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8、白日
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夜、淳也は栗原明理のマンションにいた。
明理の住まいは昔からあまり治安的に好まれない場所であるが、近年大型商業施設ができたおかげで改善されている。それに伴い土地価格が上がったが、まだ少し離れればかなりリーズナブルだ。
淳也はワンルームマンションの狭い部屋を見渡した。家賃を援助すると言ったが、断固として受け入れなかった。贅沢はしないと言って聞かなかったのだ。淳也が政治家の息子であり、秘書をしているので、彼女なりに堅気の生活を貫こうと考えているのだろう。残念ながらいかに頑張っても、一度ついた汚れを淳也の身内や後援会のお歴々は許してくれることはないだろう。
淳也にとって明理のその思いは申し訳ないという気持ちを含めてたまらなくうれしいし、愛しい。そして罪悪感が募る。それでも明理は淳也にとってなくてはならない存在だった。
本当なら、親が決めた相手と将来のために結婚することになった――そう告げねばならないのに。早く伝えねばならないのに。
言えない。
丸いローテーブルを前にして胡坐をかいている淳也の目には、料理をしているエプロン姿の明理が映っている。仕事帰りで疲れているだろうに、二人で食べるからと夕食を作ってくれたことに泣ける思いだった。
「できたよー」
「おう」
運ばれてきたのはハンバーグと白米、味噌汁、サラダだ。白米はレトルト、味噌汁はフリーズドライ、サラダはスーパーの総菜だが、ハンバーグは明理が最初から作ったものだ。
淳也はハンバーグにウスターソースとケチャップをかけてさっそく頬張った。
「ん、うまい」
「ホント? よかった。つか、練って焼くだけなんだけど」
「うまいうまい。肉汁たっぷりだ」
うれしそうに笑う明理の純真な顔は、見るほどに淳也を温かくしてくれるが、裏切っているという思いが苛む。今日のように癒やされたくて会えば、確かにささくれだった心は落ち着くものの、真逆に罪悪感が押し寄せてくる。
「なんかヤなことあった?」
「まぁな」
「そっか。ふふ」
「なにがおかしいんだよ」
明理は「だって」と言いながら、ますます笑いを深める。
「俺が弱ってる姿が滑稽とか?」
「違う違う。そんなわけないでしょ。そーじゃなくて、イヤなことあって、私で癒やされたいって思ってくれるのがすっごくうれしいなーーって思ってるの」
「――――」
「私、淳也の役に立ってるって思えてさ。私からしたらさ、政治なんて雲の上すぎてどんな世界か想像もできない。だから淳也の苦労も想像できない。想像できないことにはさ、癒やすとか手助けするとか、いくらなにかしてあげたいって思っても手立てを考えられないじゃない? 淳也に言われたことしかしてあげられないから。淳也がささくれ立っている時に会いたいって思ってくれるの、すっごくうれしいの」
「…………」
なにも言わない淳也の顔を明理は下から覗き込むようにして見て名を呼ぶ。対して等の淳也は言葉をなくし、目を潤ませている。
「淳也?」
「お前さ」
「うん」
「もし……」
「うん」
「もし、俺が、全部捨てて二人でどっかに逃げようって言ったら、ついてくるか?」
その言葉に明理がきょとんと目を丸くした。
「俺のために貯金全部はたいて専門学校行って、やっとネイリストになれたのに、また」
「行くよ」
「――――」
「だってここでやめたら、貯金全部はたいて専門学校行った意味ないもん。ネイリストは手段、貯金全部はたいたのは目的。淳也と一緒になりたいっていう希望。だから一緒に逃げようって言われたら、逃げるよ」
