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九、言えること、言えないこと
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夏休みは間近に迫っていた。その前に頭頂部が焼けそうで燃えそうで、生え際からじりじりと汗がにじみ出る。からからのアスファルトを踏む度に足が蒸れているのがわかる。
コンビニでアイスを買う欲求も、東京のおっさんにジューシーなアイスレモンティーをねだる欲求も喉でぐっとこらえ、帰宅したらいち早くぬるく湿った靴下を脱ぎ、シャワーを浴び、ゆっくりと冷蔵庫の中のレモンサイダーに手を伸ばす。至福の時を得る……つもりだったのだが。
「よっ、おかえり」
顔を合わせるなり、エアコンがあるのにわざわざ持って降りてきたのか、扇風機の前であぐらをかくタケが軽く手を上げる。クロワッサンみたいなリーゼントが送風で揺れている。計画はおじゃんになる音がした気がする。
「どもー」
「お邪魔してる」
トールもキーボード村谷もそろって軽めの挨拶。えんじぇるすの面々と川中島がくつろいでいる。円卓には筆記用具とメモ用紙と『エリザベスドーナツ』の箱。各自のケースは傍らにある。俺は拍子抜けし、じわじわと苛立ちがこみ上がる。
「えっ、ちょっとなんでいるんスかっ?」
汗の気持ち悪さを我慢して素っ頓狂な声を上げてみせた。機嫌悪いことを隠すのに、俗にいう大学生のノリというものを軽く取り入れてみたのだが、もう二度とやるまいと心に誓う。
「ハクトーさんが来てもええ言うから、ここで会議しよう思って」
食いかけのチョコミントドーナツを片手に、当たり前の流れのようにトールは言う。トールはアニマル柄が好きなのか、リアルなワニがプリントされた黒のタンクトップを着ている。しかも上腕が意外とがっしりだ。夏場に黒の服と筋肉を見るとこっちはむさ苦しい気分になる。
久々に豚骨スープをほとばしらせていたおデブちゃんを思い出してみたが、当然ながら逆効果。豚骨の幻臭が鼻腔をかすめ、吐き気すら覚えた。もうあいつに癒し効果を頼るのをやめよう。
「そう、スか。ちょっと川中島」
俺は川中島の夏用だという薄めのポンチョを引っ張り、裏口から外へ出た。ドアを閉めるなり川中島は揚げ足取りを始める。
「何ヶ月経っても学習しないな。ハクトーさんだ。おかえりと言われたらただいまと言わないか」
「そんなことよりなんであいつらおるげん?」
「オーギガヤツは耳掃除をしていないのか? 会議だ」
「そうじゃねーよ。この家は秘密ねんげんろ?」
川中島は「む?」と眉をひそめる。
「誰がいつ秘密と決めた?」
ん? 俺は一瞬言葉に詰まる。
「でもふつう、こういうんてベラベラしゃべんの良くないんじゃないん?」
「しゃべる?」
「だってこんな家だぞ? 東京のおっさんだって、特別物件だから他社には知られたくないって契約の時に言ってた気が、すっし……」
「契約する前だろう? 私の時も見学はできないと言っていたぞ」
「だからそれは見るだけ見て言いふらしてほしくないだけであって……」
反論するほど混乱してきた。あのおっさんには抜けたところがあり、そういう秘密保持契約の手順を踏まなかっただけかもしれない。逆に『友だちに言うとかならOKだよ』と笑顔で言いそうではある。
すると、川中島はこんなことを言った。
「そもそも私は一言も奴らにこの家の状態を口にしていないぞ。そういう契約だからな」
「え、そういうのあったっけ?」
「馬鹿め。オーギガヤツはちゃんと最後まで書類に目を通していないのか。そういうのを一知半解というんだぞ」
「書類?」
俺は記憶を巡らし、思い出す。
「確かいっちゃん最後に変なやつあったような。確か、えーっと」
「イナワイ、ユナワイ、モラナサイ。シリュート、ターニン、イウニイワレナイだ」
「あれって何?」
「あれがオーギガヤツの言う、この家の秘密を言いたくなくなる文章、呪文だ」
俺は断じてこの家のことを漏らしてはいない。それが秩序として当たり前の話だと信じていたからだ。そこで俺は閃いたことを試してみた。
「こんな」
俺は慌てて自分の口を塞いだ。
「どうしたオーギガヤツ」
俺は『空飛ぶ家』と言おうとした。それなのに口が勝手に違うことを言った。何これ怖っ!
