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5.サクラサク(尚)前編
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キーボードを打つ手を止め、両腕を頭上へと上げる。前かがみだった背筋を伸ばすついでに、周囲を見回した。フロアでパソコンに向かうメンバーは勤務時間中の半分以下になっている。
尚は首を回しつつ、壁にかかっている時計を見た。午後6時を少し回っている。
接待に向かう上司、帰宅を急ぐママ社員たちが残っている社員にかける声を聞いてから、30分ほどが過ぎていた。
「あと少しでまとまるかな」
残っている作業にとりかかる前にリフレッシュしようと席を立つ。
課長の席の後ろにある大きな窓に桜の木が映っていた。その窓から外を見る女子社員がいる。尚も吸い寄せられるように窓に近づいていき、女子社員たちとは少し離れて外を見る。
桜の木には蕾がいくつかついている。咲いている花は一目見ただけでは見当たらない。
満開になったら大地と花見したいな。
同じように窓から外の桜が見えた会議室。
3年前、そこで行われた入社式で大地を初めてみたんだっけ。
苗字が『市谷(いちや)』で、新入社員の中であいうえお順が一番早かったせいで、新入社員代表をさせられた。
名前を呼ばれて壇上に上がった。
事前に人事部の社員にチェックしてもらっていた、あいさつ文を広げる手が震えていた。それを見て余計に心臓が激しく動き出した。発する声が震えそうになるのを抑えて正面を向いたとき、優しい笑顔でこちらを見ていた同期入社の男がいた。
包み込まれるような温かいまなざしに、手の震えがおさまっていく。そのおかげか落ち着いてあいさつ文を読み終えることができた。
壇上から下りながらつぶやく。
「アイツ、なんて優しい目してんだよ。ときめくじゃん」
入社式を終えてから、別の同期に優しい目の男の名前を聞いた。
「くろさき、だいち、か」
名前を教えてくれた同期に言わせると「優しいっていうより鋭い」目に見えたらしい。
語尾にハートがつきそうな軽やかな悲鳴が聞こえ、尚は我に返った。
同じ窓際に立っていた女性社員の声だった。彼女たちも息抜きか、手にコーヒーカップを持っている。
「あれ、黒崎さんじゃない。何してるんだろ」
「誰か待ってるって感じじゃない。彼女かな」
2人の会話を耳にして、尚も窓の下をのぞいてみた。大地が桜を見上げている。
彼女たちは尚にかまわずかいわを続ける。
「えー、あんなステキな人、待たせるなんてひどくない?」
「この時間、まだ肌寒いのにね。公園で待たせてんのかな」
「そんな彼女なら、ワンチャン狙えるかな」
ひどい彼女、か。俺、男だから彼女じゃねえし。俺が待たせてるわけじゃねえし。
あ、俺って大地のなんなんだっけ。
大地狙いの女性社員の言葉が胸の奥の触れられたくないところをチクチク刺している。もう一人の冷静な女性がため息をつく。
「どうだろねえ。ああやって黒崎さんは待ってるわけだし、入り込む隙間ないんじゃないの」
尚は携帯電話のメッセージアプリを開いて文章を打つことに集中していた。そのせいか、尚を勇気づけるであろう言葉が右から左へとすり抜けていっていることに気づいていなかった。
―公園でたそがれてんじゃねえよ。女子社員たちが噂してんぞ。
黒崎さん、彼女を待ってるのかな。あんなにステキな人を待たせるような彼女ならワンチャンありそう。
だってよ―
メッセージを読んだらしい大地が笑った。いつもなら嬉しく感じるそれも、今の尚には苛立ちを煽るものでしかない。
睨みつけるように見下ろしていると、大地がこちらへ顔を向けた。携帯電話を耳にあてている。胸元のポケットに入れた携帯電話が震える。
体をびくつかせ、女性社員2人を見ると、彼女たちは先輩社員の机の周りへと移動していた。作業を続ける先輩社員に呼ばれたらしい。