「どこかわからなくても?」
明理はまた「ふふふ」と笑った。
「地球上でしょ?」
「…………」
「だったらいいよ。あの世って言われたら、さすがにそれはヤだけど。淳也と楽しい毎日を過ごしたいから逃げるのに、あの世に行ったらかなわないもん」
「そりゃそうだ」
明理の笑顔に璃桜の青ざめた顔が重なった。
璃桜は絶対に言わないだろう。
璃桜とはこんな温かい会話はできないだろう。
今の坂戸家にも、政治家になった未来の自分にも、華原璃桜は有益な存在だ。きっと多くの利益を与えてくれ、未来の、政治家坂戸淳也はそれを享受できるだろ。だが一人の人間としての自分は璃桜によって幸福であれるとは思えない。時間が経てば情が湧くとも思えない。
理由は、愛していないから。愛されていないから。
(いや、俺もそうだけど、あの女も同じだろう。生きるには成功するかもしれないけど、心が満たされた豊かな人生になるとか、とても思えない)
ふと手を伸ばし、明理の頬に触れる。
「お前が好きだよ」
「淳也? 私も好きよ」
「俺と、一から始めてほしい」
愛しい女から、いいよ、といとも簡単に欲しい返事を与えられた。
★
同じ頃、璃桜は部屋にこもって一人項垂れていた。
陽子が坂戸事務所に一人勝手に訪れたことは大問題だが、それでも華原夫妻は璃桜を責めるわけでもなく、注意で終わった。本人への叱責は史乃が行う。俊嗣は陽子と会話どころか顔を合わすこともない。過去の出来事への懺悔や後悔ももちろんあるが、新たなトラブルを生じさせないためだ。
この四半世紀、陽子は俊嗣と関係を持ち、璃桜を産んだことはまったく咎められなかった。史乃は一言も陽子を責めなかったのだが、課したことは唯一、俊嗣に近づかないことだった。
この屋敷の長は華原俊嗣だ。すべて俊嗣のものである。その彼が気を遣って生活するのはおかしい。よって住み込み家政婦として雇われた陽子が注意することだ。顔を合わさないよう配慮して仕事に就くように、と沙汰された。もっとも、陽子には事実上仕事など振られていないので、屋敷の一角で静かに暮らせという意味なのだが。
はあ、と大きなため息が部屋中に響く。
考えれば考えるほど息苦しくなって、泣きたくなってくる。
今までいろいろと手を焼きはしたものの、他人に迷惑をかけるような真似はしなかった。それがよりにもよって、縁談先である坂戸事務所に行き、淳也に無茶な頼み事をするとは。
「……ぅ、うっ」
ため息は嗚咽に変わった。だが、悲しみよりも不安によるものだった。
不安――いや、恐怖かもしれない。
また、もっと大それたことを仕出かすかもしれない。そう思うと、震えが起こる。
璃桜が結婚して屋敷を出るなら自分も一緒に出たい。娘がいないなら、ここに住みたくない――陽子の主張はもっともだし、璃桜も史乃にこれ以上迷惑はかけられないと思い、決断した。史乃に恩返しができる好機とも思った。陽子を史乃の前から去らせられるのは、自分しかないと思っていた。
だから。
なのに。
もしかすれば大きな勘違いだったのかもしれない。このままでは、華原夫妻だけではなく、淳也や淳也の両親、その身内にまで迷惑をかけるかもしれない。
(怖い)
体の奥底から震えが起こる。
今までなかったから今後もない、というのは甘い考えかもしれない。だが、ない以上、約束を理解して守っていると思える。それが破られ、約束を破ればもうたがが緩んでやりたい放題になるのではないか。
そして、やっぱり陽子は大切なことをまったく理解していない。どれだけ言っても無駄――そう確信してしまうし、してしまった自分もまた陽子に対して暴走してしまいそうで怖い。
(どうしたらいいの? 私、ここを出て、一人でお母さんを見れる?)
