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第一章 フィオレンツァと愉快な乙女たち
03 おっとり令嬢パトリシア
しおりを挟む次の日から早速授業が始まった。
といっても、前世の日本の学校のように午前から始まるのではない。この世界の貴族社会では、午前中は基本的に仕事をしないのだ。大体9時くらいに起きて、二、三時間かけて食事をしながらゆっくり身の回りの用意をする。王都だけでいえば庶民も同じようなもので、午前に働くのは週に数回朝市が開かれる時くらいだ。早起きなのは王宮や貴族の屋敷に勤める召使だけだろう。
フィオレンツァも自領では自分のことは自分でしていたので、朝は早かった。
他のご令嬢はゆっくりドレス選びをしているだろうが、フィオレンツァはいつもよりさらに早めに起き、バーンスタイン夫人からの課題を復習することにした。
「お嬢様、一気にお茶を注ぎすぎですよ」
「あ、そうだった!またやっちゃったわ」
フィオレンツァは真剣な顔で紅茶を入れていた。なぜなら、課題が「紅茶を正しく淹れること」だったのだ。紅茶の銘柄が網羅された本や紅茶に関する歴史の資料一式も、午後からの授業までに読むようにと渡された。昨日は資料を頭に叩き込むのに精いっぱいで、紅茶を淹れる実践までできなかったので、アガタに頼み込んで朝から淹れ方を教示してもらっている。
「でも何とか形にはなりましたよ。高位のご令嬢は、ポットなど重くて持てないとおっしゃる方もいらっしゃいますからね」
「あ、あはは…」
フィオレンツァが紅茶を淹れるのは初めてだと信じているアガタに誤魔化し笑いをする。
当然貧乏令嬢なフィオレンツァは紅茶を淹れたこともあればポットを持ったこともある。だが自分たちが飲む分に限っては安かろう悪かろうな茶葉で済ませていたうえ、大量に作っておいて屋敷の者全員で一日かけて飲むというスタイルだった。味云々より水分補給だ。何の旨味もないホワイトリー伯爵領を敢えて訪ねる貴族もおらず、たまに来る商人には父や執事のバーナードが必ず応対していたため、きちんと茶の淹れ方を習ったことはなかった。
「次はこちらの茶葉にしてみましょう」
「アラバスター産のお茶ね。色を楽しむお茶だったわね」
「ええ。きちんと手順を守って淹れないと、綺麗な赤が出ないんですよ。…さあ、頑張ってください」
アガタと共に様々な紅茶を淹れ続け、あっという間に昼の時間になった。
授業は二つの丸テーブルに生徒が二手に分かれて座り、バーンスタイン夫人が指名した順から茶を淹れて全員にふるまうというものだった。
「まずはフィオレンツァ嬢、あなたからです」
なんと!まさかのトップバッターだ。フィオレンツァはどきどきしながら立ち上がり、茶を用意するためのテーブルの前に立つ。茶葉の缶には「アラバスター産」とタイプされていた。
やったー!さっきアガタと一緒に練習したばかりのお茶だ。
フィオレンツァがお茶を淹れている間にも、バーンスタイン夫人は席についている生徒に講義していた。
「スカーレット嬢、なぜこの授業が存在するのかわかりますか?お茶を淹れるのは通常使用人の役目…貴族の自分に不必要な授業だと思ったのでは?」
「大きな理由は、毒による暗殺を未然に防ぐためですわ」
「どうして紅茶を淹れる知識が毒を防ぐことになるのか述べなさい」
「紅茶を淹れる手順を知っておけば、もし紅茶を用意した侍女が暗殺者だった場合、違和感に気づいて服毒する可能性を低くできますわ」
スカーレット嬢の完璧な返答を聞きながら、フィオレンツァは淹れ終わった紅茶を令嬢たちの席に配る。主催者側の椅子から反時計回り。全て配り終え、自分の席へと戻った。
「少し香りが飛んでいますね」
う…っ!ちょっと蒸らしが足りなかっただろうか。
「申し訳ありません。少し焦ってしまったようです」
「まあいいでしょう。色は綺麗に出ていますよ。次は…ロージー嬢。あなたが淹れてください」
「かしこまりました」
