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プロローグ
それは過ち
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体育の授業。五十メートルを走ってそのスピードを測る。陸上選手志望の者以外特に実用性のない、ただ他人との優劣を明確にする数値を獲得するためだけの醜い時間だ。
誰が五十メートルを何秒で走ろうが俺にとっては知ったことではないので自分の順番が来るまで砂に混じった石ころを数えて時間を潰していた。その時、隣で雑草を何度もちぎっていた健人が口を開いたのだ。
「なぁ、サボテンは彼女とか作らないのか?」
「は?」
俺ではない他の誰かに話しかけたのかと思ったが、健人は最初にしっかりと「サボテン」と言った。もし俺に言ったのではないとすると健人はそこらに生えている本当のサボテンに話しかけたということになる。そも、この学校にはサボテンは生えていない。
「だから、彼女。欲しくないか?」
喉の奥がツンとした。胃液が逆流した故だ。
惨い。悍ましい。怖じ気が走る。なんと醜悪なのかと。
何故ならそれは、他愛もない話。世間話。友達同士でする人と関わるこれ以上ない言葉だったからだ。
「なぁ~聞いてんのかよ~」
俺の二の腕を健人は突いたり、つまんだりしてくる。
「いらねぇよ」
俺は無視を決め込むのは話が長引く悪手だと判断し、口の中の酸っぱい液体を飲み込んで簡潔に否定の意を述べた。
「なんでよ」
「なんでも」
「ホモか?」
「違ぇよ」
「好きな子とかいねぇの?」
「いない」
「好きなタイプは?」
「クリオネ」
頭に浮かんだ軟体動物の名を適当にそのまま口に出した。「キャラ付け必死な女子がよくそれ言うわ」と健人。知るか。
もういいだろ、と俺は話の終わりを伝えるため健人に背中を向けた。
だが、健人はそれを知ってか知らずか追撃の言葉を俺の背中に投げかけた。
「色識さんはどうしたんだよ」
「・・・・・・」
追撃なんてものではなかった。その言葉は必殺。確かな殺意を持った強烈な一撃。
絶対に触れてほしくなかった話題。一番出してほしくなかった名前。背中に落とされた重い鉄球の衝撃に俺は言葉を発することができなかった。
「サボテンに彼女ができたって聞いたときはマジで驚いたんだぜ。でも同時に嬉しくもあった。理由は分かんねぇけど多分、俺はサボテンのこと心配じてたんだなって」
いきなりなんだ。気色悪いし気分が悪い。今すぐに黙ってほしかった。
「それに、なんか付き合ってるときのサボテン。楽しそう・・・・・・とまでは言わねぇけどつまらなくはなさそうだった。色識さんともお似合いだったしさ。ほら、あの子もそんなに前に出るタイプじゃないだろ? だからどっか波長があったんだなって、俺も納得してたよ」
「何が言いたいんだよ」
健人がさっきから言っているのは本題ではない。それこそ本当に他愛もない話。もっと言えば、人間という生き物がよく使う醜い戦術。自分の話したいことを直接言うのではなく、相手にその話題に関連付くものをまず投げかけ、徐々に本題へ近づけていく、誘導尋問。俺はそれにまんまと乗っかってしまったようだ。
すると健人は、
「より、戻さないのかよ」
最悪だった。それは健人が大マジで聞いているということもそうだし、なにより俺の脳内で自分の浅はかな行動と、弱く儚い靄のような笑顔がフラッシュバックしたからだ。
色識紫苑。その子は俺の隣のクラスで、俺の元カノだ。
吐きそうだ。元カノ、だなんて単語。脳内で思い浮かべただけでも気が狂いそうで、口にしたらその場で蒸発してしまいそう。しかしその単語は恐ろしいことに、俺が思い浮かべようが口にしようがそんなことは関係なしに一生付きまとう。たった一度の過ちのせいでその称号は生涯のものとなる。
