44 / 66
第四章 公爵夫人フィオレンツァは、王宮に思いを馳せる暇がない
04 襲撃
しおりを挟むフィオレンツァは目を開けた。
まだ朝早い時間のようだった。だいぶ気分がすっきりした気がする。
この部屋はフィオレンツァ個人のものなので、アレクシスの姿はない。今回のように体調が優れない日や、ちょっとした仮眠を取るときなどは、自分の部屋のベッドで寝るようにしていた。
ここ数日は自室なので、アレクシスはずっと一人寝だろう。ちょっと申し訳ない気分になりつつ、フィオレンツァは庭に面した窓へと意識を向けた。
「…だれか、いる?」
誰かの話し声が聞こえた気がした。こんな早い時間から庭師が仕事をしているのだろうか。
なんとなく気になって、窓に歩み寄って庭を覗いた。
「…あ、」
アレクシス…!
呼びかけようとして、フィオレンツァは固まった。庭の薔薇を前に立っていたアレクシスのすぐ向かいに、ニコールが立っていることに気づいたからだ。ニコールが何か話しかけ、アレクシスは微笑を浮かべながら応対しているようだ。
何を話しているの?
まさか、またフィオレンツァがやってもいないことをやったと言うのだろうか。
ニコールこそが被害者だと、フィオレンツァは加害者だと。
自分を嘘つきだと思っていた家族の腫物を見るような目を思い出す。ニコールの嘘だと分かってから皆は誠心誠意謝ってくれたが、フィオレンツァにはずっと心の傷として残っていた。
あの目をアレクシスにも向けられるの!?
「…いやっ!!」
フィオレンツァは床に倒れこんだ。
「…奥様?どうかされたのですか?!」
どれほど時間が経ったのか、ヨランダの声がした。そして…。
「フィオレンツァ?」
その声を聴いた途端、フィオレンツァの体から汗が噴き出した。顔を上げられない。
誰よりも愛しているのに、その人の目を見られない。
「い、いや…」
「奥様?」
「フィオレンツァ、どうしたんだ?」
「いや!やめて、来ないで!!出て行って!!」
フィオレンツァ自身、どうしてそんな言葉を夫に投げつけたのか理解できない。でもどうしても感情がコントロールできなかった。
「フィオレンツァ!」
「やめて、お願い!!出て行って、アレクシス!!一人にして!」
「…!」
アレクシスが息をのんだのが分かった。
「旦那様…公爵閣下、ここはヨランダに任せましょう。午後になれば医師もやって来ます」
「…」
「公爵閣下、…どうか」
「…分かった」
どうやらザカリーが間に入ってくれたようだった。
アレクシスの気配が遠ざかっていく。
すると急にフィオレンツァは不安になった。
行かないで、アレクシス!
どこに行くの?
もしかしてニコールのところ?
だめよ、だめよ!!
しかし先ほどの激情をあざ笑うかのように、その想いは今度は言葉にはならなかった。
フィオレンツァは己の指一本動かすことはかなわなかった。
そのまま昼が過ぎた。フィオレンツァはベッドに横たわったままだ。
また少し微熱が出て、食事も喉を通っていない。
「私…どうしちゃったのかしら?」
誰もいない部屋でぽつりとつぶやく。八歳の時に前世の記憶を取り戻して以来、ずっと精神的に自分は大人だと思っていた。実際その日からミリウスの世話を一挙に引き受け、女主人となった長姉の補佐もするようになったのだから周囲には驚かれた。
ニコールにブキャナン家との婚約を横取りされた時も、あんな阿呆に嫁がなくて良かった、むしろあのやべー女を引き取ってくれるなんてありがたいと拝んだくらいだ。普通の令嬢なら婚約話が流れれば嘆くだろうに、ルパートの態度をエサに持参金の減額を子爵に提案したフィオレンツァを、さすがの父伯爵も微妙な表情で見ていた。
やがて王都で色んな人たちと触れ合うようになって、自分が間違いなくこの世界で生きているということを意識しつつも、どこか前世の自分が別の角度で冷静に物事を眺めてきた。
ところがこの数日、どうしても自分をコントロールできなくなっている。
怖い…。
こんなことは初めてだ。わけもなく不安になるなどやたら不安定だったのに、最悪なタイミングで悪魔(ニコール)が現れたものだ。
未だにニコールとの間に起こったことは、どう処理をつけていいのかフィオレンツァも図りかねていた。フィオレンツァは前世の記憶を取り戻してニコールの行動を分析するようになってから、彼女がいわゆる「サイコパス」なのだろうと判断している。罪悪感を持たず、善悪の判断がつかない攻撃的な人物だ。