二番手のロージー嬢が立ち上がり、フィオレンツァがしたようにあらかじめ用意されていた別の紅茶を淹れ始める。ふわりと香りが広がった。先ほどのアラバスター産のものより、甘いフルーティな香りがする。
「紅茶を淹れる授業が必要な理由はまだあります。フィオレンツァ嬢、わかりますか?」
「はい。ええ…と。国外の客人をもてなすためです。わが国では基本的に貴族の子女は茶を自分で淹れませんが、反対に自ら茶を淹れ、相手からも淹れてもらい、信用を確かめる国もあるからです」
「その国の名を言えますか?」
「東方のカザン、オラ、それとシフです」
「その通りです。付け加えると、カザンはこの国においてはこちらの流儀に合わせてくれる傾向があるので、ルーズヴェルト国内で応対する限りはそういった機会は少ないでしょう。オラとシフは宗教色が強く、自ら茶を淹れない外交官を基本的に信用しません。よく覚えておくように」
そうこうしている間に、ロージー嬢も紅茶を淹れ、配り終わった。バーンスタイン夫人がカップを持ち上げたのを見て、フィオレンツァたちも紅茶を口に運ぶ。ほのかに甘い紅茶の味が舌に広がった。
「紅茶の味も色も香りも完璧です。サリンジャー産のフルーツティの長所がよく出ていますね」
文句なしの満点のようだ。
確かにおいしい。ロージー嬢も鼻高々だ。
「ありがとうございます、先生」
「ですが、少しカップの音が耳に触ります。次からはカップの持ち方や置き方にも気を付けてみなさい」
「は、はい。努力しますわ」
くすっ、と誰かが笑った。
ん?誰だろう?
案の定ロージー嬢がものすごい顔で相手を睨みつける。殺人眼光ビームの先にいたのは…なんとスーザン嬢だった。すごい度胸だ。子爵家の令嬢が侯爵家の令嬢…それも王子の妃になるかもしれない令嬢に喧嘩を売っている。
フィオレンツァだったら絶対にちびっているロージー嬢の眼光ビームに対し、スーザン嬢は平然としていた。
次はパトリシア嬢の番だった。例のごとく、お茶の用意の間に講義が再開される。
「スーザン嬢、他にも貴族の子女がお茶を淹れる必要に迫られる機会があります。答えなさい」
「…は?ええ、と…」
「昨日渡した資料を読んでいればわかる問題ですよ」
「はい…その…」
スーザン嬢はわからないようだ。確かに資料を隅から隅まで読まないと全部答えるのは難しい。うつむいたスーザン嬢に対し、先ほど馬鹿にされたロージー嬢が勝ち誇った顔をしている。…ちょっと顔に出し過ぎじゃなかろうか。
「仕方ないですね、ではエステル嬢、あなたは答えられますか?」
「はい。部屋に使用人を呼ぶことができない場合です。例えば…絶対に漏洩してはならない機密を取り扱う場合、侍女や護衛を排除することがあります。長い密談になると、飲食を用意するのは高い身分の子女になることが多いからです」
エステル嬢は昨日とは打って変わってはきはきと答えた。バーンスタイン夫人も満足げに頷く。
「その通りです。あなた方は王子妃、あるいは高位の貴族の妻となる運命です。紅茶を実際に淹れるのはこの授業限りになってしまうかもしれませんが、必ず役に立つ知識です。ですから…」
「きゃあっ!なにするのよ!」
「熱い!!」
バーンスタイン夫人の言葉は、少女の悲鳴に遮られた。見れば紅茶を配っていたはずのパトリシア嬢が腕を抑え、座っていたはずのスーザン嬢はドレスをしきりにハンカチで拭いていた。
「酷いわ、パトリシア嬢がわざと私のドレスに紅茶をかけたのです!」
「違います、私はそんなこと…」
「とぼけるの!?私が子爵家の人間だからって、こんなのないわ!」
スーザン嬢はきいきいわめいているが、ドレスの裾がちょっと濡れただけのようだ。それに対し、パトリシア嬢は肘の部分に熱い紅茶がかかってしまったのか肌が赤くなっている。
フィオレンツァは立ち上がった。
「バーンスタイン夫人、私、パトリシア嬢の腕を井戸の水で冷やしてきます。お医者様を呼んで下さい」
「…ええ。行きなさい」
フィオレンツァは素早くパトリシア嬢に歩み寄り、「さあ行きましょう」と扉へと促した。
「ちょっと、逃げる気!?」
スーザン嬢が掴みかかろうとしたのをさっと避け、足早に退出した。
「あ、あの…」
