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僕とキミの物語

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 キミと出会ったのはいつだっけ?確かミンミンと蝉が騒がしい真夏のある日だった。アスファルトが太陽に照らされて、火傷しそうなほど熱かったのは今でも覚えている。そんな澄み渡るほど青い空の下、僕はキミに出会った。




♢ ♢ ♢


 


 あの日の僕は太陽の光とコンクリートの熱さから逃れるために木の上で涼もうと思い描いていた。ちなみに、木登りは大の得意だからね。あとは大ジャンプも得意だよ。駆けっこも得意。身軽なんだ。えへへ、いいでしょう?

 と、いけない、いけない。話が逸れちゃった。話を戻すね。

 木登りが得意な僕は暑さを凌ぐために、ひょひょいのひょいっで木に登ることにした。太陽の暑い日差しは葉っぱが遮って、少し湿った木の幹は触れていて気持ちがいいのだ。やはり思った通りだった。木に足をかければ、あっという間に地面ははるか下だ。葉と葉の間をすり抜ける涼しい風が体の上をなぞり、あまりの気持ち良さに目を閉じふーと体を横たわらせた時だった。

 突然、一匹のカラスが急に僕にちょっかいをかけて来た。目の前で急に大きな真っ黒い翼をバサバサと広げられたもんだから、僕はびっくりしちゃってさ。バランスを崩して足を滑らしてしまった。いつもならどうってことない高さだけど、急に落ちたもんだから、変に力が入っちゃって、変な風に足をついてしまって足の裏を怪我してしまったようだ。足に力を入れて踏ん張ろうとしても、これ以上力を入れたら体が大変なことになると、僕はただ道の端っこで座り込むしかなかった。

 道行く人はハンカチ片手に僕なんて見向きもしないで忙しそうに過ぎ去って行く。だから僕もなんとなく悔しくて、ここまで来たら誰にも気づかれてやるものか!と半ば意地になっていた。そうだよね。人は人だもんね。それに親と引き離したのは人だ。心細くて、心細くて泣いていても、知らん顔。雨で泥だらけの僕を見てみっともないと笑ってたもんね。もう、今更誰かに助けなんて求めない。一人で生きていくと決めたんだ。だから、熱いアスファルトの上でなんてことはないのだとぷいっとすまし顔を決め込んだ。

 どれほどの人が目の前を通り過ぎ、どれほどの時間が経っただろうか。気が付けば太陽の位置が変わり、日陰だったその場所も太陽の光が直接当たり、僕に強烈な直射日光を浴びせていた。血は止まったものの、熱せられたアスファルトは高温の鉄板と同じだ。鉄板の上に傷口を触れたまま歩くなんて傷に塩を塗るのと同じだ。そんな芸当、到底僕にはできない。

 おまけに、暑さでだんだんと朦朧としてきた。このままこの場所に居続けるのも危険だ。かと言って動けない。誰かに助けを求めようにも辺りには誰もいなくなっていた。これなら、つまらない意地を張らず素直に助けを求めればよかった。どうしようもなく、ほとほどに困ってふーとため息をついた時だった。

 『どうしたの?』という少し高い声が聞こえたのは。そして、同時に影が僕の体を覆った。その声の持ち主は、大きな二つの瞳で僕を見つめていた。学校帰りだろうか。黒いランドセルを背負って、半袖の体操着を着て、肌は褐色にやけていた。小柄でランドセルを背負っているというよりも、ランドセルに背負わされているって言った方がぴったりだ。手足には絆創膏がいくつも貼られ、如何にもわんぱく坊主っていう感じの男の子。

