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州長官
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淡い黄色の壁の上部には、神話画が描かれていた。美と愛の女神が天の魔物に祝福された絵や、豊穣の神と泉の神の子の誕生の絵や、城の塔に閉じ込められた人間の女性に求愛する火の神の絵などなど。
ツバキはその絵画を隅々まで眺めて、持て余している時間を潰していた。
ここはケデウム州長官の執務室だった。大叔父が州長官をしていたときはもっと落ち着いた部屋だったと記憶しているので、派手好きな兄が模様替えしたらしい。
(確か貴重なヴィリオがあると思ったけれど)
ヴィリオとはバイオリンに似た楽器だ。以前は、二百年ほど前に作られたとされる、現在でも有名な弦楽器制作者の最後の作品が飾ってあった。生前叔父は次の州長官へ贈与すると言っていたから今もあるはずだと辺りを見回すと、事務机横の金縁の飾り棚中央に目立つように置かれていた。幼いころよく弾いてくれたなと大叔父を思い出しながら近づくが、ほんの少しだけ埃がつもっていた。派手好きかつ古典音楽好きの兄なら毎日磨きそうなのになとツバキは不思議に思った。
しばらくして重厚な扉が開き、サクラ曰くさわやかイケメンボイスの無駄遣いらしい声が聞こえる。
「やあ、久しぶりだねセイレティア」
フレデリックは暗めの金髪、左目の下にほくろのある男性だ。
久々の兄の登場に、ツバキの中に苦いものが流れたが、皇女セイレティアの仮面をかぶって控えめに微笑んだ。
「いいえ。お忙しいところ申し訳ございません」
「体調はどうだい?」
そう問いかけるフレデリックはキラキラと無駄に煌めいていた。自分大好きな人が妹の心配をしてくれるとは珍しいと思いながらツバキは笑みを強める。
「もうなんともありません」
ツバキが州城へ運ばれてから、すでに一日半が過ぎていた。
起きてすぐ印を探したが、見えるところにあった印は消えていた。耳の裏についているはずの印がどうなっているかは知らない。世話をしてくれる侍女に聞いても、彼女たちは答えてくれなかった。というのも、ケデウムの州城では帝都以上に身分の区分けが厳しく、平民は皇族と話してはいけないらしい。ツバキが何度許可を与えても、頭を低くするばかりで、首を振ることさえしてくれなかった。
「さてセイレティア。事情は護衛から聞いたよ。偶然、副長官を見つけたというのは本当かい?」
フレデリックは長い足を颯爽と組んでから、紅茶が入ったカップを持ち上げる。その紅茶は先ほどツバキも飲んだが苦みが強く、一口で止めていた。
ツバキは目を伏せて、か弱い皇女を演じる。
「ええ。偶然あの山を訪れたら、隠れていた彼らに襲われて……。恐ろしかったですわ」
「なぜあんな辺鄙なところへ行こうと思ったんだい?」
「実は、お忍びでエイラトの温泉へ行っていましたの。そうしたら、とっても珍しいカショウギクがあの山にあると聞いて」
「セイレティアは花が好きだったかな?」
「私の侍女が好きなので、お土産に一株持って帰ろうと思いましたの。しかも、近くに大叔父様の別荘もあると知り、これはぜひ行かなければと思ったんです」
「ふうん。偶然、ねえ」
「ええ、偶然」
兄がここまで追求してくると思っていなかったツバキは内心冷や冷やしながら皇女スマイルを維持する。フレデリックも微笑のままなので信じたのかどうかわからなかったが、ツバキとしては押し通すつもりだった。
「そういえば、副長官の印が消えていたが、何があったか知っているかい?なんと、魔力もなくなっているようなのだが。本人は話せる状態になくてね」
「さあ、私は何も」
気の毒そうに眉尻を下げて知らないフリをすると、フレデリックはふっと笑った。愉快なものでも見るような目つきだった。ツバキの知る兄の顔ではなかったが、どこかで見たような目だ。どこだったかと思い出そうとしていると、いつもの気取った表情に戻る。
「それで、話というのはなんだい?セイレティア」
「その前に、私の護衛がどこにいるか教えていただけないでしょうか」
「ああ、あれは本当に護衛だったんだね。顔が腫れていたから治癒魔法で治しておいたよ」
顔が腫れていた?と困惑するツバキ。眠っている間に何があったのだろうと不安になる。
カオウと喧嘩したのならカオウもケガをしているのかもしれない。何があったか知りたかったが、それを知る術はツバキにはもうない。
「会わせていただけますか?」
「噂には聞いていたけれど、本当にセイレティアは平民を護衛にしているんだね。あれは君が選んだのかい?」
「陛下のご判断です。それより、会わせていただけますか?」
「平民を雇うなんて、兄さんは何を考えているんだろうね。そんなにあの護衛は特別なのかい?」
「フレディ兄様」
