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出雲国譲りの基礎知識(おまけ)

タケミナカタと信濃

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信濃の語源とタケミナカタの神名について。
 
> タケミナカタは慌てて逃げ出した。タケミカヅチは追いかけて
>科野(しなの=信濃)> 国の洲羽(すわ=諏訪)湖まで
>追いつめて殺そう
>とした時、タケミナカは「もう降参です。どうぞ命はお助けを。
>ここから一歩も外には参りません。また、父大国主命の
> 命に違うような事はいたしません。また、八重事代主神の言葉にも
>背きません。この中国は天神御子の命令どおりに献上いたします」
>と申し上げた。
 
> 建御名方神の神名のポイントは「名」である。
> ”ここから一歩も外には行かぬ故、殺さないでください”
>という言葉にはシナス
>(奈 良時代より前にはシナノではなくシナヌといった)から
>「名=な」が外に出ぬという
> 意味を含んでいる。
> シナヌからナを外せばシヌ(死ぬ)であり、
>だからナが外に出なければシナヌ(死な> ぬ)となり、
>この神の言葉の謎が解ける。
 
ある先生が「世界の神話伝説」という本の中で「日本の神話伝説」の持ち分を執筆されています。文章はその中から抜き出しました。タケミカヅチとタケミナカタが漢字で書かれている点を除けばこの先生の書かれた状態のままです。
 
引用部分だけを読めば「信濃の語源」について語ったというよりは、「タケミナカタの神名がついた理由」について語った文章のようですね。とはいっても、「信濃」は「死なぬ」が語源であるという誤解を与える可能性がある文章かもしれません。
 
以下、引用文の主旨とはちょっとずれているかもしれませんが、「信濃」は「死なぬ」なのか?と、「タケミナカタの神名」について考えてみます。
 
「死なぬ」が「信濃」の語源であるということについては、私の浅薄な言語知識において判断すれば「トンデモ説」の一つだと思います。
 
「信濃=死なぬ」まぁこれは、引用文の主旨、つまり氏の説とは似ていますが=ではない事をご理解の上お読みください。
 
まず、「信濃」の「しな」はこれだけで万葉時代以前は「階段」もしくは大三元さんのページによると「風(かぜ)」を指します。
 
信濃国とは階段のような山に囲まれた国、もしくは伊勢と同じく風に関与する国という意味だと思います。
 
また、伊勢と信濃をつなぐ神は伊勢津彦といいますが、これも一部ではタケミナカタと同一視される存在であり、大国主の御子神であって伊勢の国譲神話に登場するあたりも両神が同一である可能性を感じさせます。
 
信濃では、現在も「伊勢津彦」の名の下に「風鎮祭」が営み続けられています。
 
また、「ナ」という音は「大地」につながる上古の言葉であり、タケミナカタという神名が上古以前から語りつづけられているものであれば、名前の「名」とは違う意味がそこにはあるはずです。
 
「ナ」=「大地」。と解明・解釈できるわけです。
同じように大国主のオオ「ナ」ムチという神名も分解できます。
タケミナカタ「ナ」が「名前の名」と同じ意味だという根拠も当て字の「名」からだけの推測のように思います。
 
ここから推測すれば、タケミナカタの神名のポイントは「ナ」でなく「ミ」であることが、解かります。
 
「ミ」とは何ぞや?この問いに対しての私の答えは「蛇」ではないかと思っています。ご存知のように、諏訪の大神タケミナカタはオオナムチ神性を継ぐ「蛇神」でもあります。
 
で、「カタ」これは地形を表すのではないかと推測しいます。
播磨風土記宍粟郡の記述には、「ミカタ」という土地がでてきます。この地名由来は「大神が御杖(みかた)をこの地に突きたてた」という地名説話がある。古来、播磨地方にある文献には、この「ミカタ」の「カタ」の文字には「方」「形」と「条」の三種が当てられています。
 
このうち、妙に感じる当て字は「条」です。方も形も「カタ」と読むことに違和感はないと思うからです。「条」には「枝」と「長い」という意味が含まれているらしい。
 
地名説話の「杖」の音から「条」をあてたのかもしれないが、一方で、「条」の文字には長の意味があるらしい。(条=長は植垣節也著の播磨風土記注釈稿による。『尚書』に「条は長なり」とあるようです。)
 