「さあ早く!痕になってしまいます」
貴族の令嬢が目立つ場所に傷をつければ、それだけで傷物にされることがある。
フィオレンツァはパトリシア嬢を半ば引っ張るように井戸のある水飲み場へ連れて行った。ちなみにこの世界では下水道はあるが上水道はない。いまだに井戸の水をくみ上げていてちょっと時代遅れだ。だが、時代劇のように桶を投げて紐を引いて汲むのではなく、手押しのポンプが付いているので体力さえあれば水を流し続けることができるものだった。
フィオレンツァはパトリシア嬢の火傷した肘をポンプ口の前に固定させると、ポンプを上下し始めた。水が勢いよく流れ、パトリシア嬢の腕を濡らす。
「動かしちゃ…だめ、ですよっ。…冷たい、…かもしれないです…が、痕が残って…は大変ですから」
重い上下ポンプにひいひい言いながらも動かないように忠告する。パトリシア嬢はびっくりしているのか、されるがままだった。3分ほど経って体力が尽きかけて来た頃、テッドメイン侯爵家の護衛らしき騎士が二人駆け付けた。一人にポンプを代わってもらい、もう一人の上着を借りて水をかぶり続けているパトリシア嬢の肩にかける。もうしばらく流水に火傷をさらし続け、医師が到着したという報告を受けてようやく処置室へ向かった。
パトリシア嬢もフィオレンツァも井戸の水でびしょ濡れだった。
「うむ。これなら痕にはなりませんよ、お嬢様」
「本当ですか、先生」
医師にきっぱり宣言され、暗かったパトリシア嬢の顔に喜色が浮かんだ。
「処置が早かったおかげですな」
医師はそう言って、フィオレンツァに微笑みかけた。フィオレンツァは愛想笑いを返すものの、動いて汗をかいた反動で寒さを覚えていた。
「あの…わたし…そろそろ着替えをと…」
「ああ、そのままでは風邪をひく。誰かタオルを出してあげて。部屋まで送ってあげなさい」
「バーンスタイン夫人には…」
「心配無用だよ。パトリシア嬢とフィオレンツァ嬢は今日の授業は終了だと言付かっている。明日の課題は後程届けさせるそうだ」
「ど、どうも…」
かちかちと歯を鳴らしながらフィオレンツァは退室した。
夢に向かう授業初日は、とんだ幕切れとなったのだった。
「そうだったのですか、大変でしたね」
「そうなのよー。あのスーザンって子、なんなのかしら?」
部屋に戻ったフィオレンツァは、部屋着のワンピースに着替え、アガタが淹れてくれた温かい紅茶を飲んでいた。
「アプトン子爵家のご令嬢ですよね。アプトン子爵はやり手で、領地経営の他にも商会を運営していると聞きましたわ」
「お金持ちなのよね。ドレス、すごくいいもの着ていたわ」
「ですが金持ちだからと言って、侯爵家の令嬢にそんな態度を取るなんて…。パトリシア嬢に怪我をさせておいて、謝罪の一言もなかったのですよね?」
「さあ?あの時は興奮してたみたいだから。あとから冷静になれば、謝るかもしれないわよ」
「だといいのですけれど」
そんなやり取りをしていると、来客が告げられた。そろそろ夕食の時間なのに、誰だろうと首を傾げる。
「テッドメイン伯爵家のパトリシア嬢です」
「ええ!?」
「お通ししてもよろしいですか?」
「いやいや、着替えますので!!」
「お部屋着で構わないそうです。どうかアプトン家のご令嬢と遭遇する前に入れてほしいと」
「…」
断るわけにもいかず、ショールだけ羽織ってパトリシア嬢を出迎えた。パトリシア嬢は一度屋敷に戻ったのだろう、ドレスを着替え、髪も結い直した完璧な姿で現れた。ワンピースに髪を無造作にまとめただけの姿のフィオレンツァは居たたまれない。悪気はないのだろうが、あんまりである。
「こんな時間に押しかけるように訪問してしまってごめんなさい。どうしてもあの人と顔を合わせたくなかったの」
「え、ええ…分かります。お気になさらないで下さい」
あの人とは言わずもがなスーザン嬢のことだろう。フィオレンツァも疲れるからあまり会いたくない。
「それでご用件は…」
「まずはお礼を言わせてください。先ほどはありがとうございました」
パトリシア嬢は深く頭を下げる。
「お顔を上げてください。当然のことをしたまでです」
