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はじまり
いつの間にかの変化
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空丘が別店舗へヘルプに行ってから、十日ほど経った。
海峰も店長代理のままだ。とことんこの職場の『しばらくの間』はあてにならない。
空丘が抜けた穴は予測以上に大きく、毎日の人手不足と、このまま不在が続いた場合におけるシフト調整に頭を悩ませていた。
店を閉めた後、事務所にひとり。
真っ暗な中でパソコンの画面と対峙する。
傍らには、チョコレートがある。
有名店のカカオトリュフ。ソルティキャラメルとシャンパーニュのアソートタイプで、歯を入れた瞬間の柔らかさが格別だった。
芳醇な酒の香りのシャンパーニュも良いが、ソルティキャラメルの中にはキャラメルチップが混ざっており、食感がよく、最後には旨みのある塩気が後を引く。
けれど、心は動かない。
次はアーモンドチョコレート。苦みばしったココアパウダーの下には純白のホワイトチョコレート。マスカルポーネチーズを練りこんであるという。ローストしたアーモンドも香ばしい。
けれどそれでも、心は動かない。
間断なく、何かを埋めるように機械的に海峰はチョコレートを食べ続ける。
その手がふと止まった。
「……うっ」
蛙が押しつぶされたような声が出た。
まずいと思うや、トイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
食べ過ぎだった。
(最悪……)
数千円するチョコレートがすべて無駄になった。
何度か咳き込み、苦しさに喘ぐ。
しばらくしてから深呼吸すると、どうにか落ち着いた。
ふらつく足取りでトイレから出る。洗面台で雑に顔を洗った。
何やってんだ、俺。
鏡に映ったびしょ濡れの己の顔に、自嘲する。
しんどい、疲れた、……そういう感情すら通り越して、ただただ情けない。
こんな姿を見たら、あいつは何と言うのだろう。
脳裏に浮かんでしまう能天気な笑顔に、海峰はハッと息を吐いた。
これはもう。
認めるしか、ないのかもしれない。
自分の中にずっとあった『もの』に。
観念しようと思った。認めようと思った。
(やっぱり俺は……)
濡れた顔を袖でゴシゴシこすり、悄然と事務所に戻る――と、消していたはずの電灯が点いていた。
まさか。
「また電気点けるの忘れてるっすよ、先輩」
煌々とした明かりの下、空丘が笑っていた。
――返事するよりも先に、体が動いた。
海峰はラグビー選手もかくやの勢いで、空丘の図体にタックルをかました。
「うぉわぁお!!」
突然の猛進に空丘は驚き、とっさに海峰を受け止めたが、勢いは殺せず後ろ向きに倒れた。
だが、すぐ後ろに休憩用のソファがあったのでダメージも物音も最小限に抑えられた。
ちなみに『幸い』ではない。海峰は後ろにソファがあるのを承知の上で、きちんと安全第一で突っ込んだのである。
「ここで会ったが百年目だ! 抱きしめろ! 何も言わず何も考えずひたすら無心に俺を抱きしめろ!」
「いやぁああ怖い! 飢えてる先輩めっちゃ怖い! え、草食系だっつってたのに肉食系だったの!? ロールキャベツ系男子!?」
「黙れ小僧! いいから抱け!」
と叫ぶが早いか、海峰は空丘の胸元に顔を埋めた。
書店エプロンではなくラフなジャケットだったが、中のシャツに使っている柔軟剤は同じもので、懐かしい匂いにたまらなくなる。
空丘がおずおずと手を伸ばす。その熱い手が、嘔吐で体温が下がった海峰の体に触れる。
彼の熱が悪寒も疲労も吸い取ってくれる。
ぽっかりと空いた穴も埋まった気がした。
しばし、無言で抱きしめ合った。
「……はぁーー……」
熱い湯船に浸かった瞬間のような長く深い息を吐き、海峰は満たされた思いで空丘から離れた。
そのまま床に座り、乱れに乱れた佇まいを直す。
空丘もむくりとソファから起き上がった。
「えっと、落ち着きました?」
「うん」
「珍しく素直な返事っすね。びっくりしたー、あっちの店が終わってこっち来たらいきなり襲われるんだもん」
「すまん」
「え、ほんとに珍しい……」
一旦距離を置くと、心の余計なバリアが薄くなるものらしい。
変なプライドも鎮火して、妙な清々しさがある。冷静な自己分析も可能だ。
「おまえ、直帰しなかったのか? なんでわざわざこっちに戻ってきたんだよ」
素朴な疑問に、空丘も珍しい反応――少しばかり言い淀んだ。
「そんなん、先輩に会いたかったからに決まってんでしょ」
言わせないでくださいよ、と頬をかく。
そんな空丘に、海峰はキョトンとなり、まじまじ見つめる。
(……長いような短いような濃いような薄いような付き合いだけど)
こいつのこんな態度、初めてだ。
「それよか先輩も、俺に何か言いたいことあるんじゃないですか?」
空丘がわざとらしく首を傾げ、期待に両目を輝かせて、海峰の本音をねだる。
言わせてくれるなよ、とは思ったが、隠しても仕方がない。
