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77話
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診てもらっているとベッドの上にちょっとよく分からない小動物が飛び込んできた。
犬、が一番正しいような気がする。ただウィルフレッドに記憶というものがないので「今まで見たことがない」とも言えないのだが、一般常識として把握している犬という生物にしてはとてもいかつい顔をしている。
ポカンとそれを見ていると『まさか記憶を失われるなどと』という声がどこからともなく聞こえてきた。
「え?」
目の前のクライドでないことだけは分かるので、ウィルフレッドはおずおずとレッドを見る。だがレッドは先ほどから少し離れたところで、例えるなら楽しみにしていたがっつりした肉料理が何故かミルク粥になっていたといった顔で放心しているように見え、今も何か話しかけてきたとは思えない。
ウィルフレッドがきょろきょろと辺りを見渡すと「私です」と不思議な小動物が前足を軽くぽんとウィルフレッドの手に乗せてきた。
「……、……ひ? 動物が喋……」
飛び上がらんばかりにして叫びかけたウィルフレッドの口をクライドがやんわりと押さえてくる。怪訝に思いクライドを見ると「これはそういう生き物だ」と耳元近くで囁かれた。おそらく騒ぐなという意味も込めてだろうとウィルフレッドはコクコクと頷く。するとクライドも手を離してきた。
どこか懐かしい上に落ち着くクライドが問題ないと見なしているのなら、実際問題ないのだろう。動物が話すはずもなく、落ち着いたところでおそらく魔物だろうとは思ったが、知性も感じられるためウィルフレッドは怯えるのを止め大人しくフェルという名前らしい生き物に目を向ける。
『人間の医師は何と?』
『逆行性健忘症だそうだ』
フェルとクライドが当たり前のように不思議な方法で会話し出した。ウィルフレッドの頭の中に聞こえてくるそれは、だがレッドには聞こえないようで、というか何故かレッドは肉料理からのミルク粥が実は発酵したニシンの塩漬けだったと気づいたかのような様子でますます放心しているようだ。今も少し離れたところで黙ってどこかを見ながら佇んでいる。ちなみに一般常識として知っているだけでウィルフレッドには発酵したニシンの塩漬けがどれほど強烈な匂いかは記憶がないだけに知らない。
『解離性健忘ということもあるのではないか』
『こいつがか』
クライドが鼻で笑う。
解離性健忘とは大きなショックやストレスを受け、それらから精神を守るために無意識に働く防御規制だと言われている。記憶や自我、人格や意識などが混乱し記憶が解離するのだ。記憶を失う範囲も甚だしく広範囲らしい。記憶もないはずのウィルフレッドだが、そういった知識もどうやら一般常識内として把握はしているようだ。もしかしたら勉強が好きだったのかもしれない。
幼児期の身体的、性的虐待や暴力的な人間関係、信頼している必要としていた相手からの裏切りなどで重篤な心的外傷を負ったり、精神的葛藤や情動的なストレスを抱えていると発症することがあるもので、確かに記憶がないからというのもあるが自分がそんなものを抱えていたとは思えないウィルフレッドも首を傾げた。
『お前という存在に正体がバレたせいかもしれんだろう』
『こいつがそういう玉か』
『まあ、確かに』
「正体って何だ?」
思わず口を挟むとクライドにため息を吐かれた。放心気味だったレッドはいきなりウィルフレッドが一人で話し出したとしか思えないからか、怪訝そうに見てきた。
「い、いや何でもない」
慌ててそうは言ったものの「正体」とやらが気になる。
もしかしたらやはり、自分は王子などではないのじゃないかとそしてハッとなった。そのほうが妥当だと思える。瞳や髪の色がなければいっそチェンジリングか何かで王子になったのではないかとさえ思える。逆に言うと、瞳と髪の色は明らかにこの国の王族だと示しているためハッとなったもののその考えは引っ込めた。
