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第10章 この社会を革命するために 後編
第159話 他人を変えるのではなく自分を変える Is that the way to go?
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数日後、治は南原心療内科を訪れた。今は待合室にいて、壁の薄型テレビから流れる精神医学の啓もう番組を見ている。司会の中年女性がこんなことを言う。
「人生において重要なのは、物の見方、考え方です。さまざまな出来事をうまく解釈できるようになれば、ストレスはとても小さくなります。
たとえばこれをご覧ください。コップに水が半分入っていますね。もし悲観的な人が見たら、「たった半分しか入っていない!」と考え、辛い気持ちになるでしょう。
しかし楽観的な人は違う。「まだ半分も残っているぞ、嬉しい!」と考える。このように、物事から受けるストレスはけっきょく解釈次第なのです」
的を射た意見だ。たしかに物事は解釈次第である。けれどもさ……、と治は思う。
けれどもさ、世の中には解釈を変えても片づかないようなトラブルがごまんとあるじゃないか。そういう難敵に出くわした場合はどうしたらいい?
たとえば、酔っ払いに絡まれて暴言を吐かれ、抗議したら何発も殴られたとしよう。実に不快な経験だが、どう解釈したらストレスのない結論にたどり着けるのか?
「運の悪い事件はいつだって起きるから、あれこれ悩んでもしょうがない」
「暴力的な人は心が貧しい、ならば憎むよりもむしろ憐れんで許してやるほうがいい」
なるほど、世間のどこかには、こう考えて気が楽になる人もいるだろう。だがこれは一種の誤魔化しではないのか? 単なる詭弁では?
物事への解釈を変えることでストレスを減らすという方法は、そんなにいいものなのだろうか。こうして考えをめぐらす治に受付の女性が声をかける。
「次の方、剣崎さま。診察室にお入りください」
治は「はい」と答えて思考を打ち切り、席を立つ。心療内科で診察を受けるのは人生初の経験だが、さて、いい結果で終われるだろうか。
ドクター南原は中年の日本人男性だ。彼は右耳のソケットの無線機を使って机上のパソコンにアクセスし、脳波操作で電子カルテを書きつつ治と話す。
「こんにちは、剣崎さん。今日はどのようなことでお越しになられましたか?」
「えぇ、その……」
南原は治の一挙手一投足すべてを観察している。声を元気よく出せているか、椅子にどう座っているか、手に自傷の痕はあるか、指に吐きダコはできているか。
治は南原の視線を感じて思う。(まるで警察に職務質問されてジロジロ見られてる時みたいだ)。じつに居心地が悪い。彼はそれを我慢して語り出す。
「このまえ知り合いに言われたんです。最近ちょっと疲れてるんじゃないかって……」
「それは仕事に関することでそう指摘されたんですか?」
「仕事! 仕事、仕事ですか……」
南原の表情がわずかに険しくなる。なぜなら、患者が鋭く反応する話題は高確率でトラブルの原因を含んでいるからだ。南原は更なる情報を得るために質問する。
「お仕事についてお困りなんですね?」
「えぇ、えぇ! じっさい仕事はすごく困ってるんですよ。毎日ずっと忙しくて、それを上司に言っても取り合ってくれないし、部下はワガママばっかり!