ミカタについてもこちらを参照ください
 
そして、長細いものを数えるときにも用いられる文字です。
杖そして長細いもの・・・。ここでも蛇に通じるイメージが語られます。まるで、風の回廊か山越えのための道筋や山上から流れてくる川の流れを指すかのように・・・。

そして、古事記の一節、タケミカヅチとタケミナカタの力比べの場面を見てみると、

「ここにその建御名方神の手を取らむと、乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、つかみひしぎて投げ離ちたまへば。。。。。」

とあるように、どうもタケミナカタは手を引きちぎられてしまったらしい。両の腕を引きちぎられたのだとすれば、諏訪にたどり着いたタケミナカタのその容貌は、諸星大二郎氏の「暗黒神話」の描写のようにまた蛇に通じるものがありそうだ。
 
タケミナカタの神名から意味をとれば、勇ましく大地に盛り上がったような山のような大蛇、または風、すなわち大きな「しな」になるわけです。
 
信濃もタケミナカタと同じ意味からと考えた方がいいかもしれません。
 
もちろん、記紀神話が流布されて後に信濃が「しなの」「しなぬ」と呼ばれるようになったのであれば、「死なぬ」からの連想で「信濃」となったという事も一考の余地はあると思われます。
 
しかし、「死ぬ」という「な変動詞」は中世以後のものでありこれが「信濃」の語源となったか?については否定せざるを得ません。
 
また、「しなざかる」という「越」にかかる枕詞があることからも越の国と階段のような山をあらわす「しな」が「越」の背後にあるという情景や、「神風の伊勢」にも通じる風の強い越の国の情景が思い起こされます。
 
「しなざかる越」は、越の平野部または日本海からの情景なのでしょう。
 
さて、語源という意味においては、否定的な見解をだしましたが「語源を(死なぬ)と呪術的に解釈することによって信濃の地名が長く続いた。または喧伝された。中央から避けられる対象となった」ということならあり得るかも知れませんが、これなら、そういう事を記した文字資料や和歌、俗謡が残っていてもおかしくありません。
 
「死なぬ」は、出雲の「死」拍手にも通じるものであると思いますが、言葉の呪術の原型(信濃の場合は語源)とそれが続けられた過程(言葉や儀式が長く継続された中で着け足されていった意味合い)を別個に考えなくてはいけないと思います。
 
そういう意味において、「死なぬ」を「信濃」の語源とすることは無理があります。
 
また、「国譲り」の原型は出雲だけではなく、伊勢(および全国)にあったということも考えられます。その中で諏訪での惨めなタケミナカタの状態は寧ろ、異常な神話といえます。「古事記の国譲り神話」と「伊勢国風土記逸文の国譲り神話」とを読み比べてみてください。
 
この異常さの影には、編纂当時の信濃以北の蝦夷と朝廷の間にあった緊張感や、彼らに対する侮蔑感、そして彼らの戦闘力に対する恐怖感の裏返しがあった、と推測する事も十分可能であると思います。
 
それらは、記紀でヤマトタケルが戦った相手に「科野」があることからも推測できる範疇だと思っています。つまり「蝦夷蔑視政策が始まって後に作られた神話である可能性があるのです。
 
私の結論としては、「死なぬ」=「信濃」は「しなの」という地名とタケミナカタという神名と古事記神話から導き出されたトリックつまりトンデモにしかすぎないと思われます。
 
しかし、神名と地名が相互にかかわり合うことによって、「死なぬ」=「信濃」は、それを耳にした人々の心に残っていたのかもしれません。反面、これが信濃に独特の文化をもたらしたり、保存させたりすることに作用したということもありうる話ではあります。
 
諏訪の方が由緒があるのにも関わらず、諏訪から北にいった所にある科野地方が、このあたり一帯の国名として残ったというのもこういった作用によるものなのかもしれません。
 
現在の科野には5世紀頃の巨大古墳も存在します。
 
この古墳の主やその一派が、諏訪を含めた後の科野国一帯で一番中央に近く、かつ強大な勢力を持っていたから諏訪の国でなく科野(信濃)の国となったのだろうと思われます。
 
ちなみに、信濃の地名は「しなのき」(紙を作るための木)という木から来たのだという説が一般に流布しているもののようです。この木は信濃地方に原産している木でもあります。
 