 もうここまで来たら意地だった。素直に助けを乞えばいいものの可愛げのない僕は『なんでもない』と何事もないようにその場を立ち去ろうと立ち上がろうとした。まだ痛むが動けないほどということはない。足に力を入れて立ち上がると『待って』と止められた。『何?』と見ると『足、怪我してるんでしょ?庇っている』と僕の足元を指さしてきた。『だから、どうした』と問いかけると『僕の家においで?手当てしてあげるよ』夏の太陽のように眩しい笑顔を向けてきた。つまらない意地を張っていた僕は、笑顔で僕に差し出してくる手を見て、なんだか泣きそうなほど嬉しかったのを覚えている。誰かの温かい手のひらに触れたのなんて初めてだったのだから。

 そう、そのとき温かい手を差し伸べてくれたのがキミだったんだ。




♢ ♢ ♢






 キミの家は二階建ての一軒家。一階のリビングらしい涼しい冷房の効いた部屋に案内されて、『よかった。折れているわけじゃないみたい。血がついているからまずは水で血を落とすね』と言ってキミは僕の足の手当てを始めた。水を入れた洗面器にタオルをつけてにぎゅっと固く絞った。そのタオルで血を落としながらキミは色々なことを聞いてきたよね。例えば、『年はいくつ?』なんて質問。『年は10歳だ』と言えば『僕は9歳なんだよ』と僕の顔を覗き込みながら言ってきたっけ?何だ。僕の方がお兄さんじゃないか。えっへんと自信満々にキミを見たら『瞳がすごく綺麗だね』と褒めてきたので悪い気はしない。


 『あれ?巻きすぎちゃった?』、そう困ったように君が見た視線の先には僕の足。そこに巻かれた包帯はゆるゆるだし、長すぎて歩けるもんじゃない。『どうしよう』とお互いに顔を見合わせた時だった。『ただいまー』という声がしたのは。『母さんだ!』と立ち上がって僕を置いたまま走り去っていったときはどうしようかと思ったけれど。


 『全く……あんた、不器用なんだから』と選手変わって、今度はキミのお母さん。看護師だというキミのお母さんはキミが手こずっていた包帯も何のことはないようにテキパキと巻いてくれた。『ありがとう』というとキミのお母さんはキミとよく似た笑顔を浮かべて『これで大丈夫』だと頭を撫でてくれた。違うか、キミがお母さんに似ているんだね。動いてみると包帯で傷口が直に地面に触れないから痛まない。ちらりとキミを見ると座ったままどこか悔しそうにお母さんを見ていたっけ?確かに、僕の包帯を巻いてくれたのはキミのお母さんだけど、僕をここに連れてきてくれて、水で血を落としてくれたのはキミなんだよ?だから座り込んでいるキミの元に言って右手に体を摺り寄せて『ありがとう』と言うとキミは『えへへ』とはにかんだっけ?


 気が付けばあれだけ照り付けていた太陽は沈み、青空は茜色の空に代わっていた。暇乞いするなら今だ。それにそろそろ家に帰らないと夜道は危険だ。僕はリビングに設けられた大きな窓の方に近づいて、キミと窓を見比べて『そろそろ帰るね』と言った。するとキミは『え?』っと寂しそうな顔をしたっけ?そんなキミに代わってキミのお母さんが『また、遊びに来てくれる?』って聞いてきた。するとキミは『僕、待ってるから。約束』と僕に右手の小指を向けてきた。そんなキミの右手の小指に触れ『気が向いたらまた来るよ』と言うと、嬉しそうに『約束だよ』と言ったっけ。


  その日から、時折キミの家に行くのが習慣になっていった。




♢ ♢ ♢



 



 ある日、僕がキミの家のリビングの窓を覗くとキミはリビングの机で本を広げて何やら熱心に鉛筆片手に動かしていたね。僕がいつものように窓をコツンコツンと叩くとキミはぱっと僕の方を向いて持っていた鉛筆を放した。すると、当然だけれどキミが持っていた鉛筆は床に落ちてペン先が折れてちゃった。キミはたまにちょっとドジを踏む。おっちょこちょいなんだよ、全く。