ツバキの話を聞かないのは相変わらずだ。苛立ったツバキが口調を強めても、フレデリックは紅茶を二口ほど飲んでキラリと白い歯をのぞかせる。ツバキの紅茶がほぼ残っていることに気づくと、ティーポットの横に置いてあった細長い小瓶を手に取った。中にはピンク色の液体が入っていた。
「セイレティアには苦かったかな?これを入れると甘くなる。さあ飲んでみたまえ」
「あ、いえ。私は……」
フレデリックはツバキの意見を聞かず三滴垂らした。飲まないのも失礼かと思い、渋々カップを口へ運ぶ。飲むと、確かに苦みが消えて美味しくなっていた。お茶菓子がもさもさするクッキーだったため実は喉が渇いていたツバキは半分ほど続けて飲む。紅茶というよりジュースのような甘味だった。どこかで飲んだことのある味。
「心配しなくても護衛は丁重にもてなしているよ。だが平民をここへ通すわけにはいかないのだよ。それとも君は、僕が何かすると警戒しているのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
フレデリックの一分の隙も無い整った眉がピクリと動いた。機嫌を損ねるのは得策ではない。ツバキはまたコクリと紅茶を飲み、本題に入る。
「あの、お兄様。お願いがございます」
「なんだい?」
「確か州城には、歴史をまとめた資料がありますよね?それを見せていただきたいのです」
突然の申し出にフレデリックは首を傾げ、真剣な表情になった。
「どうしたんだい急に」
「少し調べたいことがありまして」
ロナロはかつてケデウムの領地だった。バルカタルがケデウムを統治した当時、魔力がない人たちをロナロへ追いやったと聞いている。ツバキはそれについて調べようとしていた。
さすがに怪しまれるかと思ったが、フレデリックはふっと面白そうに目を細めた。
やはりどこかで見たことがある表情だ。どこだったかと思いだそうとしたが、なぜだか頭がぼんやりしてきた。
フレデリックが立ち上がる。
「今度は何をしようとしてるんだ?」
口調が変わっている。声も、先程までの爽やかな声ではなく少し低かった。
何かがおかしい。けれども頭が働かない。
「あの……私……」
「無理に動こうとするな」
体の力が抜けて倒れそうになったツバキをフレデリックが抱き止めた。
ツバキは兄を見上げた。顔は兄そのもの。しかし声は、まるで違う。
心なしか、ツバキを抱きとめる腕が太くたくましくなっていく。
「……まさかお前からここへ来るとは思わなかった」
クックッと兄が笑う。いつもの気取った笑いではなく。
重く下がっていく瞼が完全に閉じる前に、ツバキが見たものは。
少しずつ変形していく顔と、暗い金色から鮮やかな赤色へ変わっていく髪色。
「ツケを払ってもらうぞ、ツバキ」
ツバキはその男の姿を完全に見る前に、また深い眠りに落ちていった。
ツバキはその絵画を隅々まで眺めて、持て余している時間を潰していた。
ここはケデウム州長官の執務室だった。大叔父が州長官をしていたときはもっと落ち着いた部屋だったと記憶しているので、派手好きな兄が模様替えしたらしい。
(確か貴重なヴィリオがあると思ったけれど)
ヴィリオとはバイオリンに似た楽器だ。以前は、二百年ほど前に作られたとされる、現在でも有名な弦楽器制作者の最後の作品が飾ってあった。生前叔父は次の州長官へ贈与すると言っていたから今もあるはずだと辺りを見回すと、事務机横の金縁の飾り棚中央に目立つように置かれていた。幼いころよく弾いてくれたなと大叔父を思い出しながら近づくが、ほんの少しだけ埃がつもっていた。派手好きかつ古典音楽好きの兄なら毎日磨きそうなのになとツバキは不思議に思った。
しばらくして重厚な扉が開き、サクラ曰くさわやかイケメンボイスの無駄遣いらしい声が聞こえる。
「やあ、久しぶりだねセイレティア」
フレデリックは暗めの金髪、左目の下にほくろのある男性だ。
久々の兄の登場に、ツバキの中に苦いものが流れたが、皇女セイレティアの仮面をかぶって控えめに微笑んだ。
「いいえ。お忙しいところ申し訳ございません」
「体調はどうだい?」
そう問いかけるフレデリックはキラキラと無駄に煌めいていた。自分大好きな人が妹の心配をしてくれるとは珍しいと思いながらツバキは笑みを強める。
「もうなんともありません」
ツバキが州城へ運ばれてから、すでに一日半が過ぎていた。
起きてすぐ印を探したが、見えるところにあった印は消えていた。耳の裏についているはずの印がどうなっているかは知らない。世話をしてくれる侍女に聞いても、彼女たちは答えてくれなかった。というのも、ケデウムの州城では帝都以上に身分の区分けが厳しく、平民は皇族と話してはいけないらしい。ツバキが何度許可を与えても、頭を低くするばかりで、首を振ることさえしてくれなかった。
「さてセイレティア。事情は護衛から聞いたよ。偶然、副長官を見つけたというのは本当かい?」
フレデリックは長い足を颯爽と組んでから、紅茶が入ったカップを持ち上げる。その紅茶は先ほどツバキも飲んだが苦みが強く、一口で止めていた。
ツバキは目を伏せて、か弱い皇女を演じる。