「とりあえず、様子を見るくらいしか出来ないのもなんだ。薬物療法でも試してみるか」
クライドの言葉にウィルフレッドは何故か体が震えた。我ながら記憶がないというのに「薬」に反応している気がする。
「というかそれは実験とも言うのでは」
おずおずと言えば「やってみなければ分からないであろう」と鼻で笑われた。レッドと違いドキドキはしないからというのもあるが、何故この相手に落ち着いた気持ちになるのか謎で仕方がない。だが今も尚、一番よく知っている人だったのではと思え落ち着くのはやはりクライドだ。
「な、何を飲ませる気で?」
何とか聞けば「そうだな、ベラドンナやエンジェルストランペットを煎じたものか」と言われた。
「ど、ど、毒じゃないか……!」
「何を言う。スコポラミンやヒヨスチアミンなどのトロパンアルカロイドが豊富で精神活性媚薬や麻酔にもなる医療的な利用価値ある植物だ」
「の、飲まないからな!」
「ショックで治るかもしれんぞ」
「ショックって何だ……! やはり毒じゃないか……!」
その後クライドが部屋を出ていくとレッドが近づいてきた。
「一旦休まれますか」
「い、いえ。お医者さんにも普通に過ごすよう言われましたし、ちょっと散歩でも……」
「……王子。また敬語になってます」
「あ、そ、そうだ、な。す、すまない」
だって緊張するんだよ、と内心答えているとため息を吐かれた。呆れられたのだろうかと違う意味でドキドキしているとぼそりとレッドが「クライド殿には比較的いつもの王子らしい対応をされてました」などと言ってきた。
「え、俺いつもあんな感じだったってこと?」
「いえ、いつもはもっと偉そうですが」
いつもの俺──ぇ!
恥ずかしさと情けなさといった居たたまれない気持ちに思わず顔を手で覆っていると「俺にもいつもの王子に早くなっていただきたい」と静かな声で言われた。思わずハッと手を下ろして勢いよくレッドを見るが、無表情なままだった。多分ちっとも悪くないのにまだ自己嫌悪か何かを抱えているためにそう言ったのだろうとウィルフレッドは勝手に納得した。
犬、が一番正しいような気がする。ただウィルフレッドに記憶というものがないので「今まで見たことがない」とも言えないのだが、一般常識として把握している犬という生物にしてはとてもいかつい顔をしている。
ポカンとそれを見ていると『まさか記憶を失われるなどと』という声がどこからともなく聞こえてきた。
「え?」
目の前のクライドでないことだけは分かるので、ウィルフレッドはおずおずとレッドを見る。だがレッドは先ほどから少し離れたところで、例えるなら楽しみにしていたがっつりした肉料理が何故かミルク粥になっていたといった顔で放心しているように見え、今も何か話しかけてきたとは思えない。
ウィルフレッドがきょろきょろと辺りを見渡すと「私です」と不思議な小動物が前足を軽くぽんとウィルフレッドの手に乗せてきた。
「……、……ひ? 動物が喋……」
飛び上がらんばかりにして叫びかけたウィルフレッドの口をクライドがやんわりと押さえてくる。怪訝に思いクライドを見ると「これはそういう生き物だ」と耳元近くで囁かれた。おそらく騒ぐなという意味も込めてだろうとウィルフレッドはコクコクと頷く。するとクライドも手を離してきた。
どこか懐かしい上に落ち着くクライドが問題ないと見なしているのなら、実際問題ないのだろう。動物が話すはずもなく、落ち着いたところでおそらく魔物だろうとは思ったが、知性も感じられるためウィルフレッドは怯えるのを止め大人しくフェルという名前らしい生き物に目を向ける。
『人間の医師は何と?』
『逆行性健忘症だそうだ』
フェルとクライドが当たり前のように不思議な方法で会話し出した。ウィルフレッドの頭の中に聞こえてくるそれは、だがレッドには聞こえないようで、というか何故かレッドは肉料理からのミルク粥が実は発酵したニシンの塩漬けだったと気づいたかのような様子でますます放心しているようだ。今も少し離れたところで黙ってどこかを見ながら佇んでいる。ちなみに一般常識として知っているだけでウィルフレッドには発酵したニシンの塩漬けがどれほど強烈な匂いかは記憶がないだけに知らない。
