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プロローグ
エントロピーの崩壊
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盛夏の駅舎は地獄でした。
ひどく息苦しさを感じ、人の熱気もあって僕の顔は茹ダコと大差なくなっていることでしょう。
服の内側まで蒸し暑さが迫っており、吐き気すら催しました。
逃げ場を失った僕は、ひたすらに時を待ちます。
滝ごとき汗は瞳を刺激し、口の中はわずかに塩の味でした。
人の流れも渋滞を起こし始めた頃、小気味良い音が聞こえてきます。
ゆりかごのような、心地の良い音がブレーキ音とともに停止。
等間隔で並列しているドアが一斉に開き、人と人との衝突が始まります。
僕はなるべく息をひそめ、身構えていました。
ブザーが響きました。
「発車いたします。閉まるドアにご注意ください」
それを聞いて慌てたように僕は電車のなかへと乗り込みます。
ドアがしまると、おもわず安堵の息が漏れました。
ここはあの外の地獄とは違う。
呼吸は落ち着き、漂う冷気に歓喜しました。
電車のなかでは、たいていの人が下へ顔を伏せ(女子高生の団体などは例外ですが)、他のことには注意を払いません。
僕はその数少ない例外のうちの一人で、シートには座らずに、自分が入ってきたドアとは反対の方向の景色へと視線を移します。
僕はこうして電車の中から外の世界を眺めるのが好きでした。
電車が進みだすと、景色は流れ出します。
僕がどこを見ていようが、なにをしていようが、一切無関係といった具合に風景は流れていくのです。
そこに僕は安心感を見出していました。
隣の車両からある女性が移ってきたのが視界に入りました。
一瞥して、すぐに視線を外に戻し、それから右往左往させてしまいます。
しかし入り口から雪崩のごとく乗客が押し寄せると、次第に僕の視線は彼女へと注がれました。
私と彼女の間には、万里の長城のごとく集団が隔てていました。
それでも、彼女の存在感は失われることはありません。
濃い化粧をして、しかし美貌は失われるどころか麗美さを増し、繊細でどっしりした体つきの女性が立っていたのです。
自分とは縁遠い、その華やかさに目が向いてしまうのは、しごく自然な流れに思えました。
彼女も自分と同じく、外の景色へと興趣を向けていました。
いえ、もはや同じとはいえないのでしょうが。
しかし本質は同じことなのだと思います。
言い訳に聞こえるかもしれませんが、隔絶した距離間ゆえの無責任さとでもいいましょうか。
その点で僕にとってはまったく同一のものなのでした。
「あ」
彼女が唐突に漏らした声でした。
そこまで大きな声ではなかったですが、不思議と車両全体に通る魔力を帯びた声でした。
彼女の視線の先をたどると、僕と僕の同志たちの興趣はそこへと絞られました。
いえ、きっと僕たちだけではないはずです。
なにせその人物は、超がつくほどの有名人なのでした。
僕らは呆然としました。
あまりにも異様なのです。
その有名人は、げっそりと肉が削げ落ちていて、この暑さにも関わらず白衣の下に何枚も着込んでいるようでした。
にもかかわらず顔色は青白く、まるでそこに存在していないかのようにさえ思えます。
僕らの乗った電車が動き出しました。
その刹那のことです。
超がつくほどの有名人、外科医として知られるその男は、そっと白衣を脱ぎました。
そのまま一連の流れのように、男は線路へと頭から吸い寄せられるように、身を投げ出しました。
はっきりと僕は見たのです。
その男の死、大義なんてものの入り込む余地のない、完璧なまでの自殺であることは表情からもうかがい知れました。
白衣は地にふわりと落ちましたが、その傍らで僕らは確かにズシリと、軋むような音を聞いたのでした。
まるで蚊の泣くような、けれども重みのある音。
(やっぱり……外は地獄ですね)
それから記憶はございません。
いつの間にやら飲みに徹していたらしい僕は、一気に咽返る吐瀉物を開放していました。
暗い真夜中で駅近くの路面に散ったソレは、そのときの僕には赤黒い返り血のように見えました。
まるであの日見たような‥…。
翌朝、起きてみて僕は汚した路面を確認しに行こうと思い立ちました。
路面はすっかり綺麗になっており、その上を行き交う人々が踏みつけては素知らぬ顔しています。
