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カラオケ編

021 本気

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 結莉の頭を挟むように、二本の腕がそびえ立っていた。誰を隠そう、隆仁の腕である。

 自身の陰が、直立している時よりも小柄に思える美少女に落ちていた。冷や汗が額から流れ落ちると、顎を伝って彼女へと滴ってしまう。

 市販されているサバイバルブックは多岐にわたるが、女子を不測の事態で床ドンした時の対処法までは載っていまい。相手がそうなることを狙ったのなら猶更だ。

 会話で騒がしかった室内も、不穏な静寂に支配されていた。血液ポンプの役割を果たす重要な臓器の鼓動は、耳を塞いでも感じる。

 ……佐田さんは、本気でそう思ってるのかな……?

 徹底的に距離を取ることで保ってきた、プライベート空間。侵害されそうになると急制動して、乗客を前に吹き飛ばす。頭から血を流していようが損害賠償を請求されようが、断固として他人の接近を認めなかった。

 その結莉が、上半身を解放している。開け放たれた胴体は、抵抗心を失くしていた。拳を振り下ろせば、下のソファまで貫通してしまいそうだ。

「……どうしたの? 怖くて一歩踏み出せないの?」

 受け身になった彼女は両腕を横に伸ばし、落下物を抱きしめる体勢に入った。

 重力に身を任せて、いいものか。次の瞬間には、広大な知的少女の海に溺れている。

 ……演技……、なのか……?

 金魔女の色眼鏡を外してみると、どこまでも結莉は結莉だ。毅然とした口調で、優柔不断なクラスメートに揺さぶりをかけてきている。

 彼女の本望が男に襲われることであるならば、叶えてもいいのだろうか。

 これは願望の問題ではなく、隆仁の価値観にレバー操作がかかっている。前に倒せばマグマに突っ込むことになり、非常ブレーキを動作させれば日常が続く。

 付き合うきっかけとなった、初日の映像がフィルムとなって再生される。

 突如として目の前に立ちふさがった壁は、どの国境に敷かれているフェンスより高かった。身体能力に卓越していようと、トランポリンでは飛び越えられそうになかった。

 ……数学の課題が、間に合わなくなったんだよな……。

 個人的な後始末は抜きにして、結莉は日本滅亡のフラグを立てた。面識が無く、事前知識も仕入れていなかった勉強中の少年を、戦場に連れて行ったのである。

 武器の扱い方もままならない兵士をぞんざいな待遇にしたことは、戦時法違反だ。捕虜に対する仕打ちが問題視されることの多い戦争だが、味方を傷つけていたのでは論外である。

 ……いじめは、不快な気分がしたらイジメになるんだよな。

 加害者の心情に関わらず、当事者が不快だと感じればそれは立派な犯罪になる。いかなる証言が被告から提出されようとも、被害を受けた側が吐き出した思いが全てなのだ。

 そして、その逆も然り。何の目的で人をたぶらかそうとしたとしても、隆仁が心地良ければそこに裁判所で争うような点は自然消滅する。

 使い込んだ金額は少額だが、決してドブに捨てていいものでは無かった。新発売のゲームや漫画、誇大広告で誘惑してくるスマホアプリの課金を断ち切り、ようやく手に入れた小銭だった。ワンコインでも、消費させたことは極刑に値する。

 ……でも、佐田さんは全部が相殺されるから……。

 念願の裁判長となった隆仁からの判決を待っているのは、ソファで今か今かと飛び込み台を見つめる結莉だ。彼女には、情状酌量の余地も残されている。

 あれは、アホ毛が飼い主の意向を無視した時の一幕だった。

 自身の髪の毛といううなだれていて当然のものに翻弄され、挙句の果てにその場にへたりこまされていた。人という生き物を退職したベテランではなく、有給休暇を取っていただけの会社員だということが明らかになっただけでも、同情心を掴まれそうになった。

 涙目になりかけた彼女に、叱責を上から押しつけるワンマン課長を演じきれる役者はいない。日常生活で自立している者がふとした事件で流す涙の粒は、その人を引き立てる名脇役になる。

「そうか、そうか。こんなのになっても、まだ我慢しようとしてるんだね」

 展開のせいにして事後は知らんぷり、という無責任な人間になりたいとは微塵も思わない。結莉は風鈴の音を鳴らそうと試みているわけだが、うちわの扇ぎごときで東京スカイツリーに傾かれては困る。

 ……何て言ったら、佐田さんは正気に戻ってくれるんだ……?

 レベルの劣る隆仁では、バトルを仕掛けてもコテンパンにされる。仲間で佐田お嬢様の官邸に突撃しても召使いに門前払いされそうだと言うのに、この身一つで次期後継者に争いを起こすのは無謀だ。

 根幹の話になるが、恋愛エンジンが熱暴走で壊れているのかを確かめる術を隆仁は持っていない。大真面目に夜の気分で誘ってきているのかどうかは、感情認知AIでも判断不可能である。

 密室での出来事は、外部に漏れない。それが担保されていて初めて思考が変わるようでは、下心満載の変質者になってしまう。

 ……そもそも、俺は佐田さんにどうして欲しかったんだ?

