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本編
しおりを挟む──どうしてこうなってしまったんだろう。
格子の嵌った窓から見えるグレーの空は暗澹とした私の気持ちをさらに暗くする。じゃらり。窓へ伸ばした手が重苦しい金属音で防がれた。力なく手を落とすと目線までも下がっていく。
鎖の繋がれた先は私の首元にある赤い首輪だ。これが嵌められてからどのくらいが経っただろう。一週間や二週間なんて言葉では足りないくらいで、たぶん季節が一周するほどには一緒に過ごしているはずだった。
時間の感覚はもうあまりなかった。気がついたら朝で、夜だ。
ただ食事に関しては一定間隔で与えられている。私が眠っていたままでいた時、昼ご飯がメニューの違う夜ご飯になっていたことがあった。そのくらいでしか私は時の流れを感じることが出来ない。
監禁された部屋ではやることがないので、私は日がな一日寝てばかりいる。どんどんと体力が失せていくのが手に取るようにわかった。けれどもはや抵抗する気力もなかった。
がちゃがちゃ。音のない部屋に響く。この音を立てるのは一人しかいない。それは私をここに閉じ込めた犯人に他ならない。
「起きてたんだ。おはよう」
爽やかさを装って笑う顔に吐き気がする。お盆を持って入ってきたこの男こそがすべての元凶である。白いシャツがやたらと目に眩しい男は青葉颯(あおばはやて)と名乗った。歳は二十代くらいだろうか、穏やかな口調と整った容姿で、とてもこんなことをするような人間には見えない。
彼の素性などこれっぽっちも知らない。一日三回、私を閉じ込めた部屋に訪れ食事を与え気まぐれ私に触れると去っていく。どこに住んでいるのかどこで何をしているのか、どうして私を監禁しているのか。私の問に望んだような答えは与えられていない。
「また今日も残ってるね」
寝起きで食べていない食事を見て眉を下げる。家族を心配する表情にも見えるそれは、聞き分けのない子を叱るようにも見えた。
「……ごめんなさい」
思っていたより掠れた声が出た。男はそんな私をすかさず心配する。
「大丈夫? 喉が痛い?」
何も言わず首を振る。男とのコミュニケーションは大抵これで済む。楽なものだ。別段体調が悪いということはなかった。健康のレベルが落ちているせいでもあった。だがそんなことを言っても仕方がない。
「なにか喉に優しい飲み物作ってくるね」
男はそう言いおいて部屋を出ていく。がちゃがちゃ。念入りに鍵を掛けられた部屋のドア。そんなにいちいちしなくても私はもう逃げ出す気力もないというのに呆れたため息がでた。男が警戒するのも無理はないのかもしれない。これまで私は何度も逃げ出そうとした。結局逃げられなかったけれど。
この部屋にしまいこまれる前まで私は普通の大学生だった。人と違うことといえば両親がおらず奨学金で通っていたことだろうか。生活費に学費。バカにならないその金額を稼ぐため私は昼も夜もなく働いた。もちろん学校にも死にものぐるいで通った。そのおかげで成績はよく学費の一部も免除された。
肉体を酷使しているのはわかっていたがそれでも充実した毎日だった。努力は報われる。そんな青臭いことを私は信じていた。
ある日の夕暮れのこと。黄色い帽子を被った少年が道端で蹲っていた。
「どうしたの?」
気になって声をかけると少年は急に立ち上がって
「ごめんねお姉さん」
と言って走り出す。
え?と思う間もなくその駆け出したあとに残された土埃を見ていたら、後ろから羽交い締めにされ息が出来なくなった。薬品臭いハンカチで鼻と口を塞がれている。
「ごめんねお姉さん」
後ろにいるであろう男は少年とは違う、低く妙に腰に響く声で同じ言葉を吐いた。あの少年はなんだったのだろう。そしてこの男は一体? 思考が闇に溶けていく。
そうして気がつくと私は格子窓がひとつあるだけの、それ以外は寝具しかないこの部屋に閉じ込められていたのだった。監禁されてすぐの頃は私もまだ体力も気力もありどうしてこうなったか、どうにかして逃げ出せないか何度も考え何度も挑戦した。しかし男はどこかで監視しているようでそれらは尽く失敗に終わるのだった。そうしていつしか私は自由を諦めてしまった。
十分もしないうちに戻ってきた男が「お待たせ」と言って差し出したのは琥珀色の液体だった。
