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神経性アレルゲン

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 善人アレルギーである。テレビにも出た権威あるらしき神経科医がそう言ったのだからそういうことにしよう。

 なかなか洒落た病名ではないか。馬鹿馬鹿しい病名ではないか。国の名医はそれらしく知的に偉ぶって言って私を納得させようとしたのだろうか。結果としてそれは成功している。

 私自身、長年に渡ってイラつかせた謎の不調の波に命名してほしかった。正体不明の妖怪に因縁をつけられ悪戯されている訳ではあるまいし。名付けてもらうとたちまち蓄積されていたイライラが崩れていった。私は名医のカウンセリングの腕に心底感謝した。

 脳には自身の言動に対し善悪の判断を司る部分があるらしい。生まれ育った環境あるいは生まれ持った脳の質によってその部分の働き加減が変わるのだが、悪玉ニューロンが反応すると悪玉ホルモン(別名ネガティブホルモン)が分泌される。
 よく犯罪者の顔がそれらしいとか、性格の悪さが顔に出るとか言うが、それらはこの悪玉ホルモンが作用されているからだというのだ。

 そして、何となくこいつは信用ならないとか、妙に勘が働くのは相手の悪玉ホルモンを無意識に察知するからであり、私の場合は善玉ホルモン(別名ポジティブホルモン)を察知する力が常人のウン十倍もあると検査で判明。

 この検査というのがよくあるパッチテストで、一体どんな聖者の血なのか知らされなかったが、血液中の善玉ホルモンに反応して、私は軽いじんましんを起こした。晴れて世界に指折り数えるほどしか症例のないアレルギー持ちになった。

 善人アレルギーは不便である。社会に適応しづらい。ピーナッツアレルギーの方が十分マシのはずだ。突然の具合の悪さを「きみは良い人だから」と言い訳しても苦笑いされるだけだし、逆もまたひんしゅくを買うだけだ。

 年を追うごとに善人に対し神経質となり、生活範囲は狭まり、働き口も限られてくる。それを見越していたおかげで、私は善人とほぼほぼ無縁なところに就職した。

 刑務官こそ天職だと、若かりし私は確信していた。しかし、人間はそう単純な生き物ではないのだ。
 善人アレルギーと連れ添っていくに当たり、何度も性善説と性悪説で議論となる。性善説派と性悪説派で分かれ、私は私に問う。大勢の囚人を観察していると、かつて通っていた幼稚園を思い出させる。

 初々しい保育士は「みんななかよしこよし」に憧れていた。そのためにはまず親たちが模範的回答を示さなければならなかった。親たちは各家庭の優劣をつけたがった。グループ内では褒め合い、外れれば憎たらしそうにした。若い女保育士にケチをつけ、男保育士には擦り寄った。
 子はよく見ている。親のように「お前の母ちゃん出ベソ」「お前の母ちゃん二号さん」「お前の父ちゃんリストラされた」「お前んち貧乏」とけなし合った。

 私は苦しかった。胸の辺りが締めつけられた。気管支の辺りがかゆく、特に冬の冷たい空気をキリキリ吸う時が辛かった。それは嫌なことを言われたり聞いたりしているからだと思っていた。そうではなかったのである。

 園児の脳の善悪を判断する部分は未熟である。これから常識を学んでいく時期である。物事の善悪を知らない子どもは残酷であり、ゆえに善人。悪を理解していなければ悪玉ホルモンは出ないし、子どもは”よいこ”であろうとするものだ。諭されない限り自分は”よいこ”だと信じている。どんな悪口も乱暴も心から悪意がなければ許されてしまうのだ。

 私にとって幼稚園は地獄だった。小学校は少々マシに思える。その頃になるとガキ大将が誕生し、そいつは悪を自覚していたからだ。悪だと知りながら悪童のポジションに徹した。悪は権力だとおぼろげながらにも学習していたのだろう。

 いじめも一学年にひとつは必ずあり、必ず悪意が存在した。そしてそれを見て見ぬふりする奴らは少なからず罪悪感や後ろめたさがあった。どいつもこいつも悪玉ホルモンを分泌させて、表向きいじめ撲滅を訴えていた教員たちすら素知らぬ顔をしてくれ、私のアレルギーを緩和させてくれた。

 それでも、やはり何人かはいるのだ。良かれと思っても悪気は一切ない。自分は常識人だと信じてやまない奴。みんな私を苦しめてきた。

 囚人たちにもそのタイプがいる。自分は何も悪くない。社会はそれを犯罪だと決めているが自分はそうは思わない。悪いことだとは知らなかったし、誰も教えてくれなかった。後悔は一切ないし、責任も感じない。悪いのは全て社会の仕組みだ。でも刑期は短い方がいいから反省していると裁判長に言っておいた――そんなタイプである。
 純心無垢で殺人やら楽しんできた危ない奴は幸いにもいない。そういう奴は特別施設行きだ。