 『にーに!』という彼に窓から招き入れてもらって、『何してたの?』と聞くと『夏休みの宿題、全部やったつもりだったけど、読書感想文あるの、すっかり忘れてた』とえへへって笑ってたね。キミはちょっとドジで、おっちょこちょい、そしてうっかり屋さん。もう少ししっかりしなさいってお母さんによく言われるもんね。僕も思うよ。ちなみに、この『にーに』とはキミがつけた僕の愛称で、僕は年上だからキミのお兄さんだもんね。えっへん、敬ってもいいんだぞ。

『明日、提出なんだ。頑張ってすぐに終わらせるから、もう少し待っていて。お父さんにサッカーボール買ってもらったんだ。一緒に遊ぼう!』と頼まれるから、仕方ない。お兄さんだからね。待ってあげるよ。『仕方ないな』と言って彼を見上げると『えへへ、やった。すぐ終わらせるからね』とリビングのテーブルにダッシュ。ちょっと急に走っちゃうと……『うわぁ、危ない!』。ほら、言わんことはない。キミの靴下をひっぱると寸でのところでキミはバランスを立て直したね。『にーに、ありがとう』。はいはい、どういたしまして。全く、世話の焼ける弟だな。キミの宿題が終わるまで、待っていてあげるから、早く終わらせてね。




♢ ♢ ♢



 


 『にーに、いらっしゃい』、そういって窓を開けて出迎えてくれたのはキミのお父さん。何度もキミの家に通ううちにお父さんとも顔なじみだ。ビール片手に口元にビールの泡をつけているところを見ると、今日は休日かな。ゆっくりしているところ押しかけては申し訳ない。踵を返して戻ろうとすると『あいつと母さん、俺を置いて買い物に行っているんだ。にーにが来たらサッカーするって騒いでたからさ、もうすぐ帰るからその間俺と話をしよう』と言うや否や、僕はキミのお父さんに連行される。『今日のつまみは秋刀魚なんだ。にーにも好きだろう?』。しょうがない、美味しい旬の秋刀魚を肴にお父さんの愚痴を聞いてあげるよ。





♢ ♢ ♢






 『最近、寒くなったね』。キミがはぁーと息を吐くと息が白い。もうすっかり陽が落ちるのも早くなっている。僕とキミはコタツに潜って身を寄せ合っていろんな話をしていた。そんなときに、『にーに、温かそうで羨ましいな』なんてキミは言ってったけね。キミはそういうけれど、これが夏は暑いんだ。顔を突き出してうんざり顔をすると『にーに、変な顔~』なんてキミは楽しそうに笑っていたっけ。






♢ ♢ ♢





『えへへ、見てみて!』。桜舞う季節、じゃんと僕に見せてきたのは名札。キミと出会って何度桜を見ただろう。『俺ね、最上学年になったんだよ』と嬉しそうに僕に見せる名札には小6と書いていた。なんだか、感慨深いものがある。『そろそろ、行かないと遅刻しちゃうでしょ?』、そこに急かすように言ってきたのはキミのお母さん。『わぁ!本当だ!』、お母さんの言葉に慌てるキミ。あの日かるっていた黒いランドセルは、今では少し小さく感じる。あんなにも小さかったキミも、本当に逞しくなったものだ。なんだか感慨深いな。『行ってきます!』と勢いよくリビングを出たキミに『水筒!水筒!忘れてる!』、お母さんがキミの水筒を持って慌てて出ていった。……まぁ、おっちょこちょいなのは変わっていない。