まぁでも、結構な額のお給料をもらってますから、これくらいは我慢すべきかもしれません。我慢できないのはむしろ全く別のことなんです」
「むしろ全く別のこと?」
「なんていうか、今の仕事がインチキだと感じることがしょっちゅうあって、それが辛いんです。たとえばエージェントっていうのが、あ、いや……」
治は戦慄する。(待て、この件については喋るな。社外秘のインチキ行為を他人に言ったなんてこと、もしLMにバレたらやばい)。
急いで治は黙りこむ。これは南原にとってまったく歓迎できない事態だ、患者にもっと喋ってもらわないと仕事が進まない。彼は説得を試みる。
「剣崎さん、安心してください。医者には守秘義務があるんです。患者さんが打ち明けた秘密を誰かに喋るなんて、そんなことはあり得ません」
「しかし、それはいくつかの例外がありますよね。たとえば、警察が犯罪捜査のためにカルテの情報を必要としていて、それの提出を先生に命じるとか……」
「確かにおっしゃる通りですが、でも剣崎さんは犯罪をしたわけじゃないでしょう。なら、心配なんて一つもいりませんよ」
言って、南原は穏やかに笑う。つられて治も笑うが、しかし彼の心は恐怖にひきつる。
そう、守秘義務には例外がある。そして2084年の日本とは、LMが裁判所に令状を発行させ、それを持った警察や情報局が好きなだけ個人情報を漁れる社会だ。
いくら医者が守秘義務を強調しても、監視社会の手先たちの前では無意味である。だったらこういう曖昧な言い方でごまかして身を守るしかない。
「先生、たとえばですね、自分のやっている仕事がもしかしたら法律に違反しているかもしれないとします。でもやらなくちゃいけない。その板挟みが辛いんです」
「ふむ……」
「僕は板挟みから抜け出すアイデアを必死に考えたんですが、ぜんぜん思いつかなくて……。こういう時はどうしたらいいんですか?」
南原は「えぇ、そうですね……」と適当に返事して、パソコンの時計を脳波で調べる。(診察を始めてからもう7分も経ったのか)。ずいぶんな長さだ。
精神科や心療内科の診察なんて今も昔も同じである。患者1人あたりの診察時間は10分前後。南原は(そろそろ話を終わらせよう)と思って喋り出す。
「剣崎さん、心理学や精神医学の世界では、しばしばこんなことが言われるのをご存知ですか。
”他人を変えるのではなく自分を変える。それによってストレスに対処する”
たとえば、電車に乗っていたら騒がしい人がいて迷惑に感じる。その時、相手に「静かにしてくれ」と頼んで希望通りになる可能性は、そんなに高くないでしょう。
こういう時は自分を変えるんです。別の車両に移るとか、イヤホンをするとか、そうやってストレスに対処するほうがずっと効率のいい解決策ですよ」
「はい」
「お仕事が辛いということですが、まずは剣崎さんご自身の考えを変えてみて、それでストレスを減らしてください。念のためにお薬を出しますから、まずは……」
治はもはや南原の話など聞いていない。その胸中に渦巻くのは不満と怒りと憤りだ。
ヤブ医者め! お前はつまり、「インチキにイライラするような考え方を変えて、むしろインチキを許容するような方向に切り替えろ」って言いたいんだろう!
僕はそんな話を聞きたくて受診したんじゃない! インチキを認める方法ではなく、インチキを改善する方法を知りたいんだ!
自分を変えることで対処可能なこと、不可能なこと、この世には二種類のトラブルがある。そして僕が怒っているようなインチキは、後者に属しているんじゃないか?
そういったことすらも「自分を変えてなんとかしろ」と説教しやがるなら、精神科医なんてみんなくたばっちまえ!
「人生において重要なのは、物の見方、考え方です。さまざまな出来事をうまく解釈できるようになれば、ストレスはとても小さくなります。
たとえばこれをご覧ください。コップに水が半分入っていますね。もし悲観的な人が見たら、「たった半分しか入っていない!」と考え、辛い気持ちになるでしょう。
しかし楽観的な人は違う。「まだ半分も残っているぞ、嬉しい!」と考える。このように、物事から受けるストレスはけっきょく解釈次第なのです」
的を射た意見だ。たしかに物事は解釈次第である。けれどもさ……、と治は思う。
けれどもさ、世の中には解釈を変えても片づかないようなトラブルがごまんとあるじゃないか。そういう難敵に出くわした場合はどうしたらいい?
たとえば、酔っ払いに絡まれて暴言を吐かれ、抗議したら何発も殴られたとしよう。実に不快な経験だが、どう解釈したらストレスのない結論にたどり着けるのか?
「運の悪い事件はいつだって起きるから、あれこれ悩んでもしょうがない」
「暴力的な人は心が貧しい、ならば憎むよりもむしろ憐れんで許してやるほうがいい」
なるほど、世間のどこかには、こう考えて気が楽になる人もいるだろう。だがこれは一種の誤魔化しではないのか? 単なる詭弁では?