このふざけた名誉を払拭する方法はただ一つしかない。
「そもそも付き合ってねぇよ」
根源からの否定。
「いやいや。いつも一緒に帰ってただろ。それを付き合ってるって言うんだよ」
「別に一緒に帰ってたわけじゃない。よくあるだろ。道端歩いてて前にいる人がやたらいなくならない現象。あれだよ」
「でも、告白されたんだろ?」
「・・・・・・されたけど」
色識さんが顔を真っ赤にして「き」と連呼していた夕方の屋上。その言葉が、俺に好意を伝えるものだと知ったのは、やかましい風がなくなった後だった。
あれは紛れもない告白。男女が繋がる起点となる行為。それを色識さんはして、俺はされた。
「じゃあ彼女じゃん」
どんどん陣地に攻め込まれ、ついに俺の玉は詰まされてしまった。
俺は無言で投了。
「もっかい、話してみてもいいんじゃね?」
「興味ない」
それは本心だった。負の感情もあれば一学生として彼女持ちというステータスを勝ち誇っていたこともある。だけど、本当にそれだけ。どこかふわりとした概念じみたその現象に満足していた俺は、彼女、色識さんにはなんの興味も、ない。
「じゃあ、なんで付き合ったんだよ」
どこか、怒ったような声色の健人の言葉。
「過ち」
俺はそれだけ言って立ち上がる。前の生徒がゴールに辿り着いた。俺の番だ。
憂鬱だ。精神病院で検査を受けても御墨付きを貰えるほどに、憂鬱だ。
俺は気怠げに位置に着く。隣のヤツは一丁前にクラウチングスタートの構えだ。合図の空砲が鳴る。俺の隣から人が消え、変わりに前へ現れる。
俺は少し遅れて走り出す。スタートダッシュなんてできるはずがない。憂鬱だから。足も動かしたくない。腕も振りたくもないし汗もかきたくない。あぁ、憂鬱。
その原因は決まっている。先ほどの健人の言葉。そして忘れるように努めていた薄気味悪い思い出。それから。
「ぶ」
一歩、二歩。三歩まではいけない。前に出るはずの左足は右足の踵を蹴り、空中で両足が絡まる。俺は前のめり、そのまま地面へ真っ逆さま。目の前が茶色になり、口の中にはジャリジャリとしたもの。
憂鬱。
俺は運動が死ぬほど苦手だ。
誰が五十メートルを何秒で走ろうが俺にとっては知ったことではないので自分の順番が来るまで砂に混じった石ころを数えて時間を潰していた。その時、隣で雑草を何度もちぎっていた健人が口を開いたのだ。
「なぁ、サボテンは彼女とか作らないのか?」
「は?」
俺ではない他の誰かに話しかけたのかと思ったが、健人は最初にしっかりと「サボテン」と言った。もし俺に言ったのではないとすると健人はそこらに生えている本当のサボテンに話しかけたということになる。そも、この学校にはサボテンは生えていない。
「だから、彼女。欲しくないか?」
喉の奥がツンとした。胃液が逆流した故だ。
惨い。悍ましい。怖じ気が走る。なんと醜悪なのかと。
何故ならそれは、他愛もない話。世間話。友達同士でする人と関わるこれ以上ない言葉だったからだ。
「なぁ~聞いてんのかよ~」
俺の二の腕を健人は突いたり、つまんだりしてくる。
「いらねぇよ」
俺は無視を決め込むのは話が長引く悪手だと判断し、口の中の酸っぱい液体を飲み込んで簡潔に否定の意を述べた。
「なんでよ」
「なんでも」
「ホモか?」
「違ぇよ」
「好きな子とかいねぇの?」
「いない」
「好きなタイプは?」
「クリオネ」
頭に浮かんだ軟体動物の名を適当にそのまま口に出した。「キャラ付け必死な女子がよくそれ言うわ」と健人。知るか。
もういいだろ、と俺は話の終わりを伝えるため健人に背中を向けた。
だが、健人はそれを知ってか知らずか追撃の言葉を俺の背中に投げかけた。
「色識さんはどうしたんだよ」
「・・・・・・」
追撃なんてものではなかった。その言葉は必殺。確かな殺意を持った強烈な一撃。
絶対に触れてほしくなかった話題。一番出してほしくなかった名前。背中に落とされた重い鉄球の衝撃に俺は言葉を発することができなかった。
「サボテンに彼女ができたって聞いたときはマジで驚いたんだぜ。でも同時に嬉しくもあった。理由は分かんねぇけど多分、俺はサボテンのこと心配じてたんだなって」
いきなりなんだ。気色悪いし気分が悪い。今すぐに黙ってほしかった。
「それに、なんか付き合ってるときのサボテン。楽しそう・・・・・・とまでは言わねぇけどつまらなくはなさそうだった。色識さんともお似合いだったしさ。ほら、あの子もそんなに前に出るタイプじゃないだろ? だからどっか波長があったんだなって、俺も納得してたよ」
「何が言いたいんだよ」
健人がさっきから言っているのは本題ではない。それこそ本当に他愛もない話。もっと言えば、人間という生き物がよく使う醜い戦術。自分の話したいことを直接言うのではなく、相手にその話題に関連付くものをまず投げかけ、徐々に本題へ近づけていく、誘導尋問。俺はそれにまんまと乗っかってしまったようだ。
すると健人は、
「より、戻さないのかよ」
最悪だった。それは健人が大マジで聞いているということもそうだし、なにより俺の脳内で自分の浅はかな行動と、弱く儚い靄のような笑顔がフラッシュバックしたからだ。
色識紫苑。その子は俺の隣のクラスで、俺の元カノだ。
吐きそうだ。元カノ、だなんて単語。脳内で思い浮かべただけでも気が狂いそうで、口にしたらその場で蒸発してしまいそう。しかしその単語は恐ろしいことに、俺が思い浮かべようが口にしようがそんなことは関係なしに一生付きまとう。たった一度の過ちのせいでその称号は生涯のものとなる。
このふざけた名誉を払拭する方法はただ一つしかない。
「そもそも付き合ってねぇよ」
根源からの否定。
「いやいや。いつも一緒に帰ってただろ。それを付き合ってるって言うんだよ」
「別に一緒に帰ってたわけじゃない。よくあるだろ。道端歩いてて前にいる人がやたらいなくならない現象。あれだよ」
「でも、告白されたんだろ?」
「・・・・・・されたけど」
色識さんが顔を真っ赤にして「き」と連呼していた夕方の屋上。その言葉が、俺に好意を伝えるものだと知ったのは、やかましい風がなくなった後だった。
あれは紛れもない告白。男女が繋がる起点となる行為。それを色識さんはして、俺はされた。
「じゃあ彼女じゃん」
どんどん陣地に攻め込まれ、ついに俺の玉は詰まされてしまった。
俺は無言で投了。
「もっかい、話してみてもいいんじゃね?」
「興味ない」
それは本心だった。負の感情もあれば一学生として彼女持ちというステータスを勝ち誇っていたこともある。だけど、本当にそれだけ。どこかふわりとした概念じみたその現象に満足していた俺は、彼女、色識さんにはなんの興味も、ない。
「じゃあ、なんで付き合ったんだよ」
どこか、怒ったような声色の健人の言葉。
「過ち」
俺はそれだけ言って立ち上がる。前の生徒がゴールに辿り着いた。俺の番だ。
憂鬱だ。精神病院で検査を受けても御墨付きを貰えるほどに、憂鬱だ。
俺は気怠げに位置に着く。隣のヤツは一丁前にクラウチングスタートの構えだ。合図の空砲が鳴る。俺の隣から人が消え、変わりに前へ現れる。
俺は少し遅れて走り出す。スタートダッシュなんてできるはずがない。憂鬱だから。足も動かしたくない。腕も振りたくもないし汗もかきたくない。あぁ、憂鬱。
その原因は決まっている。先ほどの健人の言葉。そして忘れるように努めていた薄気味悪い思い出。それから。
「ぶ」
一歩、二歩。三歩まではいけない。前に出るはずの左足は右足の踵を蹴り、空中で両足が絡まる。俺は前のめり、そのまま地面へ真っ逆さま。目の前が茶色になり、口の中にはジャリジャリとしたもの。
憂鬱。
俺は運動が死ぬほど苦手だ。
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