「はちみつレモンジンジャー嫌いじゃないよね」
何故この男は私の好みを知っているのか。答えの出ない疑問は増え続ける。男に答える気がないのだから減ることも無い。甘い蜂蜜の匂いにそそられた私はそれを一口飲む。男は嬉しそうに笑う。
馬鹿馬鹿しいことに男は私の気持ちの変化に敏感だ。少しでも気持ちが浮つくとこうして嬉しそうな顔をする。この男の一挙一動は全て私のためにあるといつも言っている。
「君の全ては僕のものだけど僕の全ても君のためにある」
これが男の口癖だった。心底気持ちが悪い。整った容姿が蕩けるように笑う。
さらに忌々しいことに私はその男の蕩けるような甘さが嫌ではなくなっていた。むしろその感情を向けられるたびに安心してしまう。これは所謂ストックホルム症候群とか言われるやつなのだろうか。
男は暴力で私を支配しようとはしなかった。いつも甘く穏やかに丁寧だった。それは私が逃げ出そうとしたときでさえもだ。
「君はもうここから逃げられない」
────だから諦めてくれ。
諦める?そんな馬鹿な。どうして私が諦めなければいけないのか。私の何が悪かったというのか。
どうして、どうして、どうして。
精神不安定な私はいつも錯乱寸前でそれを知っている男はおもむろにタオルを取り出す。鎖が擦れる嫌な金属音が断続的に鳴る。その音で余計に頭が狂いそうになった。
気がつくと、口に妙な繊維の感触がする。タオルによって猿轡を噛まされたようだった。舌を切らないため。男はにこりと笑う。恐慌状態の私にその笑顔は空恐ろしいものに見えた。苦しんでいる私をこの男はどうやら喜んでいるらしかった。意味がわからない。
「君の感情に影響を与えられるのは今や僕だけなんだね」
男は私の質問には答えない。けれど時々こうした言葉を口にするのだ。
「大丈夫だよ、きっと君もこの生活が楽しくなる」
そんな訳ないだろう。ある日突然誘拐されて監禁されて、男にいいようにされて。楽しいわけがない。自由も尊厳も、あまつさえ純潔も奪っていった男とのこんな生活が、楽しいなんて。
「ここには君を苦しめることは一切ない」
男の言葉はまるで催眠術師のようだった。自分の意志を必ず通すという気概を感じる。正面に向いた男の瞳の奥に炎が見えた。幻想の蝋燭がゆらゆらと揺れる。
その炎は幻覚だと思っていたが現状の方が幻覚みたいで、私はもう自分の見ているものを何も信じられそうになかった。
苦しみから解放された世界、と男は言う。
──私は苦しかったのだろうか? 辛かったのだろうか。誰も助けてなどくれない世界でひとりぼっちでいた私は救われたかったのだろうか。
男がそういうとそれが正しいことのような気がしてくる。なんとも不思議な心地だった。
……たしかに、私は救われたかった。現実は思っていたよりも無情で過酷だった。心のどこかでいつも逃げたいと思っていた。
『どうしてわたしだけがつらいおもいをしなければならないの?』
そんな思いをいつもどこか心の片隅に抱えていた。それは事実だった。
閉鎖された空間で接触する人間はたった一人で、彼は私に全てを与えてくれる。救いも癒しも、愛も。甘い毒が脳を支配していく。なにが正しくて、なにが間違っているのか。だんだんとその境界線がぐにゃぐにゃとしていく。わたしは、わたしを、わたしが……。
「君はもう僕のものだよ。だから君の苦しみも僕のもの。僕が全部貰っていくね」
静かな洞窟でひとしずく落ちた時のような、神秘的な声だった。全て間違っていると私の頭のどこかで誰かが叫んでる。
彼がその音を遮るように白く綺麗な手で私の頬に触れた。あたたかい。両親が死んでから初めて触れる他人のあたたかさ。気持ちがいい。たぷたぷと波に揺られているようだ。
「大丈夫、僕がいるよ」
もう、大丈夫。なんの根拠もない安寧への切符。私はそれを手に入れた。
「新しいご飯持ってこようか」
首を振る。
「食べないの?」
首を振る。
「これでいいの?」
頷く。
「温かい方が美味しいよ?」
捨てる方がもったいない。明らかに手作りに見える料理。始めのころはあまり美味しくなかったが今はかなり美味しいのだ。
「冷たくてもいい」
「……そう?」
クスリと笑う、嬉しそうに。
彼はまるで雛鳥に与えるように食事を口元まで持ってくる。このやり取りももう慣れたものだ。最初は羞恥で拒否していたがもう今はどうということも無い。むしろ私に合わせたちょうど良いタイミングの給餌は楽だ。どんどん人としてダメになっていくのがわかる。しかしそれを恐怖する感覚もいつしか失せた。