尚は、彼女たちに背中を向けて携帯電話の通話ボタンをタップした。
「なんだよ」
普段よりも低い声が出てしまった。耳元から鼻で笑う声が聞こえた。
『なおー、第一声が不機嫌な声ってやめろよ』
「うっせーな。黒崎さん、よくモテることで」
『すねるなよ。その女子社員たちに言えばいいだろ。ワンチャンなんてねえぞって』
大地の軽い返事に、苛立ちよりも悲しさが募ってくる。
それが言えるなら行き場のないモヤモヤを抱えたりなんてしない。自然と尚の口からため息が漏れる。
「そんなこと言えるわけないだろ。俺は大地とはただの同期でしかないんだから。大地の恋愛事情に首を突っ込む権利はないんだよ」
自分でもトーンダウンしたのがはっきりとわかる。
受話部分から、ザっという音が聞こえた。靴が地面に擦ったのだろうか。
「何言って」
尚は大地の言葉を遮る。
「なあ、大地って今までの彼女と付き合い始めたキッカケって何だった」
『そりゃ、彼女の方から付き合ってって言ってきたり。俺から言ったこともあったけど、それが……あっ』
尚の複雑な気持ちが伝わったようだ。安堵か嘲笑か笑いがこぼれる。
「そ、俺は何も言ってないし、大地も俺に何も言ってない」
窓越しに聞こえるカラスの鳴き声が、穴が開いた胸を通っていく。
「バレンタインにチョコレートもあげたし、ホワイトデーにお返しももらったけど、ただそれだけなんだよな。まあ、ちゃんと付き合ってたとしても、男の俺が大地と女性との間に入れるとも思えないけど」
尚は窓に背中をもたれかけさせた。窓越しに上から見下ろして遠目であっても、大地の顔を見ることができない。
少し間をおいて、大地の声が聞こえてくる。
『尚の気持ちはわかった。仕事はまだかかるのか』
喉の奥が締めつけられる感じがした。勢いよく息を吸い込んだからだろうか。
「あと30分もあれば終わるよ。でも、俺のこと待たなくていい」
『ああ。仕事、頑張れよ』
返事をしようにも吸い込んだ息をうまく吐き出せない。声を出そうとしていると、すぐに電話は切れた。
尚が窓の外を見下ろすと、早足で公園を出ていく大地の後ろ姿があった。
尚は首を回しつつ、壁にかかっている時計を見た。午後6時を少し回っている。
接待に向かう上司、帰宅を急ぐママ社員たちが残っている社員にかける声を聞いてから、30分ほどが過ぎていた。
「あと少しでまとまるかな」
残っている作業にとりかかる前にリフレッシュしようと席を立つ。
課長の席の後ろにある大きな窓に桜の木が映っていた。その窓から外を見る女子社員がいる。尚も吸い寄せられるように窓に近づいていき、女子社員たちとは少し離れて外を見る。
桜の木には蕾がいくつかついている。咲いている花は一目見ただけでは見当たらない。
満開になったら大地と花見したいな。
同じように窓から外の桜が見えた会議室。
3年前、そこで行われた入社式で大地を初めてみたんだっけ。
苗字が『市谷(いちや)』で、新入社員の中であいうえお順が一番早かったせいで、新入社員代表をさせられた。
名前を呼ばれて壇上に上がった。
事前に人事部の社員にチェックしてもらっていた、あいさつ文を広げる手が震えていた。それを見て余計に心臓が激しく動き出した。発する声が震えそうになるのを抑えて正面を向いたとき、優しい笑顔でこちらを見ていた同期入社の男がいた。
包み込まれるような温かいまなざしに、手の震えがおさまっていく。そのおかげか落ち着いてあいさつ文を読み終えることができた。
壇上から下りながらつぶやく。
「アイツ、なんて優しい目してんだよ。ときめくじゃん」
入社式を終えてから、別の同期に優しい目の男の名前を聞いた。
「くろさき、だいち、か」
名前を教えてくれた同期に言わせると「優しいっていうより鋭い」目に見えたらしい。
語尾にハートがつきそうな軽やかな悲鳴が聞こえ、尚は我に返った。
同じ窓際に立っていた女性社員の声だった。彼女たちも息抜きか、手にコーヒーカップを持っている。
