満月の夜

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61話

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 結局あの後も特になにも進んでいない。
 契約面に関してもだが、そういった行為に関してもだ。
 海翔としては月時と一緒に居るだけで結構満足なのでそれはそれで問題なかった。ただ月時は数日経っても不満というか欲求不満というか、そわそわしているのがとてもよく分かって、海翔としてはなんとも微妙だ。先ほども昌希に「お前、最近挙動不審」とか言われていて、月時は「そ、そんなことないよ!」と顔を赤らめていた。
 全く、と思いながらも正直月時に言ったようにそういった関係になることに抵抗はない。もちろん男同士としてだけでなく性行為自体がそもそも未知の世界ではあるので、好きだという気持ち以外にも好奇心だけでなく不安や戸惑いもあるにはある。ついでに欲張ると、女ともしてみたかったという純粋にして馬鹿な欲望もある。しょせん童貞なのだから仕方がない。
 とはいえ今の海翔の脳内は性少年でありながらもそういった行為で一杯という訳にもいかなかった。
 契約か……と心の中で呟いてみる。
 今は授業が始まっていて皆一見真剣に前を見るか教科書などを見ている。あくまでも一見ではあるが。そんな中、ぼんやりと違うことを考えている海翔も一見授業をちゃんと聞いているように見えると思われた。
 気がそれるのは、午後の授業だけに眠気や気だるさが教室内を漂っている感じがあるので余計かもしれない。
 契約に関して月時に話を聞いたのはそれについて本当に知りたかったからだし、聞いた後も契約をしたくないという気持ちにはならなかった。
 ただ、どうしても家族の顔が浮かぶ。こればかりはどうしようもないのだろうなと思う。
 とりあえず仮契約というものがあると聞けたのは良かったなと、一応授業を受けている手前教科書を弄りながら考える。
 自分の中で契約する気はあるが、それでもやはり今すぐ人間を止め、家族や友達から記憶が全く残らなくなってしまうのはかなり覚悟がいる。仮契約だと、月時にとっても今のように大事であろう家族に隠れずに堂々と出来るだろうし海翔もいきなり思い切ることもなく本契約まで今の生活のままゆっくり覚悟が出来る。
 だというのに話を聞いた時に「すぐ仮契約をしよう」とは言えなかった。恐らく月時から持ち掛けてくることはないだろう。そもそも契約の話すら、海翔が問い詰めないと話したがらなかった。
 月時のことが好きなのは間違いない。ちゃんと、という言い方もおかしいが、ちゃんと好きだ。月時とのことを考えれば契約を結ぶという行為に疑問もないし、自分はどのみちするだろうとも思っている。
 なのにすぐに「しよう」と言えなかった。違う意味ではあるが月時に「ヘタレ」と言う資格、ないなと内心ため息を吐く。こういうのはなんらかのきっかけが必要なのだろうか。

 もしくは勢い?

 そう思ったところで勢いなら月時から話を聞いた時が一番勢いとしてはあったのではないかと思う。

 ……トキもいっそ「だから契約をして欲しい」とか言ってくれたらなぁ。

 絶対に月時なら思う筈のないことをそして海翔はぼんやりと考えてしまう。月時の明るいながらもとても優しい部分がまた好きなのだというのに、そんな月時の優しさをまるで否定するかのような期待を持つなど、勝手すぎるとそして思う。向こうからすればそれこそ絶対に言えないだろう。
 「契約をしてくれ」というのは海翔に対して「人間を止めてくれ」と言うようなものだ。あの月時がそんなこと、言う筈がない。

「長月、さっきから教科書持ちながら先生を睨むの、やめてくれないか……」

 考え事に集中していたせいで、別にそんなつもりはないのに先生を睨みつけていたらしい。名指しでわざとらしくではあるが悲しげに言われ、海翔はハッとなった。

「え? あ、す、すいません」

 周りで数名が少しおかしそうに笑っている。月時も海翔のほうを見てきた。まるで飼い犬が「どうしたのどうしたの?」と好奇心いっぱいにじっと見つめてくるような様子にはむしろこちらが少し笑いそうになり、反省している振りで少し顔を俯けた。