♢ ♢ ♢






 『にーに、どうしよう』。そういって真剣な顔をして僕を見てきたのは夏の厳しさが今だ残っていた秋晴れの日。僕がキミの家を訪ね、窓の外から覗くと、キミはまるで待ってたと言わんばかりにこっちにやってきたよね。ソファーに案内してくれるキミに『どうしたの?』と見上げながら尋ねると『友達と喧嘩しちゃった』と悲しそうに眉をハの字にさせる。『どうして?』と聞くと、友達がキミが一生懸命図工で作った粘土を崩しちゃったんだったね。『それで、俺かーっとなっちゃって。もう二度と口を利かない!絶交だ!って言っちゃった。友達も悪気があったわけじゃなくて、たまたま足を滑らせただけなのに』一気に捲し立てて、キミは泣きそうな顔をしていたよね。だから、僕はお兄さんとして一言言わせてもらおう。キミに体を寄せて『じゃあ、キミはどうしたい?』とだけ言った。『謝って……仲直りしたい……』。じゃあ、やることは決まってる。大丈夫、キミなら大丈夫。僕は震えるキミの腕に自らの体を摺り寄せた。


 後日、キミの家にやってくるとキミははにかんで僕を迎え入れてくれたね。言わなくてもわかるよ。仲直りできたんでしょ。



♢ ♢ ♢






寒さがだいぶやわらぎ緑が増えてきたある日、僕がキミの家にやってくるとキミとキミのお母さん、お父さんがリビングに座っていた。お母さんは綺麗なドレスを着飾って、お父さんもいつもより気合いが入っている顔だ。『どうしたんだい?』と言いながらいつものようにコツンコツンと窓を叩くとキミがぱぁっと嬉しそうに僕を見つけて、窓を開けて部屋の中に入れてくれて、ソファーのところへ連れてきてくれた。『今日は卒業式なんだ』、そしてキミは僕の頭を撫でた。お父さんもお母さんもその様子を嬉しそうに見ている。でも、何故だかキミの顔は少しだけ浮かない。『嬉しくないの?』と首を傾げると『何人か友達が違う中学校に行くんだ。だから、今日でお別れなんだ』とキミは首を竦めたね。あぁ、きっと寂しいんだ。『でも、一生の別れじゃない。また、きっと会えるよね』と同意を求めてくるキミに『うん、またきっと会えるさ』と頷くとキミは『そうだね』と笑った。






♢ ♢ ♢





 『学ランだってー』。真新しい黒い服に身を纏い、キミはどこか誇らしげに笑っていた。『にーにとおそろい』、くるりと回って見せたキミは僕を見て嬉しそうだった。『中学校は部活があるんだって。何部に入ろうかな?いろいろあって、どれにしようか迷ってるんだ』、ワクワクしている風のキミの隣で『サッカ―は?』と僕と遊ぶとき用に置いてあるサッカーボールをついっと押した。いつもは僕とキミだけでサッカーしてたけど、前、言ってたもんね。サッカーの試合に出たいって。『あ、そっか。サッカー部!さすが、にーに!』。僕と一緒にした特訓の成果を見せてやれ。






♢ ♢ ♢








『あら、今日も来たのね。ごめんね、今日も部活で遅いみたい』、申し訳なさそうに僕を家に招き入れてくれたのはキミのお母さんだ。キミはサッカー部のレギュラーになって大活躍するんだって意気込んでいたよね。『今週の土曜日、練習時間があってスタメンで出させてもらうらしいんだけど、にーにも来る?』と言うお母さんに『土曜日は予定もないし、弟の活躍を見てやるのも兄の務めだ』と言うとお母さんは『あの子には秘密で連れってちゃおう』といたずらっぽく笑ったよね。いいね。びっくりさせてやろう。


