秋彦

鳥丸唯史(とりまるただし)

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 おじいちゃんはベッドで腹筋をしていた。なんてパワフル。見ている方がしんどい。

「ほれ、さーんじゅっ」

 腹筋三十回を終えると深呼吸をし、体をゆったりさせた。

「そろそろ台風がこっちに来るんやろう。仕事大丈夫なんか?」

 明日中には暴風域に達するらしい。

「通勤に支障が出そうなら家で作業だって。家じゃなかなか進まないんだけどね。いろんな誘惑があって」
「ほうかほうか。まぁまぁ、おとなしくするのが一番だわ」

 おじいちゃんこそ大人しく休んでいてほしい。

「台風が過ぎたらまた来るね。じゃあここに置いとくよ」

 私はさつまチップスのコンソメ味を机に置いた。

「来るついでに、オロナミンも持ってきてな」
「はいはい」

 次回に栄養ドリンクを持参してくることを約束(さすがに栄養ドリンクは駄目なんじゃないか? いいのかしらん?)して、私は退室した。

 白い廊下。視界に何かが映った。そこはおじいちゃんの病室から三番目。今まで気にしていなかったのに。もしやここは。

 表札には『倉田江都子』と書かれていた。衝撃が走り、思考がすぐにはまとまらなかった。

 クラタ エツコ

 ノックの音に我に帰った。無意識に手が動いてしまっていた。「どうぞ」という返事に心臓が跳ねる。ドアノブに震える手を添え、静かに開ける。

 倉田さん、もとい江都子さんがテレビを見ながらベッドで寝ていた。

「あら、こんにちは。この間はどうもありがとう。お元気?」
「すこぶる元気です。今日は庭に行ってないんですか?」

 声が上擦ったと思う。江都子さんは気づかなかったのか、あるいは指摘しないでくれたのか。

「もうすぐ台風でしょう。去るまで窓から見ていようと思って」

 テレビ番組の左下に台風の現在地と進路の画像がある。私は「そうですかあ」とぎこちなく窓の外に視線をやった。ここからでもイチョウの黄緑が見える。

「いつもおじいさんのお見舞いに来てあげているのね。いつも孫に会いに来てもらって、とても喜んでいるでしょうねぇ」

 お見舞い、というよりもおつかいだ。いつも違った食べ物を要求してくるのだ。とはいえ、極上のスシが食べたいとか、宇治金時のかき氷が食べたいとか、明らかに無理なものをいじわるで頼んでくる訳でもないし、不満でも不快でもないので律儀に要望に応えてあげている。これも孫の務めだ。

「わたしにも孫がいるけれど、来てくれたのは最初の一、二回。受験勉強があるから仕方ないのだけれど」

 江都子さんは「子どもの方も仕事が忙しくて」と、寂しさの上に重ねるように微笑んだ。私は「そうですか」と答える。そんな表情をしないでほしい。私まで暗い気持ちになってしまう。私で良かったらいつだって会いに来ますよ! と喉元まで出かかった。

「そうそう、あなたのおじいさんがこれをくださったの。良かったらあなた、持ち帰って召し上がって頂戴。わたしゴマは好きだけど、脂っこいものはちょっと」

 わざわざ起き上がって差しのべた机の上にはインスタントのゴマラーメン。おい、おじいちゃん!

「ああ、はい。ありがとうございます」

 おじいちゃんのことなので、体力をつけろ、元気出せ、とかなんとか言って押しつけたのだろう。余計なおせっかいだ。

「ところでご用件は何かしら?」

 なんて言い訳をしよう。カップラーメンを取り戻しに? 馬鹿な。目が泳いでしまっているだろう。変な女だなんて思われたくない。

「もし、嫌じゃなかったら、倉田さんのご主人の話をもっと聞きたくて」

 江都子さんは一瞬、何のことだろう、という表情をしたが、すぐに合点がいったようだ。

「もしかして、この前の話? それなら、あれは夫のことじゃないのよ」
「え、違うんですか……?」
「ええ、そうよ。死んだ夫と結婚する前まで付き合っていた人」
「そう、なんですか……?」

 江都子さんは「そういえば一言も言ってなかったわねぇ」と、ふふふと笑う。可愛いなあ。

「そうそう。ここだけの話、本当はその人と一緒になりたかったの」

 江都子さんはちょっとしたオモシロ話のように言う。ご主人が死んで時効になっているからって、かなりぶっちゃけた話だ。ああ、昼メロ。

「彼、あきひこさんといってねぇ」
「え?」
「まぁ、そんな驚いた顔して」
「い、いえ。同じ名前の友達がいるもんでして」

 私はかぶりを振った。

「あら、そう」
「それで、実は……もんっのすごぉーく偶然なんですけども、その人はエツコっていう人をずっと待ってるんです。あれです、いわゆる遠距離恋愛です」
「まぁ本当、偶然」

 驚きっぷりのおかげで信じてくれたらしく、江都子さんも片手を頬に当てて驚いた様子。本当に、まったくの偶然。偶然だ。しかし何だろう。この胸のざわめきは。

 そして江都子さんはテレビの音量を少し下げて、昔話を始めた。
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