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【葵編】1話-3
しおりを挟む午前中をだらけて過ごし、昼食を適当にとり、家を後にする。制服が荷物になるのが嫌だったので、着て帰ることにした。たった数駅電車に乗るだけだし、土曜の昼過ぎに制服姿がいたところで目立つことはない。
人通りの少ない住宅街を静かに歩く。駅の反対側には賑やかな大通りがあるが、対してこちら側は、店も無ければ道も細い。
家から駅に向かって少し歩くと、古びたアパートが見えてきた。かつて日野が住んでいた場所だが、今はもう、他の住人がいる。なんとなく、以前兄から教えられていた部屋の扉を見上げた。あそこで自分は生き返ったのだな、とぼんやりと思う。
「あ。篠原だ」
背後から声がした。振り向けば、そこには同い年ほどの女が立っていた。緩い恰好に小さな白い買い物袋を持つ姿は、近所のコンビニに行ってきました、と体言している。こちらを見て、瞬きを繰り返す。
「うわぁ、君って、そういう感じなんだぁ」
抑揚のない声でよく分からないことを言われた。
「相手だれ? うちの学校の子? このへんって誰か一人暮らししてるんだっけ。やっぱやること違うねぇ」
うちの学校、と言われ、はじめてその女が同じ学校の生徒であると気づいた。上級生に知り合いはいないし、話し方からして同学年だろう。普段から周囲を見ていないせいで、学友の顔すら覚えていない。
「ていうかそれ、大丈夫?」
「それ?」
「口の怪我。昨日、思い切り殴られてたでしょ」
「なんで知ってんだよ」
「あー、うん、なんかねぇ」
女は歯切れの悪い言い方をし、視線を泳がせ、それでも淡々と言う。
「浮気してるって誤解されてね、弁解してもなんかこじれちゃってさぁ、こっちもむかついて、流れで言っちゃったんだよね。篠原相手ならあり得るかもねー、て」
「は……?」
「ほら、あんた顔いいから」
そう言って黙り、「間違えた。顔だけ、は、いいから」と言い直した。ふわふわとした喋り方のせいでうまく理解が出来ないが、つまりは、痴話喧嘩に巻き込まれたということだ。
「いい迷惑だ」
「ごめんて。でもさ、篠原も悪いよ」
「なにが」
「あいつに声かけられた時さ、あんた誰、って言ったでしょ。あれはないわ、同級生に向かってさぁ」
たしかに言ったかもしれない。誰だか分からなかったから、自然と出ただけの言葉だ。別に悪意があったわけではない。
「もしかして、私のことも分かってなかったりする?」
さすがに、ここで頷くことはしなかった。黙っていると、それを肯定ととったのか、女が眉を下げて笑った。
「それそれ、そういうとこ。まぁ、私は嫌いじゃないけどね。とりあえず、怒ってなくてよかったよ」
「怒ってるよ」
「うん、ごめんね」
きっと悪いと思っていないのだろう。こちらの反応も待たず、投げやりに謝罪するとそのまま歩いて行ってしまった。
電車に乗り、見慣れた景色を歩き、家に着いた。ドアを開けて玄関に入るとすぐに、奥から足音が聞こえてくる。
「おかえり、早かったな」
そう言う父の顔は嬉しそうだ。適当に返事をしながら靴を脱ぎ、持っていた四角い箱を渡した。
「兄ちゃんちの近くのケーキ屋、開いてたよ」
そこは父のお気に入りのケーキ屋だ。実際、本当に気に入っているのかどうかは分からない。単に兄の家に近いから、話題作りの為にそう言っているだけのような気はしている。父はさしてケーキに興味があるわけでもないし、甘党でもないのだ。
「葵が優しい……」
「珍しいみたいな言い方するな」
父は箱を受け取ると、軽やかな足取りで廊下の先へと向かっていった。後に続いてリビングに入り、キッチンの中を覗けば、どれだけ素早い動きをしたのだと思うほどの早さで皿にケーキを乗せていた。
「お兄ちゃん、元気だったか?」
ケーキを頬張りながら、父が聞いた。
「いつも通りだよ」
「そっか。今日は、家でゆっくりしてるのかな」
「それも、いつも通り」
そう返すと、小さくなった声で、「そっか」と言った。
父は、兄が真犯人の捜索を一人で続けていることを知っている。日野のこともあり、俺と同様に後ろめたい気持ちがあるようだ。事件を担当していた刑事だったのだから、未然に防げず、友人を巻き込み、今もなお過去を引きずり続けている息子の姿を見るのはつらいだろう。
あれからすぐに父は刑事を止めた。事件が理由というわけではなく、家族との時間を優先する為に一般企業に勤めたい、という思いが以前からあったようだ。今では毎日定時に上がり、家事全般をこなしている。
夕方までのんびり過ごし、父の張り切った料理を手伝い、夕食を食べてまたのんびりと過ごす。なんだか今日は食べてばかりだったな、と思いながら眠りにつき、明日を迎える。そうやって休日を終えれば、またいつも通りの平日が始まる。つまらない毎日だ。
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