僕にはそれが非常に怖く思えたのです。
下界の恐ろしさに、僕は数週間後、自殺しました。
ひどく息苦しさを感じ、人の熱気もあって僕の顔は茹ダコと大差なくなっていることでしょう。
服の内側まで蒸し暑さが迫っており、吐き気すら催しました。
逃げ場を失った僕は、ひたすらに時を待ちます。
滝ごとき汗は瞳を刺激し、口の中はわずかに塩の味でした。
人の流れも渋滞を起こし始めた頃、小気味良い音が聞こえてきます。
ゆりかごのような、心地の良い音がブレーキ音とともに停止。
等間隔で並列しているドアが一斉に開き、人と人との衝突が始まります。
僕はなるべく息をひそめ、身構えていました。
ブザーが響きました。
「発車いたします。閉まるドアにご注意ください」
それを聞いて慌てたように僕は電車のなかへと乗り込みます。
ドアがしまると、おもわず安堵の息が漏れました。
ここはあの外の地獄とは違う。
呼吸は落ち着き、漂う冷気に歓喜しました。
電車のなかでは、たいていの人が下へ顔を伏せ(女子高生の団体などは例外ですが)、他のことには注意を払いません。
僕はその数少ない例外のうちの一人で、シートには座らずに、自分が入ってきたドアとは反対の方向の景色へと視線を移します。
僕はこうして電車の中から外の世界を眺めるのが好きでした。
電車が進みだすと、景色は流れ出します。
僕がどこを見ていようが、なにをしていようが、一切無関係といった具合に風景は流れていくのです。
そこに僕は安心感を見出していました。
隣の車両からある女性が移ってきたのが視界に入りました。
一瞥して、すぐに視線を外に戻し、それから右往左往させてしまいます。
しかし入り口から雪崩のごとく乗客が押し寄せると、次第に僕の視線は彼女へと注がれました。
私と彼女の間には、万里の長城のごとく集団が隔てていました。
それでも、彼女の存在感は失われることはありません。
濃い化粧をして、しかし美貌は失われるどころか麗美さを増し、繊細でどっしりした体つきの女性が立っていたのです。
自分とは縁遠い、その華やかさに目が向いてしまうのは、しごく自然な流れに思えました。
彼女も自分と同じく、外の景色へと興趣を向けていました。
いえ、もはや同じとはいえないのでしょうが。
しかし本質は同じことなのだと思います。
言い訳に聞こえるかもしれませんが、隔絶した距離間ゆえの無責任さとでもいいましょうか。
その点で僕にとってはまったく同一のものなのでした。
「あ」
彼女が唐突に漏らした声でした。
そこまで大きな声ではなかったですが、不思議と車両全体に通る魔力を帯びた声でした。
彼女の視線の先をたどると、僕と僕の同志たちの興趣はそこへと絞られました。
いえ、きっと僕たちだけではないはずです。
なにせその人物は、超がつくほどの有名人なのでした。
僕らは呆然としました。
あまりにも異様なのです。
その有名人は、げっそりと肉が削げ落ちていて、この暑さにも関わらず白衣の下に何枚も着込んでいるようでした。
にもかかわらず顔色は青白く、まるでそこに存在していないかのようにさえ思えます。
僕らの乗った電車が動き出しました。
その刹那のことです。
超がつくほどの有名人、外科医として知られるその男は、そっと白衣を脱ぎました。
そのまま一連の流れのように、男は線路へと頭から吸い寄せられるように、身を投げ出しました。
はっきりと僕は見たのです。
その男の死、大義なんてものの入り込む余地のない、完璧なまでの自殺であることは表情からもうかがい知れました。
白衣は地にふわりと落ちましたが、その傍らで僕らは確かにズシリと、軋むような音を聞いたのでした。
まるで蚊の泣くような、けれども重みのある音。
(やっぱり……外は地獄ですね)
それから記憶はございません。
いつの間にやら飲みに徹していたらしい僕は、一気に咽返る吐瀉物を開放していました。
暗い真夜中で駅近くの路面に散ったソレは、そのときの僕には赤黒い返り血のように見えました。
まるであの日見たような‥…。
翌朝、起きてみて僕は汚した路面を確認しに行こうと思い立ちました。
路面はすっかり綺麗になっており、その上を行き交う人々が踏みつけては素知らぬ顔しています。
僕にはそれが非常に怖く思えたのです。
下界の恐ろしさに、僕は数週間後、自殺しました。
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