意味もなくスマートフォンを探し、握りしめた。ぎゅっと強く目をつぶり、必死に祈る。
誰に祈っているのか、なぜスマートフォンなのか、よくわからない。だが、このスマートフォンだけが救いのような、頼りのような、そんな気がした。
鳴ってほしい。お願い、鳴って――そう思ってしまう。
璃桜のスマートフォンが鳴ることは滅多にない。
明理の住まいは昔からあまり治安的に好まれない場所であるが、近年大型商業施設ができたおかげで改善されている。それに伴い土地価格が上がったが、まだ少し離れればかなりリーズナブルだ。
淳也はワンルームマンションの狭い部屋を見渡した。家賃を援助すると言ったが、断固として受け入れなかった。贅沢はしないと言って聞かなかったのだ。淳也が政治家の息子であり、秘書をしているので、彼女なりに堅気の生活を貫こうと考えているのだろう。残念ながらいかに頑張っても、一度ついた汚れを淳也の身内や後援会のお歴々は許してくれることはないだろう。
淳也にとって明理のその思いは申し訳ないという気持ちを含めてたまらなくうれしいし、愛しい。そして罪悪感が募る。それでも明理は淳也にとってなくてはならない存在だった。
本当なら、親が決めた相手と将来のために結婚することになった――そう告げねばならないのに。早く伝えねばならないのに。
言えない。
丸いローテーブルを前にして胡坐をかいている淳也の目には、料理をしているエプロン姿の明理が映っている。仕事帰りで疲れているだろうに、二人で食べるからと夕食を作ってくれたことに泣ける思いだった。
「できたよー」
「おう」
運ばれてきたのはハンバーグと白米、味噌汁、サラダだ。白米はレトルト、味噌汁はフリーズドライ、サラダはスーパーの総菜だが、ハンバーグは明理が最初から作ったものだ。
淳也はハンバーグにウスターソースとケチャップをかけてさっそく頬張った。
「ん、うまい」
「ホント? よかった。つか、練って焼くだけなんだけど」
「うまいうまい。肉汁たっぷりだ」
うれしそうに笑う明理の純真な顔は、見るほどに淳也を温かくしてくれるが、裏切っているという思いが苛む。今日のように癒やされたくて会えば、確かにささくれだった心は落ち着くものの、真逆に罪悪感が押し寄せてくる。
「なんかヤなことあった?」
「まぁな」
「そっか。ふふ」
「なにがおかしいんだよ」
明理は「だって」と言いながら、ますます笑いを深める。
「俺が弱ってる姿が滑稽とか?」
「違う違う。そんなわけないでしょ。そーじゃなくて、イヤなことあって、私で癒やされたいって思ってくれるのがすっごくうれしいなーーって思ってるの」
「――――」
「私、淳也の役に立ってるって思えてさ。私からしたらさ、政治なんて雲の上すぎてどんな世界か想像もできない。だから淳也の苦労も想像できない。想像できないことにはさ、癒やすとか手助けするとか、いくらなにかしてあげたいって思っても手立てを考えられないじゃない? 淳也に言われたことしかしてあげられないから。淳也がささくれ立っている時に会いたいって思ってくれるの、すっごくうれしいの」
「…………」
なにも言わない淳也の顔を明理は下から覗き込むようにして見て名を呼ぶ。対して等の淳也は言葉をなくし、目を潤ませている。
「淳也?」
「お前さ」
「うん」
「もし……」
「うん」
「もし、俺が、全部捨てて二人でどっかに逃げようって言ったら、ついてくるか?」
その言葉に明理がきょとんと目を丸くした。
「俺のために貯金全部はたいて専門学校行って、やっとネイリストになれたのに、また」
「行くよ」
「――――」
「だってここでやめたら、貯金全部はたいて専門学校行った意味ないもん。ネイリストは手段、貯金全部はたいたのは目的。淳也と一緒になりたいっていう希望。だから一緒に逃げようって言われたら、逃げるよ」
「どこかわからなくても?」
明理はまた「ふふふ」と笑った。
「地球上でしょ?」
「…………」
