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七、二

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 ……世界がさかさまだ、なんてクールに思いながらの『犬神家の一族』の湖さかさま死体の状態。カーテンの隙間から光が差し込んで目を細める。誰にも見せられないくしゃくしゃのしかめ面で枕元の目覚まし時計を手繰り寄せると、まだ七時過ぎだった。

 額の汗をぬぐう。頭から床に転がり落ちた衝撃で首が寝違えてしまったらしい。とてつもなく嫌な夢を見た気がするが思い出せない。とにかく思い出せないのだ。

 トゥデイ・イズ・サタデー。講義もアルバイトもない。だらけて二度寝を楽しむべきところ痛みを理由に諦め、おっさんから湿布でももらって、ついでにモーニングレモンティーを注文することを決めた。完全におっさんは都合のいいおっさんになっていると思うが、契約者に奉仕活動をするのが喜びとしている人間なのでまるで罪悪感が湧いてこなかった。

 脱いだシャツで汗ばんだ上半身を拭いてから着替えていると、また誰かがあの玄関をノックしている。そんな気がした。
 仙人とアイコンタクトを取る。行くべきらしい。

 廊下に出てリビングを見下ろす。既に客人は中にいた。なぜ誰も玄関の方の鍵をかけておかないのか、現在のセキュリティ意識に欠けている。

 今度は女のヒトであった。金細工の髪飾りと指の装身具。朱色と青色、そして灰色をあしらった衣装を着込んだ黒い顔の女。黒い顔といっても、日焼けサロンで焼いた肌よりも、テレビで見るような民族の肌よりも黒い、炭のような黒。これが黒色なのだと紹介すべき決定的黒をした女……。

 彼女は碁石のような瞳で中を粛々しゅくしゅくと観賞していた。その佇む姿、風格。上流階級である。鼻唇溝びしんこうでさえ気品に満ちあふれ、おばさんと呼ぶのは大変失礼厚かましく、婦人と呼ぶのが正解だろう。知る映画でいえば、『ラストエンペラー』といった歴史映画に出てきそうな存在感といえよう。

 すぅっと、黒顔の貴婦人は俺の方を向き、黒唇の端を流麗に吊り上げた。俺はすべてを見通すかのような眼差しに圧倒され、背筋を伸ばさなければならなかった。のに、首筋に痛みが走って頭をかしげた状態を維持せざるを得ない。

「その者、雉子をこの場に連れてきなさい。あの扉、我の力では開けられん」
「は、はい」

 厳格な声に肌が粟立ち、失われそうだった声をどうにか絞り出した。只事じゃあ、ない。彼女は雉子よりも断然に格上だ。着替えておいて正解だった。

 早々と階段を下りると、花御堂が眠気眼をこすりながら二階から顔を出してきた。

「オーギガヤツ君、客人ですか?」
「ああ。お茶と座布団頼んだ! ちょっとばかしお待ちください」

 俺はうまく彼女に愛想笑いを浮かべられただろうか。

 トウキョウスカイホームは営業前。俺は「ああもう、ああもう」とその場で心急いてから、アジサイの道を通って裏へと回った。ほんのりと花の香りがする。ハグロトンボを手で避けて木製の片開きの門扉を開けた。

「雉子おっけ!?」
「扇ヶ谷様! おはようございます。雉子さんならお水をやっています」

 はたきを持って縁側に現れたおっさんに湿布を頼んだ。雉子を探すと、彼はジョウロを頭の上に抱え込んで植物の陰に隠れていた。

「やぁ、扇ヶ谷君……」

 だからなぜ隠れるげんてま。

「真っ黒い顔の女のヒトがお前を呼んでんぞ。迎えじゃないがん?」
「真っ黒い顔の……女の、ヒト……?」

 雉子の赤い顔がさっと青くなり、イヤイヤ期に入った。目を閉じればダンディーな俳優を思わせる声なのに、スーパーで駄々をこねる子どものように座り込んだままひたすら怯えて首を振るので、説得するのにおよそ十分。やっと慎重に立ち上がってくれて、家の前まで連れ出すのに五分。雉子の“子”は身分の高さの表れではなく単に子どもの“子”だったとでもいうのか。なんだか弟がもう一人できた気分だ。待たせているのにまずい。貼った湿布も次第にぬるくなる。