「死なぬ」は信濃の語源としては不充分過ぎるものであると思っていますが、伊勢津彦=タケミナカタ、または播磨の「ミカタ」との関連からタケミナカタにはどうして、「伊勢津彦」もしくは「タケミカタ」でなく「タケミナカタ」という名が付けられたのか?という問いに答えるのならば、タケミナカタという「名」が古事記編纂時にはじめて付けられた名前であると仮定した上でなら「しなの」から「死なぬ」を連想し、本来「伊勢津彦」「タケミカタ」と呼ばれていた神名から「タケミ「ナ」カタ」と「ナ」をアトヅケ挿入したのかも?という仮定はできるのかもしれません。
 
つまり、古事記の編纂者が、政治的な神話の改変を行うため以下のように連想したという仮定ならあり得るのかな?と思うのです
 
1・まず「シナノ」という地名があって、
 
2・そこから「死なぬ」を連想する。
 
3・次にもっとあった「伊勢津彦」による諏訪の征服話をもとに、
 
4・タケミカヅチが挿入された神話としてを新しく作り変え、
 
5・そこに登場し、タケミカヅチに無残にやられる神の名に、
 
6・大地を意味する「ナ」を挿入した。
 
まあ、以上は私の劇画的妄想が含まれたトンデモです。
 
出雲の死拍手にしても、梅原氏らが主張するように感じていた人間も過去千数百年の内に少なからずいたでしょうが、それは出雲大社の拍手が四回である、という状態からの理解、推測であって、柏手が四回に決められたときに「死」「怨霊」が意識されていたという事とは別問題なのです。
 
「死なぬ」=「信濃」も「死拍手」=「四拍手」と同じ理屈で後付された概念なのです。

呪術とは、それを信じる者の中ではじめて成立し、意味を持つ儀式です。信じないと始まらない。逆に信じないといや信じる信じないのレベルの話ではなくても、その意味を知らない者にとっては全く意味をなさないものでもあります。

これは怨霊史観にしても同じです。怨霊史観という歴史の見方を知らないものにとっては怨霊の歴史に対する影響なんて、特筆すべき崇神天皇の話、桓武天皇の話、そして菅原道真の話以外全くみえてこないものです。怨霊史観という数多くある歴史の見方の中の一つを提示し、信用させること自体が一つの呪術でもあるわけです。

ここで重要なのはどうして怨霊史観を信じてしまう、もしくは大きな影響をうけたり共感してしまうか?という事です。

この共感は、歴史上の人物、事件への共感ではなくそれを主張している梅原氏や井沢氏など現代人による主張に向けられた共感であることを、我々はまず第一に理解する必要があります。現代人の主張なのですから現代人である我々読み手が共感するのは難しいことではないのです。

寧ろ怨霊は遥か古代に息づいていた常識ではなく、現代に生きる我々にこそ息づいてる物の見方ではないかと思います。

祀らないと「祟られる」という概念。

この概念は新しいものではないかとおもうんです。というのはそれが古くからあったとしたらはじめからそれを前提に行動するわけです。ですから怨霊化しそうな政治的敗者にたいしては勝敗が着いた時点でそれに対応する祭祀が行われているべきだと思うのです。

先にあげた崇神天皇、桓武天皇、菅原道真にしても「祟られて悲惨な目にあってからはじめて」祭祀を始めているのです。つまり怨霊(神)の仕業だと気がつくのが遅すぎるわけです。

つくも神という妖怪がいます。これは魂なき器物でさえ幾つもの年を経ると魂がつき粗末に扱うものに祟りを成すことさえあるという。

これは「物を粗末にするといけない」という教えの裏返しです。ある種の強迫観念によって引き起こされた現象を妖怪という形で偶像化というか具現化させた、というか、まあ妖怪という形にすることで物を粗末にしてはいけないという教えを一般化したわけです。

出雲大社に怨霊的要素があるとすればこれに似た心理現象ではないかと思うんです。

「この祭祀を子々孫々、未来永劫続けていき伝統を守らなくてはいけない」という伝統を保存しようとする意識の背景に「長く続けてきた祭祀を止めてしまうと祟られるのではないか?」という無意識が隠されているのではないだろうか?

「○○拒否症、○○依存症、○○恐怖症・・・・」これらはある一面「何かをしなくてはいけない」という脅迫観念によって引き起こされる症状でもあります。

古代人よりも寧ろ我々の方が怨霊に支配された日常を送っているのかもしれない・・・・・・・・・・・。
 

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