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SS:卒業式の日

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 三月一日、章の通う定時制の工業高校では卒業式が執り行われる。いつもは作業着で登校している章も、今日はスーツにネクタイという装いで昼食後に家を出て行った。職場では公休扱いとなり出勤を免除されているので、章は直接高校へと向かうことになる。

 午前中には全日制の卒業式が行われ、定時制の卒業式は午後からだった。式が終われば章は帰ってくるので、凪は食事の用意に大忙しである。卒業のお祝いに章の好きなものをたくさん作ってあげたいと凪は思い、朝から頑張っていたのだ。

 朝から小豆から煮て赤飯を炊いた。ぶり大根は大根が飴色になるまで煮込んでいる。
 章が帰ってくれば、皐月が送ってくれた牛のヒレ肉をステーキにして、赤ワインでソースを作る。そして、みそ汁とサラダを作ればお祝いの膳が完成だ。
 章は凪の作る料理が大好きなので、今まで残したことも文句を言ったこともない。それでも凪はもっと美味しいものを作って、章を喜ばせたいと思っている。
 
 凪が忙しく夕食の用意をしていると、あっという間に夕方になった。
 章が帰ってきてリビングのドアを開ける。
「ただいま」
 その声を聞いた凪は、料理を作る手を止めてキッチンから広いリビングまで出てきた。
「お帰りなさい。そして、卒業おめでとう」
「俺は工業課程の履修者なので、卒業証書ではなく修了証書をもらってきたんだ」
 章は賞状を入れる黒い筒から修了証書を取り出し、凪に向かって広げてみせた。
「機械科課程修了証書なんだね。修了おめでとう。でも、章の勤める会社って、電器メーカーだって聞いているけれど、電氣科ではなくて、なぜ機械科なの?」
「電気のことは社長や先輩が全部教えてくれるから必要なかった。だから、機械科にしたんだ。工場には工作機械もあるしな。授業は本当に楽しかったぞ。旋盤とかフライス盤を使って、エンジンを作ったりするんだ」
 嬉しそうな章の笑顔は、凪まで楽しくさせるようだった。

「そうなんだ。良かったね。ところで、皐月さんから卒業と誕生日のお祝いが送られてきたの。一つは高級な牛のヒレ肉。そしてその箱」
 凪はリビングのテーブルの上に置かれた箱を指さした。箱はそれほど大きくなく、重さもさほどない。
「何だろうな?」
 章が箱を開けて中身を取り出してみると、それは鎖のついた革製の手かせだった。凪がネットで購入したものよりかなり高級品のようだった。
「えっ?」
 凪は戸惑いの声を上げた。羞恥で顔が赤くなっている。

「母親は何を考えているんだ!」
 章は慌てて手かせを箱の中に戻した。
「でも、私が買ったやつは風呂場で使ったから傷んでしまったので、このプレゼントはちょっと嬉しいかも。何度も買うのも恥ずかしいから」
 濡れたまま朝まで放置していたら合成皮革の手かせの表面がはがれてしまったので、凪は新しいものが欲しいと思っていた。しかし、通販とはいえアダルトグッズを買うのはやはり抵抗がある。
「いや。今度は俺が買うし。こんなことで母親の世話にはならないから」
 困った顔をした章を見て、凪は微笑んだ。

「もうすぐ章の二十歳の誕生日だから、成人のお祝いも兼ねているのかな」
「普通、アダルトグッズを息子に送らないだろう。凪は母親に困ったことされていないか?」
 最近、皐月はちょくちょく凪をランチとエステに誘っていた。凪は仲良くしてもらっていると言っているが、ネット情報を見る限り、嫁と姑の仲はかなり殺伐としていると章は思っている。
 皐月と凪がもめた場合、もちろん章は凪の味方をするつもりだ。
「皐月さんは章の幸せを心から望んでいるから、私と目的は同じだもの。困ることなど何もないわよ。このプレゼントだって、章に幸せになってもらいたいからだと思うの」
「そうだろうけどな。まぁ、母親に嫌なことされたり言われたら絶対に俺に言うんだぞ。絶対に守ってやるから」
「ありがとう」
 凪は章の心遣いが嬉しくて、その切れ長の目に涙がにじんでいた。

「手を洗ってきて。夕飯にしよう」
 涙を胡麻化すように、凪は努めて明るい声を出した。
「そうだな。腹減った」
「皐月さんからもらったお肉を焼くね。いいお肉だから絶対に美味しいと思うのよ」
「凪が作るものなら、安い肉だって本当に美味いからな」
 キッチンに向かう凪の背中に章がそう声をかける。それは章の心からの言葉だった。凪の料理を食べるだけで、章は幸せに満たされる。
 こんな幸せな日々が来ると章は思ってもみなかった。仕出し弁当とコンビで買ったもので食事を済ませていた時が、章には遠い昔のように感じていた。
「ありがとう」
 章が美味しいと言ってくれるだけで、凪も幸せを感じていた。前の同棲相手に貶されん殴られる奴隷のような日々を、章の優しい言葉が上書きしていくようだった。

 
「やっぱり美味いな。俺、凪に捨てられたら、本当に生きていけそうにもない。絶対に俺を捨てたりしないでくれよな」
 幸せそうに食事をしていた章が、急にしんみりと凪に頼んできた。
 この幸せを失ったら、生きる意味など見いだせないと章は思う。
「私も、章に捨てられたら生きていけないかもしれない。だから、いつまでも傍にいてね」
 こんなにも自分を必要としている章を失ってしまうと、凪は自分の価値がなくなると思ってしまう。
 章に必要とされたい。章に愛されたい。そして、章を愛したい。それが、凪の望みだった。
「当たり前だろう。凪が逃げたって俺は絶対に追いかけて傍にいるからな」
「うん」
 最近涙腺が弱くなっていると凪は思う。
 結婚式まであと二か月ほど。彼女は幸せすぎて怖い時がある。



「明日の土曜日、ベッドを運ぶ手伝いに尊が来てくれるって。環って女も一緒だから」 
 夕飯が終わって食器乾燥機に食器を入れ終えた凪に、章はそう言った。
「尊さん、怒ってなかった? 私たちの結婚に反対しているのではないの?」
 たまに家にやってきては、章のことを貶めて帰る尊を、凪は少し恐れていた。凪を試すためで本気ではなかったとわかっているけれど、襲われかけたのも凪の恐怖の原因の一つである。
「大丈夫だ。尊は結婚に賛成してくれている。あいつはいつも凪の飯を食っているのだから、その礼をしてもらわないと。明日も昼飯を食うらしいが、適当なものでいいからな」
 章のせいで親の愛情を得られなかったと怒っていた尊が、こんなことで呼び出されても平気なのだろうかと凪は心配するが、兄弟のことなので口出すことでもないと考え、せめて美味しいお昼ご飯を提供しよう、彼女はレシピを思い浮かべていた。
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