 複雑な進路に悩んで自暴自棄になりそうな時こそ、原点回帰だ。軟投派を極めようとして不振に陥った投手も、基本である外角低めのストレートを投げ込む。

 ただ、隆仁の本心に向き合って欲しい。不純で愚直な願いを原動力にして、ガラスやコンクリートが紛れ込む台風の中を前進してきた。

 結莉からすればカップル成立の儀式を完了しているつもりだろうが、隆仁からすればあの告白はハリボテであった。恋心の無い金目当ての発言など、正式な発表にはならない。

 まだ、本心で好意を贈る付き合いは出来ていないのだ。

 ……体目的な部分も、少しはあったと思うけど。

 動物のオスである以上、スタイルや胸に視線を向けてしまうのは生理現象だ。やりすぎると反感を買ってしまうが、適切な頻度にとどめておけばトラブルが起こることも無い。

 半ば押し売りされてまで、結莉を貪りたいとは考えない。

「……嫌な事、投げ出しちゃいなよ。別に、これでお金を取るつもりじゃないから」

 同人誌の表紙に載せておきたいスタイルの子である。ビキニで海岸を寝っ転がっているだけで、オファーの携帯電話が鳴りやまなくなる。 

 放課後、下駄箱で結莉に迫られて動悸が収まらなかった。美少女が自分に一目ぼれしたと勘違いした哀れな男子高生は、一握りの希望を時間の許すまで膨らませていったのだ。

 現状、短針が十二を指していないのに響きわたるはずの鐘が、工事で撤去されてしまっている。イボガエルが王女に見えたり、モナ・リザが絵画の世界を抜け出してきたりしていない。

 ……佐田さんの魅力は、ボディ以外にも詰まってる。

 アナウンサーも腰を抜かして番組を降板するトーク力を発揮したかと思えば、赤ちゃんに学歴の違いをまざまざと見せつけていく。奇想天外で、それでいて秀才の一面が現れることもある。

 彼女は、単なる理系美少女ではない。歩いて雑談するだけで心を鷲掴みにするような、一言で表すには脳の処理能力が足りないチャームポイントを持っている。美貌が武器という本人の主張とは、全く食い違っているのだ。

 外見に目を囚われていては、人の本質を見抜けない。そんな人に、他人を評価する権限を持たせてはいけないのである。

 台座に視線を固定して、結莉の瞳を凝視した。ドライアイとは無縁な潤っている黒い宝石も、また隆仁を見つめ返している。

「……そろそろかな。須藤くん、返事はどう?」

 決断の時は、延期してくれない。言い訳をして明日に提出することも出来ない。

 隆仁が心変わりをすれば、いつでも結莉は自分の懐に入る。少なくとも制限時間まで、密室で秘密談義が行われることとなるだろう。

 ……ここで、佐田さんに手をだす気が起きない……。

 お互いの本心を叫びあって手を繋ぐのなら、いつだって歓迎する。金という悪魔のささやきが聞こえなくなった日には、両手を挙げて祝福するつもりだ。

 今この場所で、結莉と隆仁の関係性の何が変わると言うのだろうか。仮初めのカップルが正式に昇格するわけでも無ければ、謝罪が入った上での本心を伝えてくれるわけでもない。

 ソファに仰向けで寝ているのが結莉で無ければ、また違った結末を辿ったに違いない。

「佐田さん、おふざけはここまでにして、カラオケでも楽しまない?」

 配慮という二文字を敬遠して生きてきた隆仁には、最大限のオブラートに包んだ拒否であった。

 ……いつか訪れる日がくれば、その時には……。

 結莉の行動パターンが変化し、純粋な好意を持って接してくれるようになるその日には、勿体ぶらずに差し出された手を受け取る。サプライズは、それまでお預けである。

 ラブホテルとでも思い違いをしていた客のように、彼女の瞳孔は大きく開かれた。

「……ふーん、そうなんだ。こんないい機会は、二度と無いかもしれないよ?」
「付き合ってるんだったら、またチャンスは来るだろうし。それに、雰囲気に流されたくない」

 彼氏彼女としてデートまがいのことをしているのに、機会が二度無いとはどういうことなのだろう。金目当てを隠す気が失せたのかもしれない。どちらにせよ、あまり関係の無い事である。

 誘惑モードのスイッチが入っていた結莉は、再び防護シェルターを起動させた。厳戒態勢になったことが、肌で実感できる。

「須藤くんが変な人じゃなくて、良かったよ。手荒な真似はしたくなかったから」
「それは俺のセリフだろうよ……。さては、何かを隠してたな?」
「もちろん! 女の子はか弱いんだから、護身用にスタンガンくらい持っておかないと」
「佐田さんは例外だと思うな……」

 乳房のあたりから、するすると小型の電撃器が姿を現した。真っ先に手を伸ばしそうなところに仕込んであるのは、本能の研究をよくしている証である。

 宇宙船が高速で移動していると、船内の経過時間が緩やかになるという法則がある。実体験で証明した人はいないらしいが、正しいとされているのだ。

 隆仁は、まさにタイムスリップしたような倦怠感に苛まれていた。筋力も低下しているかもしれない。高々二、三分の攻防で、多大な精神力が空気に溶けていったようだ。

「……独りずつ歌うんじゃなくて、デュエットにしない?」
「……マイク一本しかないけど?」
「私がハモリするから、須藤くんはメロディーね? 選曲はもちろん、センスのある私」
「そう言ってるけど、その曲歌詞無しだから!」

 まだまだ、二人カラオケは始まったばかりである。
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