その週の土曜日。キミはシュートを3点も決めて大活躍。さすが僕の弟分。僕も誇らしい。『にーにも来てたの!?』、試合が終わって僕を見た瞬間の驚き顔が忘れられない。





♢ ♢ ♢








 『最近、あいつとの接し方がわからない』。そう言って縁側で僕の隣でビールを煽っていたのはキミのお父さん。『何で?』と問いかければ、『何を言っても反発してくる』と困ったように肩を落とした。キミは中学二年生になり、部活の中心メンバーになって部活に忙しくて訪ねてみてもいない日が多くなっていた。だから、その代わりにキミのお父さんの話をよく聞いていた。『反抗期ってやつかなー。あいつも変わったな』なんて言っていたけれど、僕だけが知っている。ついつい言い返してしまったとキミが落ち込んでいるのを。ちょっと素直になれないだけでキミの本質は変わってないことを。しょうがない。キミと同じように慰めてやるか。足元に体を摺り寄せ『早く仲直りできるといいね』というと『ありがとう』とキミと同じように僕の頭を撫でた。

 本当、お互い不器用なんだから。






♢ ♢ ♢







その日は真夏の暑い日だった。僕がキミの家に訪れるとお母さんが『今日は試合が終わって、部屋にいるのよ』とキミの部屋に連れてきてくれた。お母さんが扉を少しだけ開けると中からすすり泣く声が聞こえた。お母さんは何も言わずにしゃがみ込んで『お願い』と僕の背を押した。ベットの上で布団に包まっていたのはキミだ。『どうした?』と言えば『にーに?』と布団の中から声が聞こえた。もぞもぞと布団が動いたかと思うと、その中から出てきたのは目を真っ赤にさせたキミ。泣いていたのか目は充血していた。そんな彼の元へひょいと行くと『……負けたんだ』とぽつりと言った。『そっか……』と彼の隣で言うと悔しそうに瞳に涙を浮かべて『あの時、俺が決めていれば……。先輩は、今年が最後なのに』力なく項垂れる。キミのせいじゃないって言ったところでキミは首を縦に振らないってことはわかっている。だったら、キミの悔しい気持ち僕も背負うよ。『次は、勝つ!勝つったら、勝つ!勝つんだ!!』力強く言うとキミは目を丸くして僕を見ていた。きっと突然の大声でびっくりしたんだろうね。すると、多く息を吐いて『そうだな。うじうじしていても仕方がない。ありがとう、にーに』と僕を膝の上に乗せて、僕の喉を撫でた。そのままキミを見上げるとキミは嬉しそうに右の小指を僕に向けたね。『来年は勝つ!』と短く宣言するキミの小指に『当たり前!』とその指を叩いた。

翌年、キミが率いたチームは県内大会で優勝した。もちろん、お母さんに頼み込んでその瞬間を見たんだ。家に帰りつくなり、キミは僕を抱え上げて『にーにのおかげだ!ありがとう!』とはにかんだよね。





♢ ♢ ♢








『最近、来なかったから心配してたんだよ』そういって僕を見るなり、キミは駆け出してきたよね。お母さんに命じられたのか、洗濯物を片手に持っていた。木々はすっかり色を変え、赤、黄さまざまに彩っていた。僕は『ごめん、ごめん』と謝った。最近、何故だかフラフラすることが多くなったんだよな。何でだろう?『まぁ、無事でよかった』と彼は嬉しそうに笑って、僕を縁側につれていった。お母さんに命じられた洗濯物をほっぽって、キミは僕の隣に座って空を見上る。あぁ、知らないよ?あとで怒られても。そんなことを思いながらキミを見ると『俺、どうしたらいいかな?』とぽつりと言った。『え?』と首をかしげると『この前、サッカー部を引退してさ。次は受験だって先生に言われてさ。何をしたらいいか、わからなくって』とキミは僕の頭を撫でたね。『それで、将来どんなふうになりたいのかって、先生に言われて。俺なんかが何ができるのだろうって思ってさ。俺の夢って何だろうって』、そういってキミは自分の両手を前に突き出して空に翳した。あんなにも小さかった手のひらが今や僕の顔よりも大きい。『って、ごめんね、にーに。こんな話。今日は何してあそぼっか』と言った瞬間、キミは不思議そうな声を出したよね。だって、僕が自らの足をトントンとしていたのだから。何度も。何度も。それはかつて僕が怪我をしたことがある足。すると、彼は大きく目を見開いた。その瞳に光が灯り、『俺、獣医になりたい』と太陽のように笑った。

