浴室だった。ちづるは自分が通っていたかなり古いつくりの小学校のトイレと同じ様な印象を持ちながら、ひろみに問いかける。
「お手洗いは?」
「廊下の奥にありますわ。最近、簡易水洗にしたので使いやすくいですよ」
「簡易水洗……」
「こちらです」
「あ、先にお風呂の写真を」
 ちづるは慌ただしく浴室と脱衣所の写真を撮り、ひろみに続いてトイレに向かう。
 トイレは男性用と女性用がそれぞれあり、女性用は中に三つの個室が用意されているが、個室の天井部分には照明が無く、明り取りの窓もない為、手洗い場と兼用の蛍光灯だけでは酷く暗い。
「あのー、二階や三階のトイレもこんな感じなんですか?」
「婦人用のお手洗いは此処だけです」
「え……」
 このトイレがこうも薄暗く不快なのは、風呂に付随してやむを得ず設置されたためと考えていたちづるは目を丸くする。
「紳士用は上にも有りますが、婦人用は此処だけです」
「は、はぁ……」
「そろそろお部屋の方にご案内しますわ」
 ひろみに促され、ちづるは薄暗い廊下から再び玄関へと向かい、六津美と合流して玄関の奥にある階段に向かう。
「本日は三階、金盞花の間をご用意しています」
「二階の客室は見せて頂けますか?」
 六津美の問いかけにひろみは困ったように笑う。
「二階の客室はお見せするほどのものでは無くて……代わりに、金盞花の間と対になっている竜胆の間をご覧になって下さい。どちらもとてもきれいなので」
 一行が古い木製の階段を進み二階に着くと、ちづるの目に何かを展示しているらしい場所が飛び込んできた。
「あ、あの、あれは」
「ん、あぁ、神楽の面ですわ。ご覧になりますか?」
「ぜひ!」
 ひろみの提案に飛びついたのは六津美だった。
「これはすごいですね、地元の神楽ですか?」
「はい。とはいえ、この数年で集落の人たちが山を下りてしまったので、もう今はやっていないんですけれども」
 六津美は曰くありげな神楽面をまじまじと眺め、数枚の写真を撮る。
「それでは、先に竜胆の間をご案内します」
 ひろみに案内された六津美とちづるが目にしたのは、絢爛豪華な天井装飾が施された和室だった。
「凄い……」
 六津美は辺りを見回し、溜息を吐く。
 最も目を引くのは、曼陀羅の如く緻密に描かれた天井装飾であるが、鴨居や長押にも豪奢な彫刻が施されており、金箔を思わせる黄色の土壁がよりそれを絢爛に見せている。
「この絵の題材は……」
「日本の神話だと聞いています。おそらく、アダムとイブに相当するイザナギとイザナミの話ではないでしょうか」
「はぁ……」
 六津美は天井を見上げたまま、暫し立ち尽くす。
「金盞花の間も素敵なので、こちらに来て下さいませ」
 ひろみに促されるまま、二人は暗い廊下を進んでもう一つの客室へと入る。
 金盞花の間もまた同じく絢爛豪華な天井装飾と彫刻が施されているが、こちらには室内装飾と同じだけ豪奢な彫刻の施された茶机が据えられている。
「お花も活けて下さったんですね」
 豪勢な彫刻に装飾された床の間を見たちづるは生け花の存在に気づく。
「はい。金盞花の時期が最後なので、ちょっと元気が無いかもしれませんが」
「でも、きれいです」
「そう言って下さると嬉しいですわ。そうだわ、そろそろお昼ですから、お食事をお持ちしますね」
「ありがとうございます」
「では、それまでごゆっくりお過ごし下さい」
 ひろみが去った後、六津美は漸く視線をちづるに戻す。
「あ、六津美さん。どうでした、天井の絵」
「女将さんが仰る通り、日本の神話、イザナギとイザナミね。さっきの、竜胆の間はイザナギとイザナミの結婚から、国生みと神生みの途中まで。こっちは国生みに続く神生みから始まって、イザナミがカグツチを産んで死に、イザナギが黄泉へ迎えに行って失敗して、黄泉の国の入り口を塞ぐまでのお話じゃないかな」
「へぇ……詳しいね、六津美さんは……それより、座りましょ?」
「あ、うん、そうね」
 二人は茶机を挟んで腰を下ろした。
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