秋彦

鳥丸唯史(とりまるただし)

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 ◇◇◇

 六十年も前の話だ。江都子さんは名の知れた華族の一人娘で、親に溺愛されていた。

 四月。十八歳の誕生パーティを開かれた時のことだ。招待客と会話に花を咲かす父と母。交わされる自慢話が気持ち悪い。

 江都子さんは社交辞令交じりの場が息苦しかった。主役とはいえ自分のことを話題に出された時には居心地が悪くなった。彼女は初対面の男たちの舐めるような視線を恐れて、逃げるようにテラスへと向かった。

 先客が庭を眺めていた。ヒールの音に気づいて彼は振り向いた。二十代前半だろうか、刈り上げの頭で、メガネをかけていた。

角本つのもと会長の娘さんで」
「江都子といいます」
「僕は芹沢せりざわ秋彦と申します」

 彼はお辞儀をする。メガネがずり落ちそうになったので慌ててかけ直すと赤面した。

「おひとり?」

 江都子さんは可笑しいのを堪えて訊ねた。

「親睦のある方に連れられ参加したのですが、普段は部屋にこもりっきりなものですから、こういった豪勢な場所は苦手でして。少しとばかり息苦しい……あ、すいません」

 秋彦さんは申し訳なさそうに眉尻を八の字に下げた。

「いえ。わたしも親にはうんざりしていて……」
「おや? 愛されることは良いことではありませんか」

 秋彦さんは目を丸くさせた。

「限度っていうものがあるんですよ。ひとりで外出させてくれないし、趣味でもないドレスまで着させられるのよ?」

 わたしは着せ替え人形じゃないわ。そう溜め息をついて、苦笑しながら白のドレスを見下ろした。白は純潔さだと言って、母が無理やり押しつけたものだ。

 秋彦さんはまじまじとそれを見て、頷く。

「黒い着物の方が似合いそうです」
「黒、ですか」
「それっぽいです」
「それっぽい……」

 今まで見てきた男は両親に気に入られようと話を合わせ、己の資産や学歴を何気なく見せつけ、その親は何気なく手ゴマをする。どいつこいつも、自分の親を含むそれらがそういう人種だと錯覚しそうなほど。

 秋彦さんからは平凡さがにじみ出ていた。着古した袴。他が燕尾服やら堅苦しい恰好であるせいで彼は浮いていた。ひとりでここにいたのもそういった負い目があるからだろう。それが江都子さんにとって好印象だった。

「モミジ」
「え?」
「そうですね、黒の生地にモミジの柄なんてどうだろう。なんて、僕の勝手な理想ですね」

 彼は照れ臭そうにした。

「いえ、わたしモミジ好きですよ。ほら、ここの庭。あそこ一帯はすべてモミジの木なの。専属の庭師が手入れしているの」
「そうですか。なるほど、どおりでいい庭」

 うんうんと頷く。彼も庭の良さなんて測れないのだろう。思わず江都子さんは噴き出した。彼はまたやってしまったか、というような表情をした。それがまた可笑しかった。

「何も変じゃないわ。あはは」

 いいところで父に呼ばれ、秋彦さんから離れることになってしまった。愛娘のことを自慢げに話す父を尻目に、彼女は袴の男に視線を向けた。丸い背中が見えた。本当は猫背なのだろう。

 タライ回しされて、パーティが終わった頃には彼の姿はなかった。江都子さんは彼が忘れられなかった。

 六月下旬。江都子さんは名門女学校からの帰路についていた。ひとりの時間はこの間だけだった。初めは送迎がついていたが、多少の体力がないと高貴な立ち振る舞いもできないとかなんとか適当に理由を並べ、ようやく周りに関係者のいない時間を作ることができたのだった。

 突然の雨。傘を持っていなかったので慌てた。江都子さんは神社で雨宿りしようと考えた。
 人気のない本堂で息を切らし、シルクのハンカチーフで顔を拭った。雨は止む気配を見せない。

 木造建築の外観を観察していると、あの男が縁側に腰かけていた。

「秋彦さん……?」

 秋彦さんは飛び上がった。以前よりも髪が伸びていた。

「え、江都子さんではないですか。雨宿りですか?」

 名前を覚えていてくれたことに、江都子さんはほっとした。

「あなたも?」
「こうやって、雨音に耳を澄ませながら木を見ていると落ち着くんです」
「お隣、いいかしら?」
「どうぞ」

 少し距離を置いて座った。こんなところで会えるなんて、何を話せばいいのか。

「……雨、止みませんね」

 これしか思いつかなかった。興味のない男相手ならいくらでも感情のない言葉を紡ぎ出せるのに。

「通り雨ですから、大丈夫ですよ」

 彼の言った通り、雨はカラリと空の彼方へと去った。葉の水滴があちこちで光った。シャンデリアよりも目に優しくてきれいだと感じた。

「よろしければ、一緒に散歩しませんか?」

 江都子さんは彼のお誘いを喜んで受けた。

「僕は植物の中で一番モミジが好きです。だんだん赤く彩るのを眺めながら並木道を歩くのが何よりも楽しみなんです」
「秋が好きなんですね」
「ええ、そうなんです」

 楽しそうに平凡なことを話す彼の横顔が素敵だった。
 秋彦さんは医師になるのが夢。勉強だけでは肩が凝るので、ほぼ毎日この並木を散歩しているらしかった。途中であの神社に寄って、さっきのように心を和ませるのだという。

 彼にはお気に入りのモミジの木があった。幼少から人生を共にした友だという。よく本を読んで聞かせてあげていたと、彼は恥ずかしそうに笑った。

 江都子さんは秋彦さんと散歩をするために人目を忍んで屋敷を抜け出すようになった。何も知らない彼はいつも快く出迎えてくれた。彼の声を一字一句聞き逃さまいと耳をたてた。江都子さんも紅葉を楽しみにした。
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