「ひろ、さっきはセンセーになんか文句でもあったの?」

 授業が終わると月時が早速近づいてきて聞いてくる。

「違う……たまたまだ」
「たまたまセンセーを睨む状況ってのが俺、よく分からないよ? あ、今日はひろ、部活どーすんの?」
「今日はある意味部活内の女子会的な日だった筈だからやめとく」

 美術部は部員の活動がかなり自由な為、普段出てくる部員の数もまばらだったりで定まらないのだが、たまに女子たちで集まろうとでも決めているのかやたら揃う日がある。一応海翔もいつがその日だと悠音にだいたいは聞いて把握しているので無難に避けるようにしている。
 前に間違って出てしまった時は正直苦痛でさえあった。基本的には海翔をそっとしてくれるのだが集団女子の怖さは如何ともし難く。

「そーなの? あーなんで俺は部活あるの……」
「まあそういう日くらい今までもよくあったろ。陸上、がんばれ」

 分かりやすい程がっかりしている月時に苦笑しつつ、海翔は遠慮なく帰る。月時が部活を終えるまで待っているということはしたことがないし、今後もしない。
 好きとそれはまた別だ。ましてや今はあからさまに「一緒に帰りたい、トキの家に行きたい」といった気持ちを溢れさせている月時だけに尚更だった。そういった月時の態度も気持ちも正直なところは嬉しく思う。だが海翔としては照れてしまうし落ち着かない。
 一人、校門を出たところでだが「ひろ!」と声を掛けられた。

「ユウキ。どうしたんだ?」

 ニコニコと近づいてくるのは月凪だった。月凪に助けられたと思っていた保健室での日以来は月時を介してしかあまり話したことはなかった。学校では基本的にいつも友だちもしくは彼女だろうか、そういった誰かと居るところは見かけていた。

「ん? 向こうからひろが見えたからね、声かけた。トキは一緒じゃないの?」
「ああ。トキは部活。俺は今日しないからそのまま帰る」
「付き合ってても待たないとこがひろらしいね。用事がある訳じゃないの?」
「うん」

 親しげに話しかけてくるので、海翔はこのまま歩いていいものか躊躇していた。もし月凪も帰るのだとしたら、海翔と月凪や月時の家は方向が正反対だ。
日が暮れるのがずいぶんと早くなった今、時間はまだ遅くないが夕焼けになり始めている。

「だったらウチにおいでよ。トキも部活終わったら帰ってくる訳だし」
「え、いや……」

 なんで、と言いそうになって海翔は口を噤んだ。親切で言ってくれているであろうことに「なんで」は無いなと思い、とりあえず断ろうと思ったがそれもやめて「分かった」と頷く。
 実際用事はなにも無かった。とはいえ今まで月凪と二人で歩くといったことをしたことが無いので少々落ち着かない。月凪自身はとてもいいやつだと分かってはいるのだが、元々普段だとあまり仲良くなることがないタイプのような気がする。嫌いという訳ではないが、基本的に軽い感じの相手と接することがあまり無い……と思ったところで自分の兄が大概軽いタイプだったと思い出す。

「どうしたの、ひろ? なんか複雑そうな顔して」
「ああ、いや。気にしないでくれ」
「了解。でも気になっちゃうけどね」

 ふふ、と笑いながらさり気に言うことが海翔的に軽い。ああ、兄さんタイプだったのか、となんとなく遠い目で思っていると、空気が乾燥しているのか空の赤がものすごく広がっているのに気付いた。目を奪われる程の夕焼け空は綺麗だと思う反面、どこか悲しくもゾクリとした心許無さを感じさせてくる。その上月凪たちの家が近づくと、その向こうに見える山が尚更海翔を落ち着かない風景に見せてきた。

「……ひろはあの山、嫌い?」

 突然月凪に聞かれ、海翔は「え、なんで……」と驚いたように月凪を見た。だが月凪は一瞬海翔をじっと見たかと思うとニッコリ笑って「なんとなく?」と軽い様子で首を傾げてくるだけだった。

「部屋、俺の部屋来る? それともトキの部屋のが落ち着く?」

 家に入ると月侑太も居ないようで珍しくシンとしている。静かだとやはりこの家は凄く広いんだなとなんとなく海翔が思っていると月凪がニコニコと聞いてきた。

「え? ああ、別にどっちでもいいけど」
「じゃあ俺の部屋においで」

 月凪の口元が綺麗な弧を描いてきた。
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