これは多分、言った方が良いことだ。
素直に正直に、言うべきだ。
「……おまえがいなくなってから」
「はい」
「ずっとチョコ食いまくってた」
「はいはい」
「でも全然癒されなかっった。おまえに抱きしめられたら一瞬で回復したのに。疲れが溜まる一方だった」
「はいはいはい」
「それでやっと気づいた。――俺」
「はい!!」
声がでけぇ。
空丘の期待が最高潮クライマックスの一歩手前まで上がる。
だが海峰は、逆に声のトーンを落として、
「思っていた以上にストレスが溜まっていたんだって……!!」
と、ありのまま心のまま思いのままの本音を告白した。
海峰も店長代理のままだ。とことんこの職場の『しばらくの間』はあてにならない。
空丘が抜けた穴は予測以上に大きく、毎日の人手不足と、このまま不在が続いた場合におけるシフト調整に頭を悩ませていた。
店を閉めた後、事務所にひとり。
真っ暗な中でパソコンの画面と対峙する。
傍らには、チョコレートがある。
有名店のカカオトリュフ。ソルティキャラメルとシャンパーニュのアソートタイプで、歯を入れた瞬間の柔らかさが格別だった。
芳醇な酒の香りのシャンパーニュも良いが、ソルティキャラメルの中にはキャラメルチップが混ざっており、食感がよく、最後には旨みのある塩気が後を引く。
けれど、心は動かない。
次はアーモンドチョコレート。苦みばしったココアパウダーの下には純白のホワイトチョコレート。マスカルポーネチーズを練りこんであるという。ローストしたアーモンドも香ばしい。
けれどそれでも、心は動かない。
間断なく、何かを埋めるように機械的に海峰はチョコレートを食べ続ける。
その手がふと止まった。
「……うっ」
蛙が押しつぶされたような声が出た。
まずいと思うや、トイレに駆け込み、胃の中のものを吐き出した。
食べ過ぎだった。
(最悪……)
数千円するチョコレートがすべて無駄になった。
何度か咳き込み、苦しさに喘ぐ。
しばらくしてから深呼吸すると、どうにか落ち着いた。
ふらつく足取りでトイレから出る。洗面台で雑に顔を洗った。
何やってんだ、俺。
鏡に映ったびしょ濡れの己の顔に、自嘲する。
しんどい、疲れた、……そういう感情すら通り越して、ただただ情けない。
こんな姿を見たら、あいつは何と言うのだろう。
脳裏に浮かんでしまう能天気な笑顔に、海峰はハッと息を吐いた。
これはもう。
認めるしか、ないのかもしれない。
自分の中にずっとあった『もの』に。
観念しようと思った。認めようと思った。
(やっぱり俺は……)
濡れた顔を袖でゴシゴシこすり、悄然と事務所に戻る――と、消していたはずの電灯が点いていた。
まさか。
「また電気点けるの忘れてるっすよ、先輩」
煌々とした明かりの下、空丘が笑っていた。
――返事するよりも先に、体が動いた。
海峰はラグビー選手もかくやの勢いで、空丘の図体にタックルをかました。
「うぉわぁお!!」
突然の猛進に空丘は驚き、とっさに海峰を受け止めたが、勢いは殺せず後ろ向きに倒れた。
だが、すぐ後ろに休憩用のソファがあったのでダメージも物音も最小限に抑えられた。
ちなみに『幸い』ではない。海峰は後ろにソファがあるのを承知の上で、きちんと安全第一で突っ込んだのである。
「ここで会ったが百年目だ! 抱きしめろ! 何も言わず何も考えずひたすら無心に俺を抱きしめろ!」
「いやぁああ怖い! 飢えてる先輩めっちゃ怖い! え、草食系だっつってたのに肉食系だったの!? ロールキャベツ系男子!?」
「黙れ小僧! いいから抱け!」
と叫ぶが早いか、海峰は空丘の胸元に顔を埋めた。
書店エプロンではなくラフなジャケットだったが、中のシャツに使っている柔軟剤は同じもので、懐かしい匂いにたまらなくなる。
空丘がおずおずと手を伸ばす。その熱い手が、嘔吐で体温が下がった海峰の体に触れる。
彼の熱が悪寒も疲労も吸い取ってくれる。
ぽっかりと空いた穴も埋まった気がした。
しばし、無言で抱きしめ合った。
「……はぁーー……」
熱い湯船に浸かった瞬間のような長く深い息を吐き、海峰は満たされた思いで空丘から離れた。
そのまま床に座り、乱れに乱れた佇まいを直す。
空丘もむくりとソファから起き上がった。
「えっと、落ち着きました?」
「うん」
「珍しく素直な返事っすね。びっくりしたー、あっちの店が終わってこっち来たらいきなり襲われるんだもん」
「すまん」
「え、ほんとに珍しい……」
一旦距離を置くと、心の余計なバリアが薄くなるものらしい。
変なプライドも鎮火して、妙な清々しさがある。冷静な自己分析も可能だ。
「おまえ、直帰しなかったのか? なんでわざわざこっちに戻ってきたんだよ」
素朴な疑問に、空丘も珍しい反応――少しばかり言い淀んだ。
「そんなん、先輩に会いたかったからに決まってんでしょ」
言わせないでくださいよ、と頬をかく。
そんな空丘に、海峰はキョトンとなり、まじまじ見つめる。
(……長いような短いような濃いような薄いような付き合いだけど)
こいつのこんな態度