実験を続けよう。
「空」
「さっきからどうしたオーギガヤツ」
今度は『空』と言おうと思って言った。ちゃんとその単語が出た。
「家……蛾……飛んでいる。家で蛾が飛んでいる。家で蛾ぁ飛んでいる。家がトンビ」
「頭がどうかしているぞオーギガヤツ」
これはイメージの問題なのだろう。唇と舌が脳に反し、言いたいことと言ったことが一致しないのはもどかしい。もう一人の俺が俺を制御しているかのようだった。思わず川中島の隣の仙人に目をやるも、奴は肩をすくめるだけ。
「で、でも“こんな家”について一言も言えないとしても、家に入れちゃあ駄目だろ。ばれるじゃんか」
「ばれても奴らは言わないぞ。知り合いだからな。オーギガヤツも、サンシンやマツアキラをこの家に招き入れても特に問題はないぞ。そういう呪文だ」
仮に俺が契約を解除したとして、俺が川中島と花御堂と知人であることに変わりなく、他言不可能。常に裏口に鍵をロックする真の理由はそこにある訳だ。
地域担当の宅配便などであればともかく、知人でない奴が家に足を踏み入れ、後に吹聴されることを防ぐ……。ロックしておかなければ、万が一そういう奴らが侵入した時、手が離せないことが部屋で行われていようとも無理やり顔を出して面識を持つ必要がある。
だが玄関から入る奴らに対しては話が別となる。正面から入ってこられるということは普通じゃない。普通じゃない奴が普通じゃない家を見たって驚きもしないし、言いふらそうとも思わない。だから玄関の鍵に対しては疎かになっている訳だ、おそらく。
「気になることはちゃんと聞くのが大事だ。だから後から訳わからないことになる。わかったかオーギガヤツ」
腹立つが正論だ。聞くべき時に聞かないのが俺の特徴だ。
中に戻ると、トールは言った。
「オギ君。君んとこの文化祭、ステージ何するん?」
「何する言われても。カラオケ大会とか……演劇部も何かやるんかな」
「やっぱ大概はそうねんなあ」
彼らの振る舞いは至って自然。さっきまで『空飛ぶ家なんかに住んでたん!? どっひゃー、どえらいびっくりやのう!』とか特有のリアクション芸をして飛び上がっていたような気の高ぶりは見て取れなかった。それとも驚愕こそしたものの、呪文の効果によって強制的に冷静さを引きずり出され、この家が空を飛んでいることは当たり前のことで、取り分け外で騒ぎ立てる理由にはならない結論に然らしめているのかもしれない。
トールは続ける。
「ぼくら自分とこの大学でステージ出ることなっとるんやけどな。せっかくやったら他んとこでもやりたいねって話になっとんねん。文化祭の宣伝にもなるし、でも部外者やから気ぃ引けて」
「そこでオギ君のアコベの出番な訳だな。在校生オギ君withえんじぇるすってことで」
何らかのロックTシャツを風で膨らませながら『我々ハ宇宙人ダ』ボイスででタケが言った。
「僕んとこの楽器貸してあげるから協力してくれないか?」
キーボード村谷が言った。妄想が異なる形で現実に起ころうとしている。部活動でやりきった以上、趣味で続けても意味がない。むなしくなるだけだ。
「まぁ無理強いはよくないんやけどね」
返答に困っている俺を見て、トールは優しく逃げ道を作った。
「何かもう、弾きたくない理由ってあるんか? あっ、実は指を痛めちまってるとか……?」
事情に気づいてしまったという具合に、タケは苦み走った顔をする。扇風機から顔を遠ざけたので宇宙人にはならなかった。
「うちのトールもさ、右の小指曲げられねぇんだよな」
「え、そうなんスか?」
タケが明かしたトールの小指を立てる癖の真実に、俺は目を丸くしてしまう。
「ぼくバスケやってたんやけどな、やらかしてもうてん」
トールはまるで愛人の存在を示唆するかのように無邪気に小指を立てた。
「まあ指がダメなら仕方ないよね。それに続けたいならちゃんと楽器だって実家から持ってくるだろうし」
まったくその通りだ、キーボード村谷。俺は曖昧に「まぁ」と言うだけで十分だった。俺の指は楽器が弾けない指という設定となった。
トールは「じゃあどうしよっか?」と仲間に向き合う。そこから変な流れに軌道を変えたのが川中島だ。
「サンシンを入れるといい。奴なら喜んで引き受けるぞ」
俺は「え」と頬を引きつらせた。よりによってサンシン?
「そうだ旭ちゃんにも聞いたろっか!」
「ちょっとふたりに何させるっていうんスかっ?」
トールの思いつきに俺は余計不安になった。松先輩まで巻き込むなんてそれはない。
「できる楽器ならなんでもええねん! タンバリンでもマラカスでも十分リズムが取れて楽しいし。それに男女がハモるのもええ感じやん? 旭ちゃん可愛いし、紅一点で華やかやない?」
「まさに愛が生まれた日」
トールとタケはノリノリ。まさか狙っているのか?
可愛いなんて軽々しく口にされたらかなわない。それに端正な顔をしているトールと松先輩が大内義昭と藤谷美和子の『愛が生まれた日』をデュエットしているところを想像したら不快以外の何物にもならなかった。無垢な彼女の隣にヒョウだのワニだのワイルド臭い格好の、二、三歩間違えればオネェっぽく見えてくる彼がにやついているのは許されることではないのだ。
「男のデュエットでもいいんじゃないっスか? ゆずとか。夏だし」
「それもありか。サンシン、カラオケうまかったし」
キーボード村谷はうなずき、あごをなでる。
「じゃああいつに話つけてみよっか」
「せやな!」
松先輩とのデュエットは免れ、俺はほっと一息ついた。サンシンなら安請け合いすることだろう。
今晩の路上ライブの打ち合わせを終え、トールたちは帰った。川中島は真顔で裏口を見ている。奴が真顔なのはいつものことなのに、どことなく様子がおかしい気がした。
「どうしたん?」
「オーギガヤツ」
「なんだよ」
「おいオーギガヤツ」
「だからなんなんだって」
川中島がこっちを向いた時、俺はぎくりとした。奴が真顔なのはいつものことなのだ。それなのに今ばかりは冷たく感じた。見下す態度はいつものことなのに、より軽蔑の眼差しを送られたように感じた。
「まるでキジコだな」
「は?」
川中島は自室へと戻っていった。ドアが開閉する日常的な音もびくりとさせられた。一人取り残され呆然とするしかなかった。
まさか、怒っている?
自称天使の前で嘘をついたのがまずかったのか、俺は鷽姫様のことを思い出した。
コンビニでアイスを買う欲求も、東京のおっさんにジューシーなアイスレモンティーをねだる欲求も喉でぐっとこらえ、帰宅したらいち早くぬるく湿った靴下を脱ぎ、シャワーを浴び、ゆっくりと冷蔵庫の中のレモンサイダーに手を伸ばす。至福の時を得る……つもりだったのだが。
「よっ、おかえり」
顔を合わせるなり、エアコンがあるのにわざわざ持って降りてきたのか、扇風機の前であぐらをかくタケが軽く手を上げる。クロワッサンみたいなリーゼントが送風で揺れている。計画はおじゃんになる音がした気がする。
「どもー」
「お邪魔してる」
トールもキーボード村谷もそろって軽めの挨拶。えんじぇるすの面々と川中島がくつろいでいる。円卓には筆記用具とメモ用紙と『エリザベスドーナツ』の箱。各自のケースは傍らにある。俺は拍子抜けし、じわじわと苛立ちがこみ上がる。
「えっ、ちょっとなんでいるんスかっ?」
汗の気持ち悪さを我慢して素っ頓狂な声を上げてみせた。機嫌悪いことを隠すのに、俗にいう大学生のノリというものを軽く取り入れてみたのだが、もう二度とやるまいと心に誓う。
「ハクトーさんが来てもええ言うから、ここで会議しよう思って」
食いかけのチョコミントドーナツを片手に、当たり前の流れのようにトールは言う。トールはアニマル柄が好きなのか、リアルなワニがプリントされた黒のタンクトップを着ている。しかも上腕が意外とがっしりだ。夏場に黒の服と筋肉を見るとこっちはむさ苦しい気分になる。
久々に豚骨スープをほとばしらせていたおデブちゃんを思い出してみたが、当然ながら逆効果。豚骨の幻臭が鼻腔をかすめ、吐き気すら覚えた。もうあいつに癒し効果を頼るのをやめよう。
「そう、スか。ちょっと川中島」
俺は川中島の夏用だという薄めのポンチョを引っ張り、裏口から外へ出た。ドアを閉めるなり川中島は揚げ足取りを始める。
「何ヶ月経っても学習しないな。ハクトーさんだ。おかえりと言われたらただいまと言わないか」
「そんなことよりなんであいつらおるげん?」
「オーギガヤツは耳掃除をしていないのか? 会議だ」
「そうじゃねーよ。この家は秘密ねんげんろ?」
川中島は「む?」と眉をひそめる。
「誰がいつ秘密と決めた?」
ん? 俺は一瞬言葉に詰まる。
「でもふつう、こういうんてベラベラしゃべんの良くないんじゃないん?」
「しゃべる?」
「だってこんな家だぞ? 東京のおっさんだって、特別物件だから他社には知られたくないって契約の時に言ってた気が、すっし……」
「契約する前だろう? 私の時も見学はできないと言っていたぞ」
「だからそれは見るだけ見て言いふらしてほしくないだけであって……」
反論するほど混乱してきた。あのおっさんには抜けたところがあり、そういう秘密保持契約の手順を踏まなかっただけかもしれない。逆に『友だちに言うとかならOKだよ』と笑顔で言いそうではある。
すると、川中島はこんなことを言った。
「そもそも私は一言も奴らにこの家の状態を口にしていないぞ。そういう契約だからな」
「え、そういうのあったっけ?」
「馬鹿め。オーギガヤツはちゃんと最後まで書類に目を通していないのか。そういうのを一知半解というんだぞ」
「書類?」
俺は記憶を巡らし、思い出す。
「確かいっちゃん最後に変なやつあったような。確か、えーっと」
「イナワイ、ユナワイ、モラナサイ。シリュート、ターニン、イウニイワレナイだ」
「あれって何?」
「あれがオーギガヤツの言う、この家の秘密を言いたくなくなる文章、呪文だ」
俺は断じてこの家のことを漏らしてはいない。それが秩序として当たり前の話だと信じていたからだ。そこで俺は閃いたことを試してみた。
「こんな」
俺は慌てて自分の口を塞いだ。
「どうしたオーギガヤツ」
俺は『空飛ぶ家』と言おうとした。それなのに口が勝手に違うことを言った。何これ怖っ!
実験を続けよう。
「空」
「さっきからどうしたオーギガヤツ」
今度は『空』と言おうと思って言った。ちゃんとその単語が出た。
「家……蛾……飛んでいる。家で蛾が飛んでいる。家で蛾ぁ飛んでいる。家がトンビ」
「頭がどうかしているぞオーギガヤツ」
これはイメージの問題なのだろう。唇と舌が脳に反し、言いたいことと言ったことが一致しないのはもどかしい。もう一人の俺が俺を制御しているかのようだった。思わず川中島の隣の仙人に目をやるも、奴は肩をすくめるだけ。
「で、でも“こんな家”について一言も言えないとしても、家に入れちゃあ駄目だろ。ばれるじゃんか」
「ばれても奴らは言わないぞ。知り合いだからな。オーギガヤツも、サンシンやマツアキラをこの家に招き入れても特に問題はないぞ。そういう呪文だ」
仮に俺が契約を解除したとして、俺が川中島と花御堂と知人であることに変わりなく、他言不可能。常に裏口に鍵をロックする真の理由はそこにある訳だ。
地域担当の宅配便などであればともかく、知人でない奴が家に足を踏み入れ、後に吹聴されることを防ぐ……。ロックしておかなければ、万が一そういう奴らが侵入した時、手が離せないことが部屋で行われていようとも無理やり顔を出して面識を持つ必要がある。
だが玄関から入る奴らに対しては話が別となる。正面から入ってこられるということは普通じゃない。普通じゃない奴が普通じゃない家を見たって驚きもしないし、言いふらそうとも思わない。だから玄関の鍵に対しては疎かになっている訳だ、おそらく。
「気になることはちゃんと聞くのが大事だ。だから後から訳わからないことになる。わかったかオーギガヤツ」
腹立つが正論だ。聞くべき時に聞かないのが俺の特徴だ。
中に戻ると、トールは言った。
「オギ君。君んとこの文化祭、ステージ何するん?」
「何する言われても。カラオケ大会とか……演劇部も何かやるんかな」
「やっぱ大概はそうねんなあ」
彼らの振る舞いは至って自然。さっきまで『空飛ぶ家なんかに住んでたん!? どっひゃー、どえらいびっくりやのう!』とか特有のリアクション芸をして飛び上がっていたような気の高ぶりは見て取れなかった。それとも驚愕こそしたものの、呪文の効果によって強制的に冷静さを引きずり出され、この家が空を飛んでいることは当たり前のことで、取り分け外で騒ぎ立てる理由にはならない結論に然らしめているのかもしれない。
トールは続ける。
「ぼくら自分とこの大学でステージ出ることなっとるんやけどな。せっかくやったら他んとこでもやりたいねって話になっとんねん。文化祭の宣伝にもなるし、でも部外者やから気ぃ引けて」
「そこでオギ君のアコベの出番な訳だな。在校生オギ君withえんじぇるすってことで」
何らかのロックTシャツを風で膨らませながら『我々ハ宇宙人ダ』ボイスででタケが言った。
「僕んとこの楽器貸してあげるから協力してくれないか?」
キーボード村谷が言った。妄想が異なる形で現実に起ころうとしている。部活動でやりきった以上、趣味で続けても意味がない。むなしくなるだけだ。
「まぁ無理強いはよくないんやけどね」
返答に困っている俺を見て、トールは優しく逃げ道を作った。
「何かもう、弾きたくない理由ってあるんか? あっ、実は指を痛めちまってるとか……?」
事情に気づいてしまったという具合に、タケは苦み走った顔をする。扇風機から顔を遠ざけたので宇宙人にはならなかった。
「うちのトールもさ、右の小指曲げられねぇんだよな」
「え、そうなんスか?」
タケが明かしたトールの小指を立てる癖の真実に、俺は目を丸くしてしまう。
「ぼくバスケやってたんやけどな、やらかしてもうてん」
トールはまるで愛人の存在を示唆するかのように無邪気に小指を立てた。
「まあ指がダメなら仕方ないよね。それに続けたいならちゃんと楽器だって実家から持ってくるだろうし」
まったくその通りだ、キーボード村谷。俺は曖昧に「まぁ」と言うだけで十分だった。俺の指は楽器が弾けない指という設定となった。
トールは「じゃあどうしよっか?」と仲間に向き合う。そこから変な流れに軌道を変えたのが川中島だ。
「サンシンを入れるといい。奴なら喜んで引き受けるぞ」
俺は「え」と頬を引きつらせた。よりによってサンシン?
「そうだ旭ちゃんにも聞いたろっか!」
「ちょっとふたりに何させるっていうんスかっ?」
トールの思いつきに俺は余計不安になった。松先輩まで巻き込むなんてそれはない。
「できる楽器ならなんでもええねん! タンバリンでもマラカスでも十分リズムが取れて楽しいし。それに男女がハモるのもええ感じやん? 旭ちゃん可愛いし、紅一点で華やかやない?」
「まさに愛が生まれた日」
トールとタケはノリノリ。まさか狙っているのか?
可愛いなんて軽々しく口にされたらかなわない。それに端正な顔をしているトールと松先輩が大内義昭と藤谷美和子の『愛が生まれた日』をデュエットしているところを想像したら不快以外の何物にもならなかった。無垢な彼女の隣にヒョウだのワニだのワイルド臭い格好の、二、三歩間違えればオネェっぽく見えてくる彼がにやついているのは許されることではないのだ。
「男のデュエットでもいいんじゃないっスか? ゆずとか。夏だし」
「それもありか。サンシン、カラオケうまかったし」
キーボード村谷はうなずき、あごをなでる。
「じゃああいつに話つけてみよっか」
「せやな!」
松先輩とのデュエットは免れ、俺はほっと一息ついた。サンシンなら安請け合いすることだろう。
今晩の路上ライブの打ち合わせを終え、トールたちは帰った。川中島は真顔で裏口を見ている。奴が真顔なのはいつものことなのに、どことなく様子がおかしい気がした。
「どうしたん?」
「オーギガヤツ」
「なんだよ」
「おいオーギガヤツ」
「だからなんなんだって」
川中島がこっちを向いた時、俺はぎくりとした。奴が真顔なのはいつものことなのだ。それなのに今ばかりは冷たく感じた。見下す態度はいつものことなのに、より軽蔑の眼差しを送られたように感じた。
「まるでキジコだな」
「は?」
川中島は自室へと戻っていった。ドアが開閉する日常的な音もびくりとさせられた。一人取り残され呆然とするしかなかった。
まさか、怒っている?
自称天使の前で嘘をついたのがまずかったのか、俺は鷽姫様のことを思い出した。
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