階段から突き落とされたあの日、偶然ベラドンナが現場を目撃したことで彼女の本性は家族に知られることになった。しかし、その家族は誰もニコールが危険人物だということを外には話さなかった…隠したのではなく、単純に信じてもらえないからだ。幼いころから自分の本性を隠し、実の妹を嬲り、しかもまるで被害者の方に非があるように装うということを、十歳そこそこでやってのける少女がいると、誰が信じるだろうか。
フィオレンツァもニコールと関わらない以上はアレクシスに話すつもりはなかった。今回ニコールが訪ねてくると知っても、公爵夫人となった自分に下手に手は出してこないと高をくくっていた。…いま考えれば、あまり深く考えることを放棄していたのだろう。
どうしてもニコール関係になると蕁麻疹が出てしまう。
せめて険悪な関係だということくらいは話しておくべきだったのかもしれない。
「奥様、起きていらっしゃいますか?」
ヨランダの声がして、フィオレンツァは少し体を起こした。ドアが開いてヨランダが現れる。
「お医者様が到着しました。いつもの先生の都合がつかなかったようで、私の判断で別の先生に来ていただきました」
「そう…。分かったわ」
「今から迎えに行ってまいります。…メリッサ、奥様についていて頂戴」
「分かりました」
ヨランダが医師を迎えるために玄関に向かい、新人メイドのメリッサが部屋のドアの前に立つ。フィオレンツァは髪だけでも整えようと鏡台の前に立った。
すると鏡にするりと赤いドレスが映り込む。
「!!」
びっくりして振り返れば、ニコールが音もなく立っていた。
「な…っ、なんで…」
「あの子が入れてくれたのよ」
「…」
フィオレンツァはドアに立っているメリッサを睨む。このオルティス領に入ってから雇った平民の少女だ。
「すみません、奥様…。でも、子爵夫人がとてもお気の毒で…奥様と仲直りしたいとおっしゃられていたので」
金に釣られたり、脅しをかけられたりしたわけではなさそうだ…一番面倒臭い、無視だ、無視。
フィオレンツァはニコールに視線を戻す。やはり対峙するのは避けて通れなかったのだ。
「何をしにきたの…?」
「そんなに構えないで頂戴。私も夫もザカリーとかいう護衛に散々ボディチェックを受けたわ。丸腰よ」
それだけでは信用ならない。素手でも階段から突き落としたり、首を絞めたりできる。
「提案しに来たのよ」
「提案?」
「ルパートはね、そろそろ王都に伝手を作りたいんですって。私も子爵夫人になったのだから、華やかな王都で暮らしたいと思っているの。オルティス公爵夫妻には協力していただきたいわ」
「いやよ、あなたと関わりたくないわ」
「ほら、また!どうしてそんな酷いことを言うの?」
「酷い?どっちがよ?私を殺そうとしたくせに」
「何てこと言うの!?私をずっと虐げてきたのはあなたでしょう?」
「いい加減にして、あなたの嘘にはうんざりよ!早く出て行きなさい!!」
「…私は姉よ。なんてことを言うの?」
「あんたなんか、姉じゃない!私の姉はシャノンとベラドンナだけよ」
「冷酷な子…。先ほどアレクシス様にあなたの本性を話しておいたわ。アレクシス様はきっと私の方を信じて下さるわよ」
「…」
「わがままでヒステリーなあなたの言い分なんて、誰も信用しないのよ」
「…やめて」
「ああ、いいことを思いついたわ。あなた、実家でも女主人を気取っていたわね。この屋敷の仕事は全部任せるわ。その代わり、アレクシス様の夜のお相手は私がするわね。…ふふふ、あの方、年下だけどとっても素敵だわ。きっと私に夢中になるわよ」
「やめて」
「ルパートも私がアレクシス様に気に入られたら愛人になってもいいって言ってくれてるの。ルパートは王都に伝手ができて、アレクシス様は魅力的な私の体を手に入れられて、あなたは大好きな仕事ができる…とってもいい考えだと思わない?」
「やめて!」
フィオレンツァはほとんど無意識に手を上げていた。
ぱんっ、という小気味いい音がして、ニコールが床に倒れこむ。
「きゃああああっっ!!!」
「アレクシスに手を出さないで!出てって、出てって!早く私の世界からいなくなって!!」
「許して、フィオレンツァ!ごめんなさい、もう殴らないで!!」
「何をしている!?」
フィオレンツァの部屋の前に、わっと人が集まった。
「フィオレンツァ、何が…子爵夫人、どうして妻の部屋にいるんだ?」
「あなた…」