 罪人の中でも、性犯罪者はたちが悪い。性的快感によって善玉ホルモンを分泌させるのだ。再犯率が高いのもうなずける。生物学的に子孫を残さなければならないことから由来しているのだろうが、とにかく迷惑な生き物だ。『ショーシャンクの空に』よろしくだろうが、同意を得た上での行為だろうが、判明次第そいつは独房送りとなる(来年には再犯防止の去勢制度が確立するらしいので待ちわびている)。

 ……そういう訳で、刑務官は天職ではなかった。いつ発作が起きても問題ないように、水なしでも飲める処方箋を肌身離さず持っている。

 この希有なアレルギーに半信半疑で面白がっている同僚は、それを世のため人のために利用できないのか言った。
 冤罪防止である。この施設にも無実の罪に問われた哀れな人々がいるかもしれない。いや、いるだろう。

 しかしだ。人間生きていれば何かしらの後ろめたいことがあるはずだ。冤罪だったとしてもそれに至るまでの経緯(もしもあの時あの場所にいなければ。もしもあの時ああ言っていれば。等々)に後悔の念があろうものなら悪玉ホルモンは出てしまう。一度分泌されたものは長時間消えない。初めから悪玉ホルモンを出さないためにはポジティブでいる他ない。

 同僚は言う。三二番は最初から堂々としているぞ、と。

 三二番は菩薩のような男である。無差別殺人の罪で何年か前に死刑を宣告されている。重度の天然パーマで、額には赤く膨れ上がったニキビ。経を書き、経を読み、迷いこんだ蟻を指に這わせて愛でている。
囚人たちに面白おかしく拝まれ、”ありがた屋”と愛称で親しまれていた。

 私はあいつが嫌いだ。目を合わせれば、途端に目がかゆくなり涙と鼻水が止まらなくなる。息が詰まる。目がチカチカする。全身が赤くまだらになり、体温は急上昇する。のぼせ、吐き気が襲う。

 いつ死刑執行日が決まるかわからない。確実に順番は回ってくる。それなのに三二番は柔和な笑みを浮かべ、余裕の態度を貫いている。刑が確定した日すら穏やかで、裁判長の言葉をつつましやかに聞いていたことを私はテレビで知っている。

 ありがた屋は誰かをかばっているのだと噂で聞いた。犯人は別にいて、身代わりになっているのだと。

「あいつが何人も人を殺すような野郎に見えるか?」
「いいや、見えねえな。俺も何かの間違いだと思っていた」

 ……どうだろうか。人は見かけによらない。“菩薩のような”男だとは思うが、我々の知る菩薩の姿は人の手で擬人化されたものであり、擬人化した人物の理想像に過ぎず、それを我々は受け入れているに過ぎない。本物の菩薩の姿を知っている訳ではなく、植えつけられたイメージに翻弄されているだけだ。

 よって“菩薩のような”男だと感じるのは根本的には間違っていると思う。第一、本物の菩薩とは何なのか。一から十まで、いや清浄から無限大数まで善に満たされている存在なら、私はたちまち地獄へ行く。

 仮に噂どおり、真犯人の身代わりになる使命を持って生まれてきたというのなら、はたして真犯人はどれほどの徳を積んだ人物で、天に恵まれているのだろうか。無差別殺人を起こしたのには、どれほど崇高な考えがあってのことだったのだろうか。無差別と見せかけて、実は天にとって滅せなくてはならなかったこの世の悪人ばかり狙ったのだろうか。

 ……馬鹿馬鹿しい。所詮犯罪者たちの妄想だ。電波系の集いだ。身近に神を感じていたいだけだろう。三二番は死を恐れない超ポジティブシンキングの持ち主なだけだ。アレルギーを利用した冤罪対策は、不可能だ。

 死刑囚たちの健康診断が行なわれた。三二番はニキビを除けば健康そのもので、ドナー登録された。死刑執行後は臓器を各地へ送られることになった。国連が推奨したこの施設での特別システムだ。さらに複数の白血病患者の脊髄と一致し、これは既に移植が行われている。患者は幼い子どもたちだという噂だから、囚人たちはあいつをヒーロー扱いする。

 しばらく私はかつてない地獄を味わった。三二番の善玉ホルモンの分泌量が凄まじく、どこにあいつがいるのかわかるほどだった。自分は善を働いたのだ、自分を犠牲に他者に恵みを与えたのだ、と自己主張している。そのオーラに触れた途端にぞわりと虫唾が走り吐き気を催す。

 全身の毛穴に蟻が入り込むような感覚に襲われた。たまたま蟻が指を這っていた時にはついに狂ってしまったかと思った。蟻はあいつの使いとでもいうのか。あいつを根本的に否定する私を“死刑宗”にでも入信させようと必死だ。笑えるじゃないか。

 薬の効き目が感じられないほど酷くなっている。あるだけむさぼり食い、吐く始末。囚人たちは私をキチガイ扱いした。カウンセリングを受けた方がいい、心療内科で診てもらえと同情の目もあったがそれも忌々しい。その思いやりをなぜ罪を犯す前に発揮しなかったのか。

 上司にそれとなく退職を勧められ(やんわりごまかしかわしたが)、この体質を呪いに呪った。全部三二番のせいだ。神に選ばれし男ならとっとと天国へ帰ってもらうしかない。毎日のように祈りをささげた。

 ……三二番の死刑がようやく執行され、施設内で追悼のムードが漂った。何人かが不正に入手した毒薬で後追い自殺を図り、五人がお陀仏となった。うち一人はドナー登録されていた死刑囚だったが、オジャンとなった。

 私は飛び降り自殺をした有名アイドルの後を集団で追った友人のガキ大将を思い出した。
 天使の妹と評されていたアイドルの死の訳は、プロデビューするまで交際していた男(マネージャーの策略により別れさせられたという噂だ)が芸能雑誌の記者に肌色の映像をリークしたから、また人気急上昇中だった俳優への悲恋からと言われている。

 親衛隊はそれぞれ雑誌社と俳優の事務所に突撃、そして逮捕された。元カレもあっという間に特定され、何度引っ越しても住所がばれ精神を病んでいるらしい。ガキ大将は保護観察処分となった。

 その後、私はガキ大将に誘われて墓標となる現場に訪れたが、私は向かい側からこっそり見学させてもらった。
 新人賞を取った『メランコリーはキャンディ味』とかいう曲を大合唱しながら、ビルの谷間の朝霧に吸い込まれていった親衛隊のピンクの法被が地上では茶色に濁っていた。まるで麻婆春雨みたいで、天使の成り損ないとも感じ取れた。

 街の空気はしばらく落ち込んだ。弔いの、チェリーピンクなラブソングは空回りし、それをタイアップ曲にしていた化粧品メーカーの株は暴落。レーザーディスクの欠片が路上を輝かせ、公衆便所にはポスターが突っ込まれ、女子高生のすすり泣く声がどこからともなく聞こえた。

 あの頃は……とっても平和だった。スモークブルーの冷たい平和だ。そんな心地よい平和がこの施設にも一時的に訪れていた。雑居房では各メンバー泣き寄り、独房では嗚咽が響き、壁に経を彫る者も現れた。

 連日ワイドショーで三二番の尊容が映し出されて一週間。真犯人と名乗る男が出頭した。仏様に諭されたみたいだったから。無実の人を見殺しにしてしまい、罪悪感に押しつぶされそうになったから。今は反省しています――

 たちまちマスコミが食いついて警察の無能ぶりを叩いた。同僚は頬を震わせながら私を叩いた。

「ほら! やっぱり冤罪だったじゃないか! どうして助けてやれなかったんだ?」
「善人が嫌いだからさ」
「お前は薄情な奴だ。地獄に落ちてしまえ」
「どうやれば助けられたっていうんだ。最高裁に直談判か?」
「それは俺の知ったことじゃねえ。このろくでなしめ」

 後悔はしている。今になって、やっぱりあいつは菩薩の化身だったのではないか。私を試し、本性を見極めようとしていた。そんな気がしてきたからだ。

 ただ、“世のため人のため”はけして私のためにならない。善は急げと言うが、死に急ぐことだけはしたくない。

 全身から悪玉ホルモンが汗に混じり放出されるのを感じる。自身の愚かさを痛感し、悔恨と罪悪の念が赤血球にまたがり四肢に行き渡るのを感じる。
 空気がおいしい。唾液がキャンディのように甘く感じている。当分は薬の服用をしなくていいはずだ。

 己の善人性ほど危険なものはない。即効性の猛毒だ。私は自らアレルゲンを生成してしまうのを防がなければならない。我が身の健康のため、三二番は尊い犠牲となったのである。

「ごめんよお、ありがた屋」

 そうわざとらしく涙声で呟いて、またもや手に引っ付いていた、三二番の生まれ変わりかもしれなかった蟻を指ですり潰して捨てた。

〈了〉
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