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第五章 フィオレンツァは王宮に舞い戻る。そして…

08 イリーナ・ナジェインの本性

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 イリーナ・ナジェイン公爵令嬢のことを語るには、まずは現在のバザロヴァ王国の様子から話さなくてはならない。

 現在の国王はイーゴリ五世。ルーズヴェルト王国に嫁いだグラフィーラの異母兄に当たる人物だ。
 イーゴリ五世は有能とはいえない男で、若いころは放蕩の限りを尽くした。しかし放蕩癖も三十代には落ち着き、決められた婚約者を妃として娶り、子供も設けて順当に王位を継いだ。
 派手なパフォーマンスが好きで民衆受けが良く、それでいて政治にはあまり興味を示さず重臣のいうことに素直に従うイーゴリ王は、国政を思うままに動かしたい臣下たちにとって担ぎやすい神輿だった。正妃も幼いころから王妃教育を受けており、夫と側妃たちの手綱をしっかりと握っている。
 そうした背景から、バザロヴァ王国はルーズヴェルト王国と比べて安定した政治を行うことができる下地があった。現在国政を担う貴族たちは暴利を貪るようなことはせず、保守的な傾向が強いものの国を富ませることに腐心した。

 そういった国で、イリーナはナジェイン公爵家の長女として生まれた。
 現ナジェイン公爵はイーゴリ王の従兄弟で、当然グラフィーラとも従兄妹同士だ。
 イリーナの母は彼女を生んですぐに亡くなっており、イリーナは公爵家に後妻として入った継母に疎まれて育った。さらに後妻がイリーナの異母妹を生み、さらに妊娠が望めない体になると、イリーナの存在をことさら邪魔に思うようになる。このままではイリーナが公爵家を継ぎ、異母妹は嫁ぐことになる…そうなれば自分の居場所はなくなってしまうと思ったのだろう。
 やがて幼いイリーナの周囲で事故や体調を崩す使用人が現れ始めた…皆彼女を庇って被害にあったのだ。
 しかし父公爵は家のことには全く興味を示さなかった。彼はやる気のない王に代わって国政を動かす重臣の一人で、王宮に入り浸って政治というゲームに熱中していた。結婚して子供を作ったのも、そういう事実があった方が周囲の反応が良いからだ。
 結局イリーナの身を案じた母方の叔父の提案で、彼女は成人するまで母の実家の領地で育つことになった。イリーナの母の実家は侯爵家だったが、領地は豊かな草原を有しており、イリーナはのびのびと育った。
 馬を駆り、牛を追いかけ、領地の悪ガキどもを統率し、熊を狩った。

 「―――いやいや、最後はおかしいでしょ」

 話の途中でフィオレンツァは思わず突っ込んでしまった。
 「あら、熊鍋は結構いけますわよ?」
 「そういうことじゃなくて…」
 「公爵夫人、それがこの人にはできるのです…そう、あれはイリーナ様が14歳の時でした」
 「ルスランは腰を抜かしてたわよね」
 「…だから、イリーナ様が規格外なのです。熊が突然現れて、狩って食料にしてやろうなどという貴族令嬢がどこにいるのですか」
 フィオレンツァの突っ込みをきっかけに、イリーナとルスランの痴話喧嘩が始まってしまった…そう、痴話喧嘩だ。二人のまとう空気が、いつの間にか主人と従者のものではなくなっていた。
 「君たちは幼馴染なのかい?」

 アレクシスの質問に二人は頷く。
 ルスランの父は子爵家の出身だが、長男ではなかったために主家にあたる侯爵家に家族で仕えていた。ルスランはイリーナと同い年だったので、イリーナが侯爵領に来ると遊び相手として宛がわれたという。

 とにかくイリーナは逞しく…もとい、のびのびと成長した。
 そして彼女が16歳になって成人を迎えると、公爵家の父より帰還命令が下った。イーゴリ王の長男で、立太子することが決まっている第一王子の婚約者候補として名前が挙がったということだった。
 イリーナの継母は自分が生んだ娘の方が相応しいとすでに王宮に連れていったようなのだが、我が儘放題に育てられた異母妹は王妃に無礼を働いたらしく、激怒した父公爵に母娘ともども離縁されていた…なんともあっけないことである。
 イリーナの父にとって重要なのは自分がどれだけ長く政局で影響力を及ぼせるかどうかであり、イリーナが王族に嫁いで公爵家が潰えても、彼にとっては些末な問題のようだ。
 イリーナはルスランを連れて継母がいなくなった公爵家に帰還した。そして婚約者になるかもしれない第一王子と会ったのだが、これが彼の父親の若い頃に輪をかけたような放蕩息子だった。毎週どこかのパーティーに身分を隠して(もちろん隠しきれていない)繰り出し、女性をお持ち帰りして一夜を明かしてはそれを自慢げに吹聴するような男だった。
 嫌だ。
 滅茶苦茶嫌だ。
 王子も嫌だが、父の思い通りの道具になるのはもっと嫌だった。


 (死ねやーーーー、くそ親父がぁーーーー!!!)


