女神の左手

根鳥 泰造

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8月5日 20:30

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 滝野川警察署の取調室で、阿川玲美は、シャブ葉店長の溝口から、話をきいていた。
「お忙しいところ、ご足労頂き、ありがとうございました」
「本当に、迷惑ですよ。で、何が訊きたいんですか。さっきも話した通りでアリバイもありますし、僕は、何もしてない。チェット何て男は知らない」
 そのアリバイ確認も既に裏がとれている。
 あの日は、台風直撃で、来客は期待できないこともあり、ほとんどの店員を早く帰宅させ、閉店の零時まで、スタッフ数人と雑談をして過ごしていた。店を出たのが、零時三十分で、それ以降のアリバイはないが、彼が犯人の可能性は低いと、阿川も考えていた。
「実は水谷美咲さんの件で、店では話しづらいだろうと、ご足労頂きました。率直に訊きます。貴方は、水谷さんと肉体関係にありますね」
「刑事さん、何を根拠に、そんな失礼な事をいうんですか。うちは、そう言うのは煩くて、店員と関係なんか持ったら、即、首ですよ。何もありません。ある訳がない」
「名前は言えませんがスタッフの一人が、お店がオープンした一週間程後に、貴方と、水谷さんが、ホテル・ドゥルセと言うラブホテルに入って行くのを目撃しています。意外と、人の目はいろんなところにあるんです」
 溝口はみるみると顔が青ざめ、机に手をついて頭を下げた。
「すみません。妻にも、会社にも内緒にしておいて下さい。もう、彼女とは何も関係ないんだ。彼女から別れを切り出され、今は付き合ってなんかいない」
「分れたんですか。それはいつごろですか?」
「七月の第一週です。突然、『こんな関係は止めましょう』って言ってきて、あいつの意思も堅くて……」
「彼女との不倫は、いつからですか?」
「不倫関係になったのは、五月からです」
「今『不倫関係になったのは』と言いましたが、それよりも前から関係が有ったと言う事ですか?」
「彼女、履歴には書いていませんが、風俗嬢だったんです。以前、ホテルに出張して来てもらって、追加を払って、二度ほど関係していました」
「もしかして、店員で彼女だけ三十代なのも、関係があるんですか?」
「恥ずかしい話ですが、彼女を正規採用する交換条件として、愛人になってもらいました」
「なら、七月に、清算を持ちかけられた時も、貴方は拒否したんじゃないですか?」
「ええ、愛人になるのが採用条件だろうと脅しました。でも、首になってもいいから、もう私には抱かれたくないって言ってきて。本当に辞めさせようとも思ったんですが、仕事はちゃんとしていたし、彼女目当てのお客さんもかなりいたので、そのまま諦めて別れました」
 最低のパワハラエロ親仁だが、嘘は言っていない。彼は犯人ではない。
 そう確信した阿川は、今度は真犯人の情報を得る方針に切り替えた。
「それで、今度は、別の子に乗り換えたんですね。警察としては民事非介入の原則ですが、もう、そう言うのは控えた方がいいと思います」
「それも、知ってるんですか?」
「貴方を容疑者と考え、徹底的に調べさせて頂きましたから。でも、あなたは、小心者で、ナイフで人を殺す様な人では無い。今は、貴方は犯人でないと思っています。でも、彼女について、何か知っていたら、教えて下さい。別れを切り出してきたと言う事は、彼氏ができたと思った筈ですよね」
「ええ、そう思って、彼女を観察しました。おそらく、夜の九時頃に、時々店にくる三十歳前後のサラリーマンではないかと思います。彼女に注文以外にも立ち話をしていたり、外で彼女の帰りを待ってたりしてましたから」
「外で待っていたのはこのチェットさんです。勘違いしていませんか?」
「外国人か日本人か位は見分けが付きます。間違い有りません」
 その後、そのサラリーマンの利き腕や、体型、身長、特徴等を聞いたが、左利きだったかは記憶になく、中肉中世の特徴のない男で、今度、来店したら、連絡をもらえることになった。
「そうですか。分りました。本日はありがとうございました」
「刑事さん、本当に、妻にも、会社にも言わないで下さい」
「もちろん、ここだけの話にします。ですが、不倫は奥様への裏切りだし、いつか必ず知られます。早く反省して、今の不倫関係も清算した方が良いと思いますよ」
 溝口は、「分りました」と頭を下げ、店に戻って行った。

 阿川は直ぐに、高原を探したが、誰も彼の所在を知らなかった。
 彼なら、その男を探し出すアイデアを持っている気がしたし、水谷とチェットとの関係について、どう考えているのかも知りたかった。それに、水谷美咲をどう取り調べるかも、事前に相談しておきたい。
 阿川は、スマホを取り出して、彼の名前にタッチしようとしてやめた。
 そして、彼との相談は諦め、管理官に、溝口は白で、新たな犯人が浮かんだ旨の報告に向かった。
 
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