物事への解釈を変えることでストレスを減らすという方法は、そんなにいいものなのだろうか。こうして考えをめぐらす治に受付の女性が声をかける。
「次の方、剣崎さま。診察室にお入りください」
治は「はい」と答えて思考を打ち切り、席を立つ。心療内科で診察を受けるのは人生初の経験だが、さて、いい結果で終われるだろうか。
ドクター南原は中年の日本人男性だ。彼は右耳のソケットの無線機を使って机上のパソコンにアクセスし、脳波操作で電子カルテを書きつつ治と話す。
「こんにちは、剣崎さん。今日はどのようなことでお越しになられましたか?」
「えぇ、その……」
南原は治の一挙手一投足すべてを観察している。声を元気よく出せているか、椅子にどう座っているか、手に自傷の痕はあるか、指に吐きダコはできているか。
治は南原の視線を感じて思う。(まるで警察に職務質問されてジロジロ見られてる時みたいだ)。じつに居心地が悪い。彼はそれを我慢して語り出す。
「このまえ知り合いに言われたんです。最近ちょっと疲れてるんじゃないかって……」
「それは仕事に関することでそう指摘されたんですか?」
「仕事! 仕事、仕事ですか……」
南原の表情がわずかに険しくなる。なぜなら、患者が鋭く反応する話題は高確率でトラブルの原因を含んでいるからだ。南原は更なる情報を得るために質問する。
「お仕事についてお困りなんですね?」
「えぇ、えぇ! じっさい仕事はすごく困ってるんですよ。毎日ずっと忙しくて、それを上司に言っても取り合ってくれないし、部下はワガママばっかり!
まぁでも、結構な額のお給料をもらってますから、これくらいは我慢すべきかもしれません。我慢できないのはむしろ全く別のことなんです」
「むしろ全く別のこと?」
「なんていうか、今の仕事がインチキだと感じることがしょっちゅうあって、それが辛いんです。たとえばエージェントっていうのが、あ、いや……」
治は戦慄する。(待て、この件については喋るな。社外秘のインチキ行為を他人に言ったなんてこと、もしLMにバレたらやばい)。
急いで治は黙りこむ。これは南原にとってまったく歓迎できない事態だ、患者にもっと喋ってもらわないと仕事が進まない。彼は説得を試みる。
「剣崎さん、安心してください。医者には守秘義務があるんです。患者さんが打ち明けた秘密を誰かに喋るなんて、そんなことはあり得ません」
「しかし、それはいくつかの例外がありますよね。たとえば、警察が犯罪捜査のためにカルテの情報を必要としていて、それの提出を先生に命じるとか……」
「確かにおっしゃる通りですが、でも剣崎さんは犯罪をしたわけじゃないでしょう。なら、心配なんて一つもいりませんよ」
言って、南原は穏やかに笑う。つられて治も笑うが、しかし彼の心は恐怖にひきつる。
そう、守秘義務には例外がある。そして2084年の日本とは、LMが裁判所に令状を発行させ、それを持った警察や情報局が好きなだけ個人情報を漁れる社会だ。
いくら医者が守秘義務を強調しても、監視社会の手先たちの前では無意味である。だったらこういう曖昧な言い方でごまかして身を守るしかない。
「先生、たとえばですね、自分のやっている仕事がもしかしたら法律に違反しているかもしれないとします。でもやらなくちゃいけない。その板挟みが辛いんです」
「ふむ……」
「僕は板挟みから抜け出すアイデアを必死に考えたんですが、ぜんぜん思いつかなくて……。こういう時はどうしたらいいんですか?」
南原は「えぇ、そうですね……」と適当に返事して、パソコンの時計を脳波で調べる。(診察を始めてからもう7分も経ったのか)。ずいぶんな長さだ。
精神科や心療内科の診察なんて今も昔も同じである。患者1人あたりの診察時間は10分前後。南原は(そろそろ話を終わらせよう)と思って喋り出す。
「剣崎さん、心理学や精神医学の世界では、しばしばこんなことが言われるのをご存知ですか。
”他人を変えるのではなく自分を変える。それによってストレスに対処する”
たとえば、電車に乗っていたら騒がしい人がいて迷惑に感じる。その時、相手に「静かにしてくれ」と頼んで希望通りになる可能性は、そんなに高くないでしょう。
こういう時は自分を変えるんです。別の車両に移るとか、イヤホンをするとか、そうやってストレスに対処するほうがずっと効率のいい解決策ですよ」
「はい」
「お仕事が辛いということですが、まずは剣崎さんご自身の考えを変えてみて、それでストレスを減らしてください。念のためにお薬を出しますから、まずは……」
治はもはや南原の話など聞いていない。その胸中に渦巻くのは不満と怒りと憤りだ。
ヤブ医者め! お前はつまり、「インチキにイライラするような考え方を変えて、むしろインチキを許容するような方向に切り替えろ」って言いたいんだろう!
僕はそんな話を聞きたくて受診したんじゃない! インチキを認める方法ではなく、インチキを改善する方法を知りたいんだ!
自分を変えることで対処可能なこと、不可能なこと、この世には二種類のトラブルがある。そして僕が怒っているようなインチキは、後者に属しているんじゃないか?
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