『解離性健忘ということもあるのではないか』
『こいつがか』
クライドが鼻で笑う。
解離性健忘とは大きなショックやストレスを受け、それらから精神を守るために無意識に働く防御規制だと言われている。記憶や自我、人格や意識などが混乱し記憶が解離するのだ。記憶を失う範囲も甚だしく広範囲らしい。記憶もないはずのウィルフレッドだが、そういった知識もどうやら一般常識内として把握はしているようだ。もしかしたら勉強が好きだったのかもしれない。
幼児期の身体的、性的虐待や暴力的な人間関係、信頼している必要としていた相手からの裏切りなどで重篤な心的外傷を負ったり、精神的葛藤や情動的なストレスを抱えていると発症することがあるもので、確かに記憶がないからというのもあるが自分がそんなものを抱えていたとは思えないウィルフレッドも首を傾げた。
『お前という存在に正体がバレたせいかもしれんだろう』
『こいつがそういう玉か』
『まあ、確かに』
「正体って何だ?」
思わず口を挟むとクライドにため息を吐かれた。放心気味だったレッドはいきなりウィルフレッドが一人で話し出したとしか思えないからか、怪訝そうに見てきた。
「い、いや何でもない」
慌ててそうは言ったものの「正体」とやらが気になる。
もしかしたらやはり、自分は王子などではないのじゃないかとそしてハッとなった。そのほうが妥当だと思える。瞳や髪の色がなければいっそチェンジリングか何かで王子になったのではないかとさえ思える。逆に言うと、瞳と髪の色は明らかにこの国の王族だと示しているためハッとなったもののその考えは引っ込めた。
「とりあえず、様子を見るくらいしか出来ないのもなんだ。薬物療法でも試してみるか」
クライドの言葉にウィルフレッドは何故か体が震えた。我ながら記憶がないというのに「薬」に反応している気がする。
「というかそれは実験とも言うのでは」
おずおずと言えば「やってみなければ分からないであろう」と鼻で笑われた。レッドと違いドキドキはしないからというのもあるが、何故この相手に落ち着いた気持ちになるのか謎で仕方がない。だが今も尚、一番よく知っている人だったのではと思え落ち着くのはやはりクライドだ。
「な、何を飲ませる気で?」
何とか聞けば「そうだな、ベラドンナやエンジェルストランペットを煎じたものか」と言われた。
「ど、ど、毒じゃないか……!」
「何を言う。スコポラミンやヒヨスチアミンなどのトロパンアルカロイドが豊富で精神活性媚薬や麻酔にもなる医療的な利用価値ある植物だ」
「の、飲まないからな!」
「ショックで治るかもしれんぞ」
「ショックって何だ……! やはり毒じゃないか……!」
その後クライドが部屋を出ていくとレッドが近づいてきた。
「一旦休まれますか」
「い、いえ。お医者さんにも普通に過ごすよう言われましたし、ちょっと散歩でも……」
「……王子。また敬語になってます」
「あ、そ、そうだ、な。す、すまない」
だって緊張するんだよ、と内心答えているとため息を吐かれた。呆れられたのだろうかと違う意味でドキドキしているとぼそりとレッドが「クライド殿には比較的いつもの王子らしい対応をされてました」などと言ってきた。
「え、俺いつもあんな感じだったってこと?」
「いえ、いつもはもっと偉そうですが」
いつもの俺──ぇ!
恥ずかしさと情けなさといった居たたまれない気持ちに思わず顔を手で覆っていると「俺にもいつもの王子に早くなっていただきたい」と静かな声で言われた。思わずハッと手を下ろして勢いよくレッドを見るが、無表情なままだった。多分ちっとも悪くないのにまだ自己嫌悪か何かを抱えているためにそう言ったのだろうとウィルフレッドは勝手に納得した。
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