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九、五

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「―――おい、オーギガヤツ。鍵をかけ忘れているぞ」

 目が覚めた。川中島が裏口を閉めているところだった。汗でぐっしょりと濡れている上体を起こすと、体が硬くなっていて節々が痛んだ。

「こんなところで何を倒れているんだ?」

 俺の不満が噴出する。

「お前のハープのせいで! 毎回ポロポロポロポロ鳴らしやがって。そのせいで勉強もろくに集中できんし! いっそ東京のおっさんとこでやらせてもらいたいくらいじゃ!」

 ここまで吐き出して咳き込んでしまった。咳を受け止めた手の甲に黒いヘドロがついていてギョッとした。いや、気のせいだった。寝ぼけているらしい。

 川中島は暖簾に腕押しといった具合で、怪訝に眉をひそめただけだった。肩透かしを食らった気分だ。

「何度言えばハクトーさんと言えるんだ? 私の通信に文句があるのか?」

 俺は首をさすりながら立ち上がる。少し冷静を取り戻した。

「……通信?」
「そうだ」
「ハープのあれが、どことどう通信するんだ?」
「特別に見せてやろう。光栄に思え」

 昨日のことはもう怒っていないのか、川中島はポンチョを翻して二階へ向かう。

 おとなしくついていった俺はドアノブに手をかけて、ためらった。浴槽や便器をキャンパスにしているような男だ。どんな亜空間が待っているのか、脳みそがバグらないのか、一抹の不安を覚えた。

 だが杞憂で終わった。少しだけ開けて覗いて、何ともなさそうだった。

 きちんと片付いている自称天使の部屋。生活感のある、ごく普通の部屋。楽譜を置くスタンドに、ステレオ。レコードがラックに並び、ビートルズのポスターが貼られている音楽好きの男の部屋だった。
 テーブルには近未来感があるパステルカラーの小型テレビ。中古家電の掘り出し物か、おっさんが見つけてきたのか、いかにも年季の入った『SONY』のスカイセンサーには目を引いた。

 早い者勝ちというやつで俺の部屋にはなかったロフトがあり、天井は斜めになっていて、天窓がついている。

 隅にはアコギのケース。その隣には純白のケース。川中島は純白のケースを開け、小型のハープを取り出した。脇にはさんで支えられるほどの大きさで、金色にオレンジ色が混ざったような輝かしい色をして重量感があった。こうして見ると、川中島は様になっていた。

「さっきは酷い通り雨でな。やむなく通信を中断したのだ」

 川中島は慣れた様子で屋根の上に消えてしまう。天窓から注ぐ日差しが天国への梯子のようだった。

「おい、オーギガヤツ。上がって来い」

 躊躇した挙句、ロフトに上がる。丁寧に畳まれた敷き布団。またしても年季の入った『SONY』のラジカセが枕元にあった。

 そろりと天窓の縁に手をかけると風が髪を弄ぶ。俺は振り向いた。仙人はスカイセンサーの方に興味が向いていてこっちに来ようとはしなかった。

 落下の恐怖に煽られながら屋根に足をかける。つい息を止める。高ぶる心臓。

 前を向かせ、あっと出そうな声が奥へ引っ込む。視野が広がる。光線が目に飛び込み、まぶたの裏をちらりと焼かせた。
 雨上がりの眩い金色の空だ。たてがみのような光の筋が空に爪を立てている。一面が夕日影で輝き、天使の梯子がいくつも降り、紺碧の雲の海が流れるにつれて表情を変え、うねっている。

 山頂に辿り着いたかのような達成感を湧かせ、恐怖が薄まっていくのを感じる。息をゆっくりと吐きだす。

 ここは本当に世界で一番、天国に近い場所ではないか。本当は、この家は天使が住むためにあるのではないか。だってこの家は、ぽつんと一軒だけ寂しく浮いているのだから。それに気がつけば瞬く間に孤独感に襲われた。

「どうした。初めて夕陽を見るような目をしているぞ」

 銀色の髪を桜色や藤色そして金色に瞬かせて白い翼の天使は言った。空が波打つ。鼻の先端がつんと痛くなってきた。

「どうした。目が潤んでいるぞオーギガヤツ」

 心配の色を見せずにただ声をかける川中島。ハープが反射してさらに目が熱かった。

「やべぇ、わかんねぇ。やべぇ」

 我ながら情けない声を上げたものである。自分の存在が酷くちっぽけに感じてしまった。どうしようもなく自分が嫌になり、死にたくなった。ここから飛び立てば、一瞬にして天国へ行けそうな気がしたから。誰でもいい、誰かが愚かな俺を温かな腕で優しく抱き止めてくれるような気がしたから。

 思わぬことに感傷的になり、涙がこぼれる前に袖でぬぐい続ける。大学生にもなって、何気なく終わるはずだったこの日に限ってどうして……?