「公爵様ぁ!助けてください!!」
素早く立ち上がったニコールがアレクシスの前に駆け寄る。
「気分転換に廊下を歩いていたら、妹にこの部屋に引きずり込まれたんです!彼女は急に私を罵倒し始めて…耐えられなくなって逃げようとしたら暴力を…!」
ニコールはフィオレンツァに張られた頬をさりげなく見せつけながら、さめざめと涙を流す。
「ニコール、どうしたんだ、大丈夫か?!」
「ルパート!」
「その頬は…。フィオレンツァ!実家でニコールに暴力をふるっていたことは聞かされていたが…彼女は仮にも子爵夫人だぞ、君の方が身分が上とはいえ、理由もなく暴力をふるっていい相手じゃない!どう責任を取るつもりだ!!」
「ルパート、いいのよ…。大げさにしてはいけないわ。私は一言謝ってもらえれば…」
「君が良くても僕が許さない!」
…はめられた。
ルパートが王都に伝手を持ちたいというのは真実だろう。だがニコールは馬鹿じゃない…アレクシスの愛人になりたいというのは本気ではなく、フィオレンツァを激高させるために口にしたのだ。
ほいほいと罠にかかったフィオレンツァ自身が、最悪の状況を作り出してしまった。誰でもこれを見れば、ニコールの言い分を信じるだろう。メリッサは主の許可なく部屋にニコールを招いたことを知られたくないから、ニコールと口裏を合わせるはずだ。
「オルティス公爵、彼女の本性を見たでしょう?こんな女あなたに相応しくありません!」
ルパートの声がうるさい。耳の中でわんわん響いてフィオレンツァの脳を揺らしてくる。
フィオレンツァはアレクシスの顔を見ようとしたが、視界が嫌に暗くてよく見えなかった。
アレクシス…。
彼の名前を呼ぼうとしたが、うまくできたかどうか分からない。
気が付いた時には、フィオレンツァは床に倒れ込んでいた。
18
お気に入りに追加
2,019
あなたにおすすめの小説
人間不信の異世界転移者
遊暮
ファンタジー
「俺には……友情も愛情も信じられないんだよ」
両親を殺害した少年は翌日、クラスメイト達と共に異世界へ召喚される。
一人抜け出した少年は、どこか壊れた少女達を仲間に加えながら世界を巡っていく。
異世界で一人の狂人は何を求め、何を成すのか。
それはたとえ、神であろうと分からない――
*感想、アドバイス等大歓迎!
*12/26 プロローグを改稿しました
基本一人称
文字数一話あたり約2000~5000文字
ステータス、スキル制
現在は不定期更新です
悪役令嬢を陥れようとして失敗したヒロインのその後
柚木崎 史乃
ファンタジー
女伯グリゼルダはもう不惑の歳だが、過去に起こしたスキャンダルが原因で異性から敬遠され未だに独身だった。
二十二年前、グリゼルダは恋仲になった王太子と結託して彼の婚約者である公爵令嬢を陥れようとした。
けれど、返り討ちに遭ってしまい、結局恋人である王太子とも破局してしまったのだ。
ある時、グリゼルダは王都で開かれた仮面舞踏会に参加する。そこで、トラヴィスという年下の青年と知り合ったグリゼルダは彼と恋仲になった。そして、どんどん彼に夢中になっていく。
だが、ある日。トラヴィスは、突然グリゼルダの前から姿を消してしまう。グリゼルダはショックのあまり倒れてしまい、気づいた時には病院のベッドの上にいた。
グリゼルダは、心配そうに自分の顔を覗き込む執事にトラヴィスと連絡が取れなくなってしまったことを伝える。すると、執事は首を傾げた。
そして、困惑した様子でグリゼルダに尋ねたのだ。「トラヴィスって、一体誰ですか? そんな方、この世に存在しませんよね?」と──。
精霊の森に捨てられた少女が、精霊さんと一緒に人の街へ帰ってきた
アイイロモンペ
ファンタジー
2020.9.6.完結いたしました。
2020.9.28. 追補を入れました。
2021.4. 2. 追補を追加しました。
人が精霊と袂を分かった世界。
魔力なしの忌子として瘴気の森に捨てられた幼子は、精霊が好む姿かたちをしていた。
幼子は、ターニャという名を精霊から貰い、精霊の森で精霊に愛されて育った。
ある日、ターニャは人間ある以上は、人間の世界を知るべきだと、育ての親である大精霊に言われる。
人の世の常識を知らないターニャの行動は、周囲の人々を困惑させる。
そして、魔力の強い者が人々を支配すると言う世界で、ターニャは既存の価値観を意識せずにぶち壊していく。