「ねえ」
「どうかした? もうお腹いっぱい?」
私から話しかけると彼は揺れる波間のような顔をする。嬉しいけれど怖い。彼は何かに怯えている。私からの拒絶? 今更だろう。
「ずっと、このままなの?」
彼の顔が固まる。なるほど、彼はこれを恐れていたのか。時間の止まった空間で、時を進めるような言葉を。
永遠なんてないのだ。もし私が重大な病にかかったら? 彼がもしこのまま死んでしまったら? 明日深刻な災害が起きたら? このままではいられない。きっと彼もそれはわかっていたはずだ。だから見ないふりをした。見なければないのと同じだと現実を否定した。でもいつまでもこのままなんて。
そんな現実がやってこないことを私は知っていた。いくら脳が溶けそうになるほど同じ空気ばかり吸っていても。正気を失ったとした思えない感情を抱えていても。私に深くこびり付いたその根は誰にも絶やせない。死。人は必ず死ぬ。変わらないものなんてないと戒めるように人は死ぬのだから。
「ずっと、このままだよ」
初めて聞く弱々しい声だった。
「……ばかなひと」
このままなんてあるわけない。
「そんなこと言って僕を動揺させて逃げ出すつもりかい?」
否定しても伝わりはしないだろう。私はじっと彼を見つめる。目は時に雄弁に語るという。この心が少しは伝わるだろうか。
間違いなくこの行為は犯罪だ。いくら私に身内がなく誰も気にかけないような人間だったとしても。どこか何かのきっかけで警察が動くかもしれない。そうでなくても危うい関係だけにいつ破綻してもおかしくない。たとえば、私の頭が完全に壊れてしまったとしたら。まあ彼はきっとそれを喜ぶのだろうけど。
「あなたは、欲張りでしょ?」
そうして彼は二度と手に入れらなくなった心を嘆くだろう。私の全てが欲しいとここに詰め込んだのだから。
「このままじゃ良くて二人で共倒れだよ」
彼は儚く笑った。
「それでもいいよ」
死を恐れないのは愚か者だけだ。
「ばかなひと」
私はもう一度、繰り返した。ばかなひと。
「……それよりご飯は? まだ残ってるよ」
話を逸らすように殊更明るく言う。私は結局黙ったまま口を開いた。甘く作られた卵焼きはどこか昔を思い起こさせる。
「美味しい?」
頷く。
「君はこれが好きだね」
彼は嬉しそうだがどこか寂しそうでもある。この人は思い込んでいる。私の気持ちが変わらないものだと。もういまさら私に行くところなどないというのに。そういうふうにしたのは己なのに。そうした結果、私がどうなるかなんて知らないのだ。
初めから間違っていたのだと思う。
目の前にいる男は見た目もよくたぶん人一人監禁できるほどの資産を持っている。身なりも綺麗に整えられているし、何もかもが不足した生活とは縁遠い人生を送ってきたのだろう。
仕草も品があってきちんと躾のなされた生まれの良さを感じる。姿勢もよく汚い言葉遣いもしない。暴力の匂いもない。
おそらく「恵まれた環境」で育った「過不足のない人間」だったはずだ。加えて容姿が良いときたら引く手数多だったはずなのだ。
こんなことになってなけば、きっと私も普通にすれ違っただけで振り向いて二度見する。けれど、彼は致命的な欠陥があったらしい。こんな私を監禁するただその一点にて。
……ときどき。想像してみることがある。この青葉颯という人間と普通に出会っていたら、と。
例えば、私の務めていた居酒屋で彼がお客さんとして来て何度か顔を合わせるうちに連絡先を交換することになってそのうちデートでもするようになって……。
そんな普通の出会いもあったはずだ。彼が選ばなかっただけで。
そう。彼は選ばなかった。そうして普通にありえた未来を否定した。未来を否定してなりふり構わない現実を選んだ。可能性を否定して、目の前の実益だけを選んだ。私を手に入れるというそれだけを。
「あいしてるよ」
眠る私に密かに告げられる言葉。夢みたいに甘く、苦しいほどに切ない声で嘯く。
彼が選ばなかった未来はもう二度と訪れない。
──どうして、私たちはこんなふうに出会わなければいけなかったのか。
空は相変わらず薄曇りのグレー色をしていた。
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