 『獣医になりたいと思うなら、まずは言われたことをきちんとできる人になろうか』、そんな僕たちとの間に割って入ったのはお母さんの押し殺したような声だ。『げっ』、やばいっていう顔をしても、もう遅いよ。もう、言わんこっちゃない。いくら大きくなろうとキミのおっちょこちょいは治らない。




 この日、キミの夢が見つかった。






♢ ♢ ♢









 その年の暮れ、僕がキミの家に久々に訪れるとキミはハチマキをしてコタツで何やらしていた。窓をコツンと叩くと勢いよく僕の方を振り返き、『にーに!』とドタバタと窓を開けた。『何してたんだよ。なかなか来ないから心配してたんだぞ』とどこか怒ったような顔をしてキミは言ってきたね。『足に力が入らなくて動けなかったんだ。許せ』と言うと心配そうな表情を浮かべてキミは僕を見てきた。しんみりするのは好きじゃない。だから、話を変えるためにキミがしていたハチマキに触れると『気合いハチマキ、いいでしょ』と笑う。『にーににも作ったんだ』とポケットの中から取り出すと、キミは僕の頭にそれを巻き付けた。そのセンスは如何に?それに、頭がムズムズするんだけど。『俺、獣医になれるように頑張るから、応援してね』にっこりと嬉しそうに笑うもんだから、仕方がないなという気持ちになった。キミが僕に右の小指を向けてきたから、僕はその小指にハイタッチ。

 翌年の3月、キミは見事合格した。





♢ ♢ ♢








『にーに、どうしたの?』、僕を見た瞬間キミはブレザー姿で血相を変えて駆けてきたね。それもそのはずだった。いつものように住処から出て、いつものようにキミの道を歩いていたのだけれども、ふらついて用水路に落ちてしまっていたのだから。おまけにその時に足の付け根を擦ってしまっていて、出血していたのだ。思ったよりも血が出ていて、僕が歩いた後の草には血のりがついていた。慌てたようにキミは家の中から救急セットを持ってきて、大きめのたらいを持ってきて、庭先の水道の中に水を溜めた。そして僕を抱え上げ、その中に入れようとする。本能的に逃げようとすると『駄目。そのままだとばい菌が入る。一旦体を綺麗にしよう』と力強く言われた。ぎゅっと目を閉じるとキミは僕が不安にならないように優しくポンポンと体を叩いてくれた。『離すなよ、離すなよ』と彼の耳元で囁くと『わかっているって』と汚れている辺りに僕が驚かないように何度も優しく水をかけてくれた。『うん、綺麗になったね』というキミの声で自らの体を改めると泥だらけだった体がすっかり綺麗になっていた。そのままキミは僕をタオルでくるんで、水気を取ってくれた。綺麗になった傷口にガーゼを当てて、包帯をキミは巻いたね。『こんな感じかな?』というと彼は、包帯をハサミで切って僕の足に巻き付けた。キツキツでもゆるゆるでもない。丁度いい巻き付きだった。その手際のよさに目をパチパチとさせていると『あの頃の俺とは違うんだ』とどこか心外そうな顔をした。『俺は獣医になるからな。見てろよ』とキミは右の小指を立てた。まるで約束したあの日のよう。『仕方ない。見ててやるよ』と僕はあの日と同じように彼の小指に触れた。



