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四話
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蝉の鳴く声が、不快感を煽るように耳を刺した。
たまの休日だというのに、友広は朝から、私に暗い言葉を放つ。
外の夏の景色とは違い、部屋の空気は淀んでいた。
仕方がないのだ。あの奇妙な日々から一月が経ち。美奈子はさらに不満や苦悩を募らせていたのだから。
相変わらず夫の友広は仕事一筋の頑固な男で、家のことはおろか、まるで私のことなど考えていなかったのだ。
「ねえ、たまには出掛けない?」
美奈子には、それでも夫を支えて、夫婦という意味を考え直したい気持ちはあった。
もちろん、滑稽だと言われても反論の余地はない。何故なら、体の疼きを我慢出来ずに老人に身を委ねたのは、何を隠そう美奈子本人なのだから。
「疲れてるんだ。話しかけないでくれ」
背を向けながらの言葉は、遠くから聞こえてくるようだ。
とても冷たく、いつかの愛は完全に彼方へと消え去っているように。
彼方......もう手が届かない、望んでも戻ることはない、そんな思いが大きくなったことの証拠だと思った。
「じゃあ、少し出てくるから......」
返ってこない返事を待つ、たった数秒の時が延々と感じられた。
美奈子は白い半袖のシャツに、青いパンツのラフな姿だ。
最近は気分が落ち込むと、最寄り駅の近くに大きなデパートがあるのだが。そこに行き服を見たり、ショーウィンドウのアクセサリーを見たり、興味もない映画を見たり、平日のお昼には、ただボーッとランチを食べることもある。
その何気ないちょっとしたお出掛けが私の心を潤してくれる唯一のオアシスなのだ。
しかし、危うくもある。だからこそたまの休日。そう、美奈子にとっては休日こそがたまにであってほしいと願う。
デパートに着くと、さっそく映画館へと歩みを進めた。
「美奈子さん!」
突然、フロアの奥から大きな声が聞こえた。
大きな体を揺らしながら駆け寄ってきた男性は、パート先の上司の谷口さんだった。
「奇遇ですね、こんな所で会うなんて」
「はい。いや僕もまさかお会いするとは......お一人、ですか?」
谷口さんは肩で息をしながら、少し躊躇するように言った。
「そうです。ちょっと気分転換に映画でもと思いまして」
すると目を見開き、嬉しかったのだろう。
「え!そうなんですか!実は僕も映画を観に来たんですよ!」
大きな体に大きな笑い声だった。そして屈託ない笑顔。中年の男性だが、初めて会った時から、この人には天真爛漫という言葉が似合うと思っていた。
美奈子は思いきって。
「お邪魔じゃなかったら、一緒にどうですか?」
普段の美奈子なら、そんなことは言わなかったろうに。でも谷口さんの顔を見たら、どこか楽しくなっていたのは事実だった。
「お邪魔だなんてそんな。もちろん、是非ご一緒に行きましょう!」
一回りも年齢が離れた谷口さんは、友広とはある意味正反対に感じるのだった。
谷口さんは、世間体などというシコった考えに縛られていないのか、常に感謝を忘れず、そして無邪気で子供心を隠さない。
この人と接している時は、昔の学生の時のように初々しい気持ちになれる、心地よかったのだ。
映画の内容は、大学に通う学生が年の離れた清掃員の男に惹かれていく、青春ラブストーリーだった。
主人公は大人しい性格で、なかなかクラスメイトとも馴染めずに、誰もいなくなった教室の片隅で外を眺めているような女の子だった。
ある日、夕陽が眩しく女の子を照らしていると、突然清掃員の男性が入って来て「そこの君!暇だろ?ちょっと手伝ってくれ!」
強引で空気が読めない年寄り。美奈子がその清掃員に抱いた印象だった。
結局はその強引さが主人公の意識を変えていくという、シチュエーションはさておき、よくありそうな内容だった。
谷口さんはその映画を食い入るように見つめ、終始目を離すことはなかった。本当に子供のように夢中になっていたのだ。
ただ、もしかしたら、谷口さんは独身だからだろうか、この映画のように年齢を気にすることなく、素直に真っ直ぐ惹かれていく恋に憧れているのかもしれない。
あの老人に......。
体に触れる細い指先、体温、唇の感触。
まだ、残っている。
映画が終わり、美奈子は谷口さんに視線を向けると、谷口さんもその視線に重ねてくれた。
たった二時間程の時間だったが、谷口さんの放つ、包み込んでくれるような空気感は、たまらなく落ち着くし、癒される。
「終わりましたよ美奈子さん」
谷口さんは立ち上がろうとしない美奈子に、軽くて穏やかな口調で言った。
「ごめんなさい。あの......よかったらもう一度観ませんか?」
美奈子の突然の誘いに、谷口さんは戸惑った。
でも、谷口さんは可愛いらしい笑顔を見せると、すぐに言葉を返した。
「もしかして、ハマっちゃいました?実は僕もなんですよ。ははは!」
館内に響く、爽快な声だった。清々しくも感じられた。
その後、谷口さんは二つ返事で美奈子の誘いを受けてくれた。
本音を言うと、もちろん映画も素敵なのだが、谷口さんとの時間が好きになっていたのだ。
つかの間の空間が鮮やかに色付いていく。心の暗闇、モヤモヤとした所が赤く、情熱的にほの赤く滲む。
一度付いてしまった色は消えない。でも、そこに新しい色を垂らせば、また違う輝きを放ってくれるのだろうか。
美奈子は強引に心の色を変えてみたいと思えるほどに、この瞬間が愛おしくなっているのだ。
時間を忘れるというのはこういうことなのだろう。
いつの間にかお昼過ぎになっていて、私はふと思い出したように友広が頭に浮かぶ。
おそらく、今私が帰って来るのをお腹を空かせて待っているだろうと思い、名残惜しいがデパートを出て、谷口さんの大きな背中を見送ると、重い足どりでまた現実へと戻って行く。
ついでに晩御飯の材料も買ってしまおうとスーパーに寄った。
この頃はさらに暑くなっていた。夏真っ盛りとはいかないものの、湿気がある纏わり付く暑さ。
こんな日は、喉の通りがよくて、さっぱりしている物、悩んだすえにお蕎麦に決めた。
さらに夏バテに効きそうなトッピングを選び、スーパーを出た。
大きな袋を一つ持ちながら、マンションの階段を上がる。
三階から四階の階段に差し掛かった時、第六感というのか、ある種の予感が体を巡った。
うつ向きながら歩いていた体が弾むように、背筋が起き上がるくらいにピンと伸びた。
もしかして......鼓動が早くなるのがわかった。
そして踊り場には、猫背の背中をより丸め、杖を付いた老人が立っていたのだ。
美奈子は自分の胸に手を置いた時、老人は情事の始まりを知らせるかのように、階段の先を指差した。
たまの休日だというのに、友広は朝から、私に暗い言葉を放つ。
外の夏の景色とは違い、部屋の空気は淀んでいた。
仕方がないのだ。あの奇妙な日々から一月が経ち。美奈子はさらに不満や苦悩を募らせていたのだから。
相変わらず夫の友広は仕事一筋の頑固な男で、家のことはおろか、まるで私のことなど考えていなかったのだ。
「ねえ、たまには出掛けない?」
美奈子には、それでも夫を支えて、夫婦という意味を考え直したい気持ちはあった。
もちろん、滑稽だと言われても反論の余地はない。何故なら、体の疼きを我慢出来ずに老人に身を委ねたのは、何を隠そう美奈子本人なのだから。
「疲れてるんだ。話しかけないでくれ」
背を向けながらの言葉は、遠くから聞こえてくるようだ。
とても冷たく、いつかの愛は完全に彼方へと消え去っているように。
彼方......もう手が届かない、望んでも戻ることはない、そんな思いが大きくなったことの証拠だと思った。
「じゃあ、少し出てくるから......」
返ってこない返事を待つ、たった数秒の時が延々と感じられた。
美奈子は白い半袖のシャツに、青いパンツのラフな姿だ。
最近は気分が落ち込むと、最寄り駅の近くに大きなデパートがあるのだが。そこに行き服を見たり、ショーウィンドウのアクセサリーを見たり、興味もない映画を見たり、平日のお昼には、ただボーッとランチを食べることもある。
その何気ないちょっとしたお出掛けが私の心を潤してくれる唯一のオアシスなのだ。
しかし、危うくもある。だからこそたまの休日。そう、美奈子にとっては休日こそがたまにであってほしいと願う。
デパートに着くと、さっそく映画館へと歩みを進めた。
「美奈子さん!」
突然、フロアの奥から大きな声が聞こえた。
大きな体を揺らしながら駆け寄ってきた男性は、パート先の上司の谷口さんだった。
「奇遇ですね、こんな所で会うなんて」
「はい。いや僕もまさかお会いするとは......お一人、ですか?」
谷口さんは肩で息をしながら、少し躊躇するように言った。
「そうです。ちょっと気分転換に映画でもと思いまして」
すると目を見開き、嬉しかったのだろう。
「え!そうなんですか!実は僕も映画を観に来たんですよ!」
大きな体に大きな笑い声だった。そして屈託ない笑顔。中年の男性だが、初めて会った時から、この人には天真爛漫という言葉が似合うと思っていた。
美奈子は思いきって。
「お邪魔じゃなかったら、一緒にどうですか?」
普段の美奈子なら、そんなことは言わなかったろうに。でも谷口さんの顔を見たら、どこか楽しくなっていたのは事実だった。
「お邪魔だなんてそんな。もちろん、是非ご一緒に行きましょう!」
一回りも年齢が離れた谷口さんは、友広とはある意味正反対に感じるのだった。
谷口さんは、世間体などというシコった考えに縛られていないのか、常に感謝を忘れず、そして無邪気で子供心を隠さない。
この人と接している時は、昔の学生の時のように初々しい気持ちになれる、心地よかったのだ。
映画の内容は、大学に通う学生が年の離れた清掃員の男に惹かれていく、青春ラブストーリーだった。
主人公は大人しい性格で、なかなかクラスメイトとも馴染めずに、誰もいなくなった教室の片隅で外を眺めているような女の子だった。
ある日、夕陽が眩しく女の子を照らしていると、突然清掃員の男性が入って来て「そこの君!暇だろ?ちょっと手伝ってくれ!」
強引で空気が読めない年寄り。美奈子がその清掃員に抱いた印象だった。
結局はその強引さが主人公の意識を変えていくという、シチュエーションはさておき、よくありそうな内容だった。
谷口さんはその映画を食い入るように見つめ、終始目を離すことはなかった。本当に子供のように夢中になっていたのだ。
ただ、もしかしたら、谷口さんは独身だからだろうか、この映画のように年齢を気にすることなく、素直に真っ直ぐ惹かれていく恋に憧れているのかもしれない。
あの老人に......。
体に触れる細い指先、体温、唇の感触。
まだ、残っている。
映画が終わり、美奈子は谷口さんに視線を向けると、谷口さんもその視線に重ねてくれた。
たった二時間程の時間だったが、谷口さんの放つ、包み込んでくれるような空気感は、たまらなく落ち着くし、癒される。
「終わりましたよ美奈子さん」
谷口さんは立ち上がろうとしない美奈子に、軽くて穏やかな口調で言った。
「ごめんなさい。あの......よかったらもう一度観ませんか?」
美奈子の突然の誘いに、谷口さんは戸惑った。
でも、谷口さんは可愛いらしい笑顔を見せると、すぐに言葉を返した。
「もしかして、ハマっちゃいました?実は僕もなんですよ。ははは!」
館内に響く、爽快な声だった。清々しくも感じられた。
その後、谷口さんは二つ返事で美奈子の誘いを受けてくれた。
本音を言うと、もちろん映画も素敵なのだが、谷口さんとの時間が好きになっていたのだ。
つかの間の空間が鮮やかに色付いていく。心の暗闇、モヤモヤとした所が赤く、情熱的にほの赤く滲む。
一度付いてしまった色は消えない。でも、そこに新しい色を垂らせば、また違う輝きを放ってくれるのだろうか。
美奈子は強引に心の色を変えてみたいと思えるほどに、この瞬間が愛おしくなっているのだ。
時間を忘れるというのはこういうことなのだろう。
いつの間にかお昼過ぎになっていて、私はふと思い出したように友広が頭に浮かぶ。
おそらく、今私が帰って来るのをお腹を空かせて待っているだろうと思い、名残惜しいがデパートを出て、谷口さんの大きな背中を見送ると、重い足どりでまた現実へと戻って行く。
ついでに晩御飯の材料も買ってしまおうとスーパーに寄った。
この頃はさらに暑くなっていた。夏真っ盛りとはいかないものの、湿気がある纏わり付く暑さ。
こんな日は、喉の通りがよくて、さっぱりしている物、悩んだすえにお蕎麦に決めた。
さらに夏バテに効きそうなトッピングを選び、スーパーを出た。
大きな袋を一つ持ちながら、マンションの階段を上がる。
三階から四階の階段に差し掛かった時、第六感というのか、ある種の予感が体を巡った。
うつ向きながら歩いていた体が弾むように、背筋が起き上がるくらいにピンと伸びた。
もしかして......鼓動が早くなるのがわかった。
そして踊り場には、猫背の背中をより丸め、杖を付いた老人が立っていたのだ。
美奈子は自分の胸に手を置いた時、老人は情事の始まりを知らせるかのように、階段の先を指差した。
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