オーソドックスなファンタジーを心がけようと思います。読んでいただけたら嬉しいです。
婚約破棄され逃げ出した転生令嬢は、最強の安住の地を夢見る
拓海のり
ファンタジー
階段から落ちて死んだ私は、神様に【救急箱】を貰って異世界に転生したけれど、前世の記憶を思い出したのが婚約破棄の現場で、私が断罪される方だった。
頼みのギフト【救急箱】から出て来るのは、使うのを躊躇うような怖い物が沢山。出会う人々はみんな訳ありで兵士に追われているし、こんな世界で私は生きて行けるのだろうか。
破滅型の転生令嬢、腹黒陰謀型の年下少年、腕の立つ元冒険者の護衛騎士、ほんわり癒し系聖女、魔獣使いの半魔、暗部一族の騎士。転生令嬢と訳ありな皆さん。
ゆるゆる異世界ファンタジー、ご都合主義満載です。
タイトル色々いじっています。他サイトにも投稿しています。
完結しました。ありがとうございました。
悪役令嬢の独壇場
あくび。
ファンタジー
子爵令嬢のララリーは、学園の卒業パーティーの中心部を遠巻きに見ていた。
彼女は転生者で、この世界が乙女ゲームの舞台だということを知っている。
自分はモブ令嬢という位置づけではあるけれど、入学してからは、ゲームの記憶を掘り起こして各イベントだって散々覗き見してきた。
正直に言えば、登場人物の性格やイベントの内容がゲームと違う気がするけれど、大筋はゲームの通りに進んでいると思う。
ということは、今日はクライマックスの婚約破棄が行われるはずなのだ。
そう思って卒業パーティーの様子を傍から眺めていたのだけど。
あら?これは、何かがおかしいですね。
悪役令嬢エリザベート物語
kirara
ファンタジー
私の名前はエリザベート・ノイズ
公爵令嬢である。
前世の名前は横川禮子。大学を卒業して入った企業でOLをしていたが、ある日の帰宅時に赤信号を無視してスクランブル交差点に飛び込んできた大型トラックとぶつかりそうになって。それからどうなったのだろう。気が付いた時には私は別の世界に転生していた。
ここは乙女ゲームの世界だ。そして私は悪役令嬢に生まれかわった。そのことを5歳の誕生パーティーの夜に知るのだった。
父はアフレイド・ノイズ公爵。
ノイズ公爵家の家長であり王国の重鎮。
魔法騎士団の総団長でもある。
母はマーガレット。
隣国アミルダ王国の第2王女。隣国の聖女の娘でもある。
兄の名前はリアム。
前世の記憶にある「乙女ゲーム」の中のエリザベート・ノイズは、王都学園の卒業パーティで、ウィリアム王太子殿下に真実の愛を見つけたと婚約を破棄され、身に覚えのない罪をきせられて国外に追放される。
そして、国境の手前で何者かに事故にみせかけて殺害されてしまうのだ。
王太子と婚約なんてするものか。
国外追放になどなるものか。
乙女ゲームの中では一人ぼっちだったエリザベート。
私は人生をあきらめない。
エリザベート・ノイズの二回目の人生が始まった。
⭐️第16回 ファンタジー小説大賞参加中です。応援してくれると嬉しいです
断罪イベント返しなんぞされてたまるか。私は普通に生きたいんだ邪魔するな!!
柊
ファンタジー
「ミレイユ・ギルマン!」
ミレヴン国立宮廷学校卒業記念の夜会にて、突如叫んだのは第一王子であるセルジオ・ライナルディ。
「お前のような性悪な女を王妃には出来ない! よって今日ここで私は公爵令嬢ミレイユ・ギルマンとの婚約を破棄し、男爵令嬢アンナ・ラブレと婚姻する!!」
そう宣言されたミレイユ・ギルマンは冷静に「さようでございますか。ですが、『性悪な』というのはどういうことでしょうか?」と返す。それに反論するセルジオ。彼に肩を抱かれている渦中の男爵令嬢アンナ・ラブレは思った。
(やっべえ。これ前世の投稿サイトで何万回も見た展開だ!)と。
※pixiv、カクヨム、小説家になろうにも同じものを投稿しています。
婚約破棄されたけど前世が伝説の魔法使いだったので楽勝です
sai
ファンタジー
公爵令嬢であるオレリア・アールグレーンは魔力が多く魔法が得意な者が多い公爵家に産まれたが、魔法が一切使えなかった。
そんな中婚約者である第二王子に婚約破棄をされた衝撃で、前世で公爵家を興した伝説の魔法使いだったということを思い出す。
冤罪で国外追放になったけど、もしかしてこれだけ魔法が使えれば楽勝じゃない?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる