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 日曜日の朝、凪が朝食の用意をしていると章が起きてきた。
「十一時に親がやってくることになった。昼を一緒に食べさせてほしいと言っている」
 それを聞いて凪は言葉に詰まる。母親が来た時は突然だったので準備ができなかったと言い訳できたが、今回は事前に知らされている。しかも父親も一緒だ。かなりハードルが上がっているように凪は感じた。

「ごめん。迷惑をかける」
 章が頭を下げる。凪の料理は絶品だと章は思っている。それでも裕福な両親の肥えた口を思うと、章でさえ気が重い。
「迷惑なんて思っていないわ。章の両親だもの。ただ、満足してもらえるようなものが作ることができるか心配なだけ」
「とりあえず、車でスーパーへ行こう。今日は特売日なんだろう」 
 二人はシェアカーを借りてスーパーに繰り出した。
 いつまでマンションに住むことができるか不明のため、凪は先週ほどは買い込まなかった。それでもトロ箱一杯千円という様々な魚やイカ、貝が入ったものを思わず買ってしまった。




 午後十一時の約束の時間きっちりに章の父と母がやってきた。厳しい顔をしている章の父親だが、章によく似ていたので凪は怖いとは思わなかった。ただ、上流階級の女性を息子の嫁にと考えているだろう父親の期待を裏切ってしまうのが心苦しい。しかし、反対されてとしても凪は章を諦めることなんてできない。嫌われても罵られても、章と暮らしたいと思う。

 リビングの大きなソファに父親と母親は並んで座った。凪はコーナに座り、章は少し離れて床に敷かれたラグに直接座り込んだ。やはり距離を取ろうとする章に母親は少し傷つく。章と凪の距離感は以前来た時よりは開いているが、章はそれほど凪を恐れている様子ではないので、母親の胸中は複雑だった。

「関根凪。二十三歳。三歳の時に両親が離婚。母親と母親方の祖父母の元で暮らす。高校卒業と同時に家を出て全国チェーンのスーパーに就職。雇用形態は地元採用枠社員。仕事はレジ打ち。二十一歳の時に同い年の大学生木下圭と同棲。昨年留年した木下は現在大学四年生で、来春機械メーカーに就職予定。大学の友人には関根凪が処女であったことと、卒業後は別れると話している。関根凪の部屋からは度々悲鳴が聞こえると近隣住民の証言があり」
 章の父親は冷静に文書を読み上げる。凪のことを調べたらしい。凪は神妙に父親の声を聞いていた。
「止めろ! これ以上凪を貶めるな。来年二十歳になったら甲斐田の家から抜けて凪の籍に入れてもらうから。ここも出ていく。絶対に迷惑はかけない。だから、もう放っておいてくれ」
 章は他の男と暮らしていた凪のことを聞きたくはなかった。凪から同棲していたことは聞かされてはいたが、それでも詳しくは知りたくはない。
 章の願いは凪と一緒にいることだけ。

「まだ女性恐怖症は治っていないのだろう。まともな職にも就けないお前が、ここを出て暮らしていけると思っているのか?」
 父親は呆れたように言い放つ。
「章さんは工場で勤務していて、一日も休まず仕事へ行っています。私も働きますので二人で生きていくぐらいはできます」
 凪は章の父親でも許せないと思った。章は毎日必死に働いている。そのお金の大半を凪との暮らしのために渡してくれた。
「凪さんは納得しているのか? 甲斐田の姓を捨てたただの貧乏な男と本当に結婚するつもりなのか? 甲斐田の嫁になってここに住み私たちからの支援を期待していたのでは?」
 章の父親は見極めようとするかのように凪を見つめている。母親もきつく睨む。
「そんなつもりは微塵もありません。私は優しい章さんと結婚したい。それだけです」
 凪は二人に向かって頭を下げた。大切な息子を奪うことになる。それでも章が欲しい。

「凪は家を探してくれている。なるべく俺の給料だけで借りられる部屋に住むつもりだ。子どもができたら凪は働くのが難しくなるから」
 章も凪が側にいるのならばそれだけで幸せだと思う。贅沢など望まない。
 誘拐されている時はいつ死ぬかわからない地獄のような毎日を過ごしていた。それに比べると凪の作った料理を食べて凪と体を重ねる日々を送ることができるのは天国だと章は思う。

「子どもができるようなことをしているのか?」
 章の父親に睨まれて凪は頬を染めて俯いた。女性恐怖症の章から誘った筈はないと父親は思う。凪は未成年の章を誘ったことが後ろめたくて言い訳もできない。
「申し訳ありません」
 凪は謝ることしかできなかった。
「凪は悪くない。俺が誘ったんだ。凪、荷物をまとめろ。今すぐここを出ていくぞ。工場の社長に相談して保証人になってもらってすぐに家を借りよう」
 凪をこれ以上悪者にされたくない章は、この場を離れようと立ち上がった。
「でも……」
 両親が章を心配する気持ちが痛いほどわかるから、凪は素直に頷けない。せめて、二人には結婚を納得してほしいと思う。

「章、待て。落ち着いて話を聞け」
 父親が顔を動かし章の座るように促す。立ち上がらない凪に諦めたように章は再び腰を下ろした。

「章、凪さん。結婚は許す。しかし、甲斐田の姓を捨てることは許さない。凪さんには嫁に入ってもらう。そして、結婚後も引き続きこの部屋の管理をお願いしたい。管理費は凪さんの給料と同じだけ払おう」
 父親の申し出に驚く凪と章。
「でも、私は管理なんてできないので、管理費をいただく訳にはいきません」
 これほどの部屋に住むには莫大な賃料を払わないといけない。それなのに更にお金をもらうことなどできないと凪は思う。
「凪さんの時間を買いたいのです。勤めに出る時間を全て章のために使ってやってもらえませんか? 私たちから支援を受けるのが嫌というのであれば、金は子どもに使ったらいい。金はいくらあっても困らないだろうから」
 父親は悪戯が成功した時のように笑う。その笑顔は章にとても似ていると凪は思った。
「はい」
 凪は思わず頷いていた。

「あと一つ、木下圭とはきっちりとかたをつけろ。凪さんのアパートへ行く日程が決まったら連絡をしてこい。腕のいい弁護士を向かわせる。もちろん章も一緒に行け。大事な花嫁なんだからしっかりと守れよ。乗ってきた自動車を置いていくから使えばいい」
 結婚を許された驚きから立ち直っていない凪と章に、父親がそう告げた。父親も木下圭の所業が気に食わないらしい。
「わかっている。二度と凪に近づかせない。凪を泣かせたことを後悔させてやる」
 凪が見たこともない章の笑顔は、獲物を追い詰める肉食獣のようだった。父ももまた同じような笑顔で答える。


「そろそろ、昼食の用意をしてもらっていいかしら。今日のメニューは何?」 
 話は終わったようなので母親が凪に尋ねた。殊更ハードルを上げた自覚はある。凪がどう答えるか楽しみだ。
「パエリアとサラダ、そして、魚のマリネです」
「私たちは以前スベインに住んでいたことがあってね。パエリアに関しては少しうるさいのだが」
 凪の答えを聞いた父親が更にハードルを上げる。
「パエリア鍋があったのでお好きかもしれないと思ったのですが、とても本場のパエリアをご存知の方に出せるものではなくて……」
 凪は悩んでしまった。
 凪はスーパー内のレシピコンテストで優勝して冊子に採用されたことがあり、パエリアは得意料理だと思って作ることに決めたが、両親が本場の味を知る人たちだったのは誤算だ。

「嫌ならば食わなければいい。残ったら俺が全部食うから。心配しないでいつものように作って。凪の作る料理は世界一だから」
 いつもの優しそうな笑顔を凪に向ける章。凪は安心したように頷く。

 パエリアは魚介類だけではなくて肉好きの章のために鶏肉も入れることにした。食材をパエリア鍋に並べてオーブンで蒸し焼きにする。その間にサラダと魚をったマリネを作る。
 相変わらずの見事な手際だと母親は感心して見ていた。
 
 キッチンにいい匂いが漂ってくる。母親だけではなくリビングで待っていた父親もキッチンに顔を出した。

 

 十二時を少しまわり、皆の腹が空いてきた頃にパエリアが出来上がった。視覚にも訴えたかったので凪は鍋ごとダイニングテーブルに運ぶ。六人がけの大きなテーブルは鍋を置いても広々としている。凪が蓋を取ると湯気が上がった。
「おぉ」
 父親と母親が思わず声を上げた。
 章は早く食べたくて待ちきれない。

「少しにしておきます」
 凪はそう言って真っ白い皿にパエリアを少しよそった。
「俺はめちゃ多くがいい」
 章はよだれが垂れそうなほど真剣にパエリア鍋を見つめている。



「スペインに住んでいたなどと言わなければ良かったな。結局章に全て食われてしまった」
 マンションの部屋を辞してエレベーターに乗った父親が残念そうに呟いた。
「そうですね。スペインの友人宅で食べたパエリアを思い出しました。高級ではないけれど食材は新しくて丁寧に作っていましたね。家庭料理のパエリアをもうすこし食べたかったです。まぁ、章があれだけ喜んでいたのだから我慢しましょう」
 母親も少し残念そうだ。

「ねえ、あなた。あの木下とかいう男が就職予定の機械メーカーって、あなたの会社の子会社じゃないの。そのまま雇うつもり」
 とても品行が良いとは言えない男を雇用するのかと母親は疑問に思う。
「あのような男は放り出すと世間に迷惑をかけそうだ。それより、大事な息子の花嫁を苦しめた罪を一生をかけて贖わせる方がいいと思わないか?」
「なるほど。そうですね」
 章の両親は見つめ合って微笑んでいた。
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