「だったらいいよ。あの世って言われたら、さすがにそれはヤだけど。淳也と楽しい毎日を過ごしたいから逃げるのに、あの世に行ったらかなわないもん」
「そりゃそうだ」
明理の笑顔に璃桜の青ざめた顔が重なった。
璃桜は絶対に言わないだろう。
璃桜とはこんな温かい会話はできないだろう。
今の坂戸家にも、政治家になった未来の自分にも、華原璃桜は有益な存在だ。きっと多くの利益を与えてくれ、未来の、政治家坂戸淳也はそれを享受できるだろ。だが一人の人間としての自分は璃桜によって幸福であれるとは思えない。時間が経てば情が湧くとも思えない。
理由は、愛していないから。愛されていないから。
(いや、俺もそうだけど、あの女も同じだろう。生きるには成功するかもしれないけど、心が満たされた豊かな人生になるとか、とても思えない)
ふと手を伸ばし、明理の頬に触れる。
「お前が好きだよ」
「淳也? 私も好きよ」
「俺と、一から始めてほしい」
愛しい女から、いいよ、といとも簡単に欲しい返事を与えられた。
★
同じ頃、璃桜は部屋にこもって一人項垂れていた。
陽子が坂戸事務所に一人勝手に訪れたことは大問題だが、それでも華原夫妻は璃桜を責めるわけでもなく、注意で終わった。本人への叱責は史乃が行う。俊嗣は陽子と会話どころか顔を合わすこともない。過去の出来事への懺悔や後悔ももちろんあるが、新たなトラブルを生じさせないためだ。
この四半世紀、陽子は俊嗣と関係を持ち、璃桜を産んだことはまったく咎められなかった。史乃は一言も陽子を責めなかったのだが、課したことは唯一、俊嗣に近づかないことだった。
この屋敷の長は華原俊嗣だ。すべて俊嗣のものである。その彼が気を遣って生活するのはおかしい。よって住み込み家政婦として雇われた陽子が注意することだ。顔を合わさないよう配慮して仕事に就くように、と沙汰された。もっとも、陽子には事実上仕事など振られていないので、屋敷の一角で静かに暮らせという意味なのだが。
はあ、と大きなため息が部屋中に響く。
考えれば考えるほど息苦しくなって、泣きたくなってくる。
今までいろいろと手を焼きはしたものの、他人に迷惑をかけるような真似はしなかった。それがよりにもよって、縁談先である坂戸事務所に行き、淳也に無茶な頼み事をするとは。
「……ぅ、うっ」
ため息は嗚咽に変わった。だが、悲しみよりも不安によるものだった。
不安――いや、恐怖かもしれない。
また、もっと大それたことを仕出かすかもしれない。そう思うと、震えが起こる。
璃桜が結婚して屋敷を出るなら自分も一緒に出たい。娘がいないなら、ここに住みたくない――陽子の主張はもっともだし、璃桜も史乃にこれ以上迷惑はかけられないと思い、決断した。史乃に恩返しができる好機とも思った。陽子を史乃の前から去らせられるのは、自分しかないと思っていた。
だから。
なのに。
もしかすれば大きな勘違いだったのかもしれない。このままでは、華原夫妻だけではなく、淳也や淳也の両親、その身内にまで迷惑をかけるかもしれない。
(怖い)
体の奥底から震えが起こる。
今までなかったから今後もない、というのは甘い考えかもしれない。だが、ない以上、約束を理解して守っていると思える。それが破られ、約束を破ればもうたがが緩んでやりたい放題になるのではないか。
そして、やっぱり陽子は大切なことをまったく理解していない。どれだけ言っても無駄――そう確信してしまうし、してしまった自分もまた陽子に対して暴走してしまいそうで怖い。
(どうしたらいいの? 私、ここを出て、一人でお母さんを見れる?)
意味もなくスマートフォンを探し、握りしめた。ぎゅっと強く目をつぶり、必死に祈る。
誰に祈っているのか、なぜスマートフォンなのか、よくわからない。だが、このスマートフォンだけが救いのような、頼りのような、そんな気がした。
鳴ってほしい。お願い、鳴って――そう思ってしまう。
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