「ですが、フィオレンツァ様が素早く行動して下さらなかったら、私の腕には傷跡が残っていたかもしれません。そうなれば王子妃になることはおろか、碌な嫁ぎ先が見つからなかったでしょう」
「では傷は大したことがなかったのですね。良かったですわ」
本当に良かった。あれでパトリシア嬢に傷がついて、年寄貴族の後妻になった暁には、一生心にしこりが残る。左ひじに巻かれている包帯は痛々しいが、痕が残らないというのなら何よりである。
「それで…これはお礼ともいえないのですが…」
パトリシア嬢が伴っていた侍女が一歩前に出る。部屋に入って来た時から箱を両手に抱えていたので、何らかのお礼だと思っていた。
…断るべきだろうか。
あんまり高価なものだったらやはり断るべきだろう。そんなことを思いながら、箱を受け取ったアガタが蓋を開けると…。
「ドレス!?」
「ええ、今日のことでドレスが駄目になってしまったでしょう?フィオレンツァ様は領地が遠いと伺いましたので、すぐに替わりを用意するのは難しいのではと…」
「お借りしていいんですか!?本当に?」
「あ…いえ、どうぞ受け取ってください。私はもう着ないので」
「くださるんですか!!すごく助かります!貧乏なのでもうあと一着しかドレスがなくて…!三着も…!しかも私が持っていない色ばっかり!!ありがとうございます、ありがとうございま……、あ…」
興奮してついまくし立ててしまった。しかも「貧乏」というワードを…。
パトリシア嬢と彼女の侍女はもちろん、アガタも目が点になっている。
なんてこった!
こんなにも早く自分からカミングアウトしてしまうとは。
しばしの沈黙の後、くすくすとパトリシア嬢が笑いだす。
「あ、あの…っ」
「ごめんなさい、馬鹿にしたわけではないの。先ほどあんなに頼りになったフィオレンツァ様が、子供のようなお顔をされていたから…。そのドレスはどれもつい最近私用に仕立ててもらったものだからサイズは合うはずですわ。夜会やお茶会がある度に母が用意してくれるのだけれど、侯爵家ともなると、上位のお客様と色が被らないように大抵は一度に二着以上仕立てるのよ。だから一度も袖を通していないドレスが溜まってしまって…。そんなに喜んで下さるなんて嬉しいわ」
「その…私大声を出してしまって…。お恥ずかしいです」
「実は…フィオレンツァ様のご実家の現状は知っているのです。おそらく他の妃候補の令嬢も、初日にあなたを紹介された時点で家の者に命じて調べさせているはずですわ。知ったうえで持ってきたのです」
「そうでしたか。気を使っていただいたのですね」
自分の「貧乏」発言でその気遣いも台無しだ。別に隠すつもりはなかったが、やはりこれからの数か月、「貧乏人」と蔑まれ続けるのは辛い。だがこちらを真っ直ぐ見つめるパトリシア嬢の瞳に蔑みの色は見えなかった。
「フィオレンツァ様、どうか私の友人になっていただけませんか?」
「え…?でも…」
「迷惑ですか?」
「まさか!ですが私は伯爵家の中でも下位の家の出身ですよ。ご家族が反対されるのでは?」
「その逆ですわ。今日の出来事はすでに両親に報告済みです。父はことのほかフィオレンツァ様に興味を持ち、外出許可が取れたら是非とも我が屋敷に招きたいと申しておりましたわ」
おおう。
確かパトリシア嬢のお父上は宰相閣下ではなかったか。そんな大物のお宅に招待されるとは…今からめまいがする。
「どうか私のことはパトリシアと呼び捨てにしてちょうだい。私もフィオレンツァと呼んでいいわよね?」
パトリシアはにこにこ微笑んでいる。おっとりさんかと思ったが、結構押しが強いぞ。
「…ええ。これからよろしく、パトリシア」
こうしてフィオレンツァは王宮生活一日目にして宰相閣下のご令嬢と友人になった。
というか敏腕で有名な宰相のご令嬢を傷物にしようとして、スーザン嬢は王宮内で無事でいられるのだろうか。
王宮での修行生活は、平穏とは程遠いものになりそうだった。
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