 フィオレンツァたちの前で、天井から吊るされたウサギのぬいぐるみ(人型サイズ)をイリーナはボコっていた。
 侍女に扮したフィオレンツァが担がされていたものだ…道理で重たいと思った。
 悪態を口パクにするほどの理性はまだ残されているようだが、ボコられているウサギはあっという間にボロボロになっていく。熊を仕留めたことがあるというのは嘘ではないらしい…格闘家レベルの素早いパンチとキックだった。
 フィオレンツァの前世の記憶から参考にするのならば、北〇の拳の女版だろうか…「あたたたたたたた!」という幻聴が聞こえてきそうだ。

 「イリーナ様…その調子で殴っていては、『ニコライ君28号』が持ちません。この国には『ニコライ君30号』までしか持ってきていないのですよ。昨日だけで『26号』と『27号』を一気に駄目にしたのです。『28号』は今日一日くらいは持たせてください」
 「うう…わかったわ」
 ニコライという名前は…もしかしなくとも彼女の冷酷な父親の名前だろう。
 


 回想に戻る。
 第一王子を生理的に嫌う一方で、イリーナは自分が好きなのはルスランなのだと自覚していた。自覚してしまえば、ますます王子と結婚したくなくなる。しかし浅はかに駆け落ちなどしては今まで育ててくれた叔父に迷惑がかかるし、ルスランの家族もただでは済まないだろう。
 イリーナは他の婚約者候補の令嬢と王妃教育を受けながら、どうしたものかと頭を悩ませていた。
 …ちなみに「ニコライ君1号」が誕生したのはこの頃である。
 そうして王宮に出入りすること半年。
 ある日イリーナは国王直々に呼び出された。まさか王子の婚約者に正式に決まったという話だろうか。戦々恐々としながら謁見の間に赴くと、国王夫妻や重臣たち…父公爵の姿もある。
 やはりあの王子と愛のない結婚をさせられてしまうのか。観念しかけたイリーナに、国王はこう告げた。

 「イリーナ嬢、息子の妃になるために日々努力していたそなたにこのような命を下すのは心苦しいのだが…隣国ルーズヴェルト王国の王太子に嫁いではくれぬか?」
 
 一瞬、イリーナは何を言われているのか分からなかった。
 イーゴリ王の異母妹グラフィーラが嫁いでいるルーズヴェルト王国のことはよく知っている。今年30歳になるはずの王太子には、すでに若い王太子妃が嫁いでいるはずだった。
 「私に、ルーズヴェルト国の王太子の側妃になれというお話でしょうか?」
 「そうではない…。よいか、イリーナ嬢、これから話すことは他言無用だ」
 「心得ております」
 「先日異母妹のグラフィーラより書状が参った…。王太子ユージーンの廃嫡が近いうちに発表される。そしてすでに臣籍降下しているアレクシス元王子を王籍に戻して立太子する予定だ。そのにこの国の令嬢を迎えたいとグラフィーラは申しておる」

 なるほど、とイリーナは納得した。
 イーゴリ王は正妃と二人の側妃の間に七人の子供に恵まれたが、そのうち姫は二人だけだ。一人は三年前に侯爵家に嫁いでいて、現在は身重…とても他国に嫁がせることはできない。もう一人は八歳になったばかりの末姫で、イーゴリ王に溺愛されている…こちらも他国の王太子妃は務まらないだろう。
 となれば、国王の養女となるのにふさわしい血筋で、年の頃も合う令嬢が選ばれることになる。公爵令嬢であるイリーナは今年で18歳、新しく王太子に立てられるというアレクシス元王子は20歳になるそうだ。

 「アレクシス元王子はすでに婚姻されていたはず。夫人は身分の低い方なのですか?」
 「後ろ盾のない伯爵家の出身だということだ。すでに子供がいるが、女児しかおらぬ。大人しい性格のようだし、側妃になることも同意するだろう。…問題はルーズヴェルト王国の貴族たちだ。そなたが王太子妃になることを阻止するはずだ」
 「…?このお話はルーズヴェルト王国の議会で承認された話ではないのですか?」
 「グラフィーラとあちらの国王の判断だ。このバザロヴァ王国の後ろ盾が欲しいらしい」

 何ということだ。
 グラフィーラはともかく、ルーズヴェルト王国の王は何を考えているのだろう。自分の国を他国に売るようなものだろうに。
 しかもそのあとに続いた話に、イリーナは今度こそ呆れ果てた。留学と称してルーズヴェルト王国に渡り、呼び寄せたアレクシス元王子と一夜を過ごして既成事実を作れとは。
 確かにアレクシスのお手付きになれば、バザロヴァ王国は介入しやすくなる。
 それにしても、どいつもこいつも思考がクズ過ぎだ。こんなのが国のトップで大丈夫かと言いたかったが、意外とうまく回っていて指摘できないのが悔しいところである。
 今日も『ニコライ君』が一体犠牲になることだろう…さて、現在は何号だったか。
 
 イリーナは一瞬断ろうとも考えた。
 こんなクズどもに駒のように使われるのは癪だったし、アレクシス元王子とその夫人が不憫すぎる。しかし、自分が断ったところで別の令嬢が送り込まれるだけだろうとすぐに思い直した。
 もうこうなれば、隣国で好きにふるまって引っかき回してやろうと思ったのだ。イリーナはナジェイン公爵令嬢として赴くので、失敗したところで責任は叔父ではなくあのクソ親父にある。
 それに隣国ならば、駆け落ちと気づかれずにうまくルスランと姿をくらますこともできるかもしれない…これはすごくいい考えに思えた。

 「かしこまりました、陛下。イリーナはルーズヴェルト王国に赴いて、アレクシス様に嫁ぎます」

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