「あれ、黒崎さんじゃない。何してるんだろ」
「誰か待ってるって感じじゃない。彼女かな」
2人の会話を耳にして、尚も窓の下をのぞいてみた。大地が桜を見上げている。
彼女たちは尚にかまわずかいわを続ける。
「えー、あんなステキな人、待たせるなんてひどくない?」
「この時間、まだ肌寒いのにね。公園で待たせてんのかな」
「そんな彼女なら、ワンチャン狙えるかな」
ひどい彼女、か。俺、男だから彼女じゃねえし。俺が待たせてるわけじゃねえし。
あ、俺って大地のなんなんだっけ。
大地狙いの女性社員の言葉が胸の奥の触れられたくないところをチクチク刺している。もう一人の冷静な女性がため息をつく。
「どうだろねえ。ああやって黒崎さんは待ってるわけだし、入り込む隙間ないんじゃないの」
尚は携帯電話のメッセージアプリを開いて文章を打つことに集中していた。そのせいか、尚を勇気づけるであろう言葉が右から左へとすり抜けていっていることに気づいていなかった。
―公園でたそがれてんじゃねえよ。女子社員たちが噂してんぞ。
黒崎さん、彼女を待ってるのかな。あんなにステキな人を待たせるような彼女ならワンチャンありそう。
だってよ―
メッセージを読んだらしい大地が笑った。いつもなら嬉しく感じるそれも、今の尚には苛立ちを煽るものでしかない。
睨みつけるように見下ろしていると、大地がこちらへ顔を向けた。携帯電話を耳にあてている。胸元のポケットに入れた携帯電話が震える。
体をびくつかせ、女性社員2人を見ると、彼女たちは先輩社員の机の周りへと移動していた。作業を続ける先輩社員に呼ばれたらしい。
尚は、彼女たちに背中を向けて携帯電話の通話ボタンをタップした。
「なんだよ」
普段よりも低い声が出てしまった。耳元から鼻で笑う声が聞こえた。
『なおー、第一声が不機嫌な声ってやめろよ』
「うっせーな。黒崎さん、よくモテることで」
『すねるなよ。その女子社員たちに言えばいいだろ。ワンチャンなんてねえぞって』
大地の軽い返事に、苛立ちよりも悲しさが募ってくる。
それが言えるなら行き場のないモヤモヤを抱えたりなんてしない。自然と尚の口からため息が漏れる。
「そんなこと言えるわけないだろ。俺は大地とはただの同期でしかないんだから。大地の恋愛事情に首を突っ込む権利はないんだよ」
自分でもトーンダウンしたのがはっきりとわかる。
受話部分から、ザっという音が聞こえた。靴が地面に擦ったのだろうか。
「何言って」
尚は大地の言葉を遮る。
「なあ、大地って今までの彼女と付き合い始めたキッカケって何だった」
『そりゃ、彼女の方から付き合ってって言ってきたり。俺から言ったこともあったけど、それが……あっ』
尚の複雑な気持ちが伝わったようだ。安堵か嘲笑か笑いがこぼれる。
「そ、俺は何も言ってないし、大地も俺に何も言ってない」
窓越しに聞こえるカラスの鳴き声が、穴が開いた胸を通っていく。
「バレンタインにチョコレートもあげたし、ホワイトデーにお返しももらったけど、ただそれだけなんだよな。まあ、ちゃんと付き合ってたとしても、男の俺が大地と女性との間に入れるとも思えないけど」
尚は窓に背中をもたれかけさせた。窓越しに上から見下ろして遠目であっても、大地の顔を見ることができない。
少し間をおいて、大地の声が聞こえてくる。
『尚の気持ちはわかった。仕事はまだかかるのか』
喉の奥が締めつけられる感じがした。勢いよく息を吸い込んだからだろうか。
「あと30分もあれば終わるよ。でも、俺のこと待たなくていい」
『ああ。仕事、頑張れよ』
返事をしようにも吸い込んだ息をうまく吐き出せない。声を出そうとしていると、すぐに電話は切れた。
尚が窓の外を見下ろすと、早足で公園を出ていく大地の後ろ姿があった。
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