「知っているか? それを感動というんだぞオーギガヤツ。生きているうちにいろんなものを見ておけ。生きているうちは自由が利く」

 髪をなびかせながら川中島は言った。

「天使のお前もかなり自由にしてるじゃねーか。バンド活動」
「それとこれとは話は別だ。お前じゃないハクトーさん。私は生活費と、奴らの守護のためにいるのだ」
「人間の生態調査は?」
「生態といっても、あらゆる人間たちの命や人生、神様に対する意識を統計的に調査しているのだ」
「命の意識?」
「そうだ。直感で人間を選び、守護する。そして反応を見る。オーギガヤツは魂を燃やせみたいなことを口にしたことがあるか?」

 俺は声を詰まらせながら笑った。

「あるある。そういうフレーズがあるやつ作って歌ってたもん」

 一番目まで作って、未完成のまま、生まれ変わることのなかった歌だ。

「情熱も完全燃焼も、あながち嘘じゃないぞ。魂は燃えるんだオーギガヤツ。神様はそれを見ている」

 川中島は人差し指を俺の胸をトンと突く。

「本当か……?」

 ああ、もし……川中島があのバンド部にいてくれたなら。

「その燃え方が大事なんだぞ。悪いことばかりやっていると、燃えた後の魂はまるで黒ずんでいるらしいぞ。だから地獄へ行って燃やし直すんだ。だからといって、ただ悪さをしないだけじゃあ駄目だ。どれだけ豊かな人生を送ったかが重要なんだ。きれいな魂が天国へ行くから、天国はきれいなんだ。わかるかオーギガヤツ」

 ああ、よくわかる。俺は視線を落とした。努力を忘れてしまった俺の魂はろくな燃え方をしていない。俺のハートはくすんだ灰色。俺はデイドリームでくすぶっているだけの、モノクロームのモッブシーンの一人。そうら、笑えばいい。恥ずかしい奴だって馬鹿にしたらいい。

「青春だ、オーギガヤツ。別にそれは若い奴らだけのものじゃないぞ。ときめきはいつだって訪れるんだ」
「あの三人を選んだ理由もそれで?」
「厳密にはタケを選んだのだ」
「あ、トールじゃなくて?」
「まさかボーカルだからトールだと思ったのか?」
「いや、夢に出てきたからさ」
「そうか。タケがいたから、えんじぇるすは生まれたのだ。音楽は世界を救うとタケは信じているからな。私はえんじぇるすに期待している」

 ラブ&ピースというやつである。盗んだバイクで走り出していそうな男なのに、タケは純粋な野望を持っているらしい。

「それに。あの三人を見ていると、昔を思い出す」

 川中島には珍しい、柔和な笑み。この男から優しさをにじみ出させた表情を見たのは初めてだった。

「昔って?」
「私もかつてはバンドマンだった」

 ここでようやく。俺はようやく気がついた。自分がどれだけ鈍感で、いや、目をそらし続けていたかということに。懐古する川中島の麗らかなことといったら。

「始めはリバプールサウンズに憧れてな、ビートルズと同じ四人構成でやっていた。まあ、なかなかうまくいかなかったが、楽しかったことの方が大きかった。実はな、オーギガヤツ。仲間の中にオーギガヤツがいたんだ」
「……へ?」
「手は器用じゃないし音痴だったからバンドメンバーじゃなかったが、いつもステージ探しや、客集めや、チケットのもぎりをしてくれた。まったく客に受けなくて集まらなかった時も、精進だ、精進だ、って……おいオーギガヤツ。涙もろいぞ。今度はどこに感動したんだ?」

 俺はめまいを起こし、足元がふらついた。素早く川中島が腕を取らなかったら、本当に落ちていただろう。

「ごめん……ごめん……」

 俺は座り込み、燃えるように熱い顔を隠した。川中島にとって意味不明の謝罪を並べながら。恥ずかしくてたまらなかった。

「一体どうしたんだオーギガヤツ。訳がわからないぞ」

 珍しく川中島は動揺して背中をさすってくる。俺は思い出していた。小学一年生の時だ。親父が調子の悪くなったレコードプレーヤーを不器用な手で修理しながら、歌を口ずさんでいた。聞いたことのない歌だったし、音痴だったから余計に元が迷子だった。

 無邪気な俺は何の歌なのか尋ねた。親父は仲間が作った歌、未完成の歌だと答えた。


 ――今は天国に住んでてな、天使たちと一緒にセッションしとるげん。


 なぜその仲間が死んだのか興味本位で尋ねた。白血病だと答えた。


 ――バンドを解散した後でわかってん。シロちゃんはまだバンド続けたがってたから、父さんがベースをやってやろうって頑張って練習しとってんけど。指が言うこと聞かんくてなァ。


 親父は間に合わなかった。この話が記憶の根底にあったから、俺は中学の部活を理由にしてベースを弾きたいと思ったのかもしれない。仙人のモデルとなったベーシストの演奏を天啓に、親父の代わりに弾いて、天国へ届けようと思ったのかもしれない。
 親父がくれたあのアコベは、血と汗がにじんだ無念を秘めたアコベだったのではないか。買ってきただなんて、嘘ではないのか。


 ――忘れ物はないか?


 頭がぐらぐらする。実家を出る時の、親父にかけられた言葉を思い出す。俺は思い切り忘れ物をしていた。本当に、何をやっているんだ、俺は。
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