「ええ。偶然あの山を訪れたら、隠れていた彼らに襲われて……。恐ろしかったですわ」
「なぜあんな辺鄙なところへ行こうと思ったんだい?」
「実は、お忍びでエイラトの温泉へ行っていましたの。そうしたら、とっても珍しいカショウギクがあの山にあると聞いて」
「セイレティアは花が好きだったかな?」
「私の侍女が好きなので、お土産に一株持って帰ろうと思いましたの。しかも、近くに大叔父様の別荘もあると知り、これはぜひ行かなければと思ったんです」
「ふうん。偶然、ねえ」
「ええ、偶然」
兄がここまで追求してくると思っていなかったツバキは内心冷や冷やしながら皇女スマイルを維持する。フレデリックも微笑のままなので信じたのかどうかわからなかったが、ツバキとしては押し通すつもりだった。
「そういえば、副長官の印が消えていたが、何があったか知っているかい?なんと、魔力もなくなっているようなのだが。本人は話せる状態になくてね」
「さあ、私は何も」
気の毒そうに眉尻を下げて知らないフリをすると、フレデリックはふっと笑った。愉快なものでも見るような目つきだった。ツバキの知る兄の顔ではなかったが、どこかで見たような目だ。どこだったかと思い出そうとしていると、いつもの気取った表情に戻る。
「それで、話というのはなんだい?セイレティア」
「その前に、私の護衛がどこにいるか教えていただけないでしょうか」
「ああ、あれは本当に護衛だったんだね。顔が腫れていたから治癒魔法で治しておいたよ」
顔が腫れていた?と困惑するツバキ。眠っている間に何があったのだろうと不安になる。
カオウと喧嘩したのならカオウもケガをしているのかもしれない。何があったか知りたかったが、それを知る術はツバキにはもうない。
「会わせていただけますか?」
「噂には聞いていたけれど、本当にセイレティアは平民を護衛にしているんだね。あれは君が選んだのかい?」
「陛下のご判断です。それより、会わせていただけますか?」
「平民を雇うなんて、兄さんは何を考えているんだろうね。そんなにあの護衛は特別なのかい?」
「フレディ兄様」
ツバキの話を聞かないのは相変わらずだ。苛立ったツバキが口調を強めても、フレデリックは紅茶を二口ほど飲んでキラリと白い歯をのぞかせる。ツバキの紅茶がほぼ残っていることに気づくと、ティーポットの横に置いてあった細長い小瓶を手に取った。中にはピンク色の液体が入っていた。
「セイレティアには苦かったかな?これを入れると甘くなる。さあ飲んでみたまえ」
「あ、いえ。私は……」
フレデリックはツバキの意見を聞かず三滴垂らした。飲まないのも失礼かと思い、渋々カップを口へ運ぶ。飲むと、確かに苦みが消えて美味しくなっていた。お茶菓子がもさもさするクッキーだったため実は喉が渇いていたツバキは半分ほど続けて飲む。紅茶というよりジュースのような甘味だった。どこかで飲んだことのある味。
「心配しなくても護衛は丁重にもてなしているよ。だが平民をここへ通すわけにはいかないのだよ。それとも君は、僕が何かすると警戒しているのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
フレデリックの一分の隙も無い整った眉がピクリと動いた。機嫌を損ねるのは得策ではない。ツバキはまたコクリと紅茶を飲み、本題に入る。
「あの、お兄様。お願いがございます」
「なんだい?」
「確か州城には、歴史をまとめた資料がありますよね?それを見せていただきたいのです」
突然の申し出にフレデリックは首を傾げ、真剣な表情になった。
「どうしたんだい急に」
「少し調べたいことがありまして」
ロナロはかつてケデウムの領地だった。バルカタルがケデウムを統治した当時、魔力がない人たちをロナロへ追いやったと聞いている。ツバキはそれについて調べようとしていた。
さすがに怪しまれるかと思ったが、フレデリックはふっと面白そうに目を細めた。
やはりどこかで見たことがある表情だ。どこだったかと思いだそうとしたが、なぜだか頭がぼんやりしてきた。
フレデリックが立ち上がる。
「今度は何をしようとしてるんだ?」
口調が変わっている。声も、先程までの爽やかな声ではなく少し低かった。
何かがおかしい。けれども頭が働かない。
「あの……私……」
「無理に動こうとするな」
体の力が抜けて倒れそうになったツバキをフレデリックが抱き止めた。
ツバキは兄を見上げた。顔は兄そのもの。しかし声は、まるで違う。
心なしか、ツバキを抱きとめる腕が太くたくましくなっていく。
「……まさかお前からここへ来るとは思わなかった」
クックッと兄が笑う。いつもの気取った笑いではなく。
重く下がっていく瞼が完全に閉じる前に、ツバキが見たものは。
少しずつ変形していく顔と、暗い金色から鮮やかな赤色へ変わっていく髪色。
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