 守ることのできない約束だということを知らずに。







♢ ♢ ♢











 それは突然の出来事だった。


『にーに!!』、朦朧とする意識の中聞こえたのはキミの声だった。切羽詰まったような声。ぼんやりとする目を精一杯開けるとキミの大きな瞳と目が合った。あれ?おかしいな。この時間はキミは学校だろう?今日はサッカー部の練習試合があるって言ってなかったっけ?高校でもレギュラー取ってやるんだって意気込んでいたよね。けれども、何故だかキミは大きな瞳に涙を一杯に見開いていた。『老いで咄嗟によけれなかったのでしょう。即死は逃れましたが、もう……』、キミの隣で目を伏せていたのは見知らぬ人だった。けれども、彼の言葉で思い出した。いつものようにキミの家に向かおうとして、住処を出たんだ。いつもならブロック塀の上を通っていくのだけれども、最近はフラフラすることが多くて危なっかしい。だから道の白線の内側を通って歩いていたんだ。けれども、その場所に大きな車が突っ込んできた。気が付いたときには遅くて、僕は避けることができなかったんだ。

(あぁ、僕は死ぬのか)

 思えば我ながら悲惨な人生だったと思う。生まれてすぐに親と引き離された。泥だらけになりながら、母を探したけれども見つからず、あてもなくさまよっていた。

(けれども、僕は幸せだと思う)
(だって、キミと出会えたのだから)

顔を動かしてキミを見ると顔を真っ赤に充血させて、大きな涙を流していた。『泣かないで』と言ってもキミの瞳から涙はとめどなく溢れていた。そんなキミに『ここに連れて来られる前に、貴方の家の飼い猫ではないかと連絡があったのですが、間違いないでしょうか?』と見知らぬ誰かは言った。恐らくお医者さんだろう。そんなお医者さんに『飼い猫なんかじゃない!!』、キミは確かにそう言ったよね。

『俺の友達なんだ……!』

 そして横たわっている僕の目の前で泣き崩れた。

『にーに、約束したじゃないか!俺が獣医になる姿を見てくれるって』

(ごめんね。その約束は守れそうもない)

『もう少しなんだ。もう少し!』

(そんなに泣いて、男前が台無しだよ)

 泣き叫ぶキミの手に僕は自らの手を置いた。すると、キミは大きく目を見開いたんだ。

(あの時、僕を救い出してくれたキミの手ならきっとたくさん救えるよ)
(だから、泣かないで)

『俺……、絶対獣医になるから……。だから、空の上からでもいい。見守っていて』

 キミは震える声でそう言った。キミは右手の小指を差し出してきた。

(うん、それなら守れそうだ)

僕はキミの小指に頬を摺り寄せた。すると、キミは『うん、約束だ』涙をこらえるようにくしゃっと笑った。それだけで、十分だった。

目を閉じると酷く心が穏やかだった。初めて出会ったあの日の君の手のぬくもりを僕はいつまでも忘れない。

(今までありがとう。僕の大切な友達)

 僕は眠る前に聞こえたのはキミの『にーに、ありがとう』という声。






♢ ♢ ♢







「その写真の猫、名前なんて言うんですか?」

 とある動物病院で愛猫の診察に来ていた20ほどの女性が、ふと診察室に置いてある写真を指さした。そこに映っているのは、一匹の黒い猫と一人の少年。

  そんな彼女の質問に答えたのは年の功は40ほどの黒い髪の中に白髪交じりの男性。優しそうな目元が特徴的だ。

「いつも、『にーにー』って鳴くから、『にーに』って呼んでいました」

 彼はどこか楽しげに目を細めて、そう答えた。『変わった猫ですね』という彼女に『えぇ、本当に。人間みたいなやつでした』と彼は答えた。

「私の気持ちをよく理解してくれて、いつも話し相手になってくれて」
「へぇ」
「私が、今獣医としてここにいることができるのも彼のおかげなんですよ」

 彼の言葉に『素敵ですね』と微笑む彼女に『だから』と言って彼は傍らに置いてある写真立てに目を向け「彼は私の大切な友達です」と懐かしそうに目を細めて、その写真を撫でた。

窓の外は真夏の日差しが眩しいほどに照りつけ、青い空はどこまでも澄んでいた。

【これはとある猫と少年の優しい記憶の物語】
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