 おっさんの麦わら帽子で顔を深々と隠し、裏口から中の様子をおっかなびっくりのぞいてすぐ閉める雉子。彼は揺々ようようとして、この世の終わりだと言わんばかりの情けない声を出す。

「うわわ、やっぱり……鷽姫うそひめ様だァ……」
「ウソヒメ?」
「ぼくの上様に当たる天女です。まさか地上に降りてきちゃうなんて……」

 正式には家の中は地上に当たらないと思うが、そんなことはどうでもいい。なるほど、天女か。またとんでもない者が訪れたものである。あの玄関はあらゆる世界の存在を招くことができるのだろう。

「上司なら待たせたらまずいですね。さ、雉子さん」

 おっさんの優しい鬼畜な後押しで今にも泣きそうな雉子。ビクビクと、ようやく家の中に入る。彼の登場を確認した鷽姫様は悠然と立ち上がった。

「雉子」
「は、はいィッ!」

 麦わら帽子を取った雉子は直立不動。翼の先までピンと伸ばしていた。

「後ろの者らがつっかえている。もっと中に入るがよい」

 鷽姫様の命令に、雉子はぎくぎくと前進。俺とおっさんが靴を脱いでいると、花御堂が中腰で近寄り「一体何者ですか?」と俺に耳打ちする。現地球人も本人に気安く身分を尋ねる気は起こせなかったらしい。俺も「天女だ。雉子の上司。鷽姫様だ」と小声で返す。川中島は台所にいて、小皿を片手にトーストを立食している。おいこら。

「翼を見せよ」

 川中島の無礼なんか眼中にないらしく、鷽姫様は威厳を隠し切れない笑みで雉子に言った。雉子は翼を広げる。

「翼は治っているようだ。なぜ戻らない?」

 おっさんの献身的な手当ての甲斐あって、雉子の右の翼は完治していた。彼の身に何かあったということは鷽姫様も知っていたのだろう。

「翼はあちらの方に大事に懸けて介抱して頂き、お陰で良くなりました。で、でもまだ飛ぶ練習の」
「練習“の”ぉ!? 練習“を”ではなく!?」

 にわかに鷽姫様は目を見開かせ、笑顔を崩さず怒鳴った。叱咤は疾風となって襲い、俺の髪をぐしゃぐしゃにした。荒肝を抜かれた雉子は麦わら帽子を手放し、麦わら帽子は風に乗って花御堂の顔に引っかかる。これが天女の力。ていうかこのヒトマジ怖っ! てか、なんで今怒ったん!?

「れ、れれれ、練習“を”してませんッ!」

 雉子は上擦った声で修正した。彼の背中が恐縮し震えている。

「雉子よ。我の一番良しとしないものは、何だ?」
「あ、あの、えと……う、嘘を、つ、つかれるの」
「ではなぜ嘘をつく!?」

 風に加えて横雨が殴りかかってきた。アクベンスさんの言っていた嵐というのはまさかこれなのか?

「お前は正直に話して怒られるよりも嘘をついて尚怒られる方がましだと思っているか!?」

 たったの“の”だけで嘘を見抜いた鷽姫様。猛威を振るう雨風。せっかくの湿布がはがれた。神々の世界となると説教の規模も大きい。こんなヒトにこっぴどく叱られるとわかっていたなら、誰だって帰るのをためらう。

 俺とおっさんと花御堂は鷽姫様の轟然たる雷声を恐れ、台所まで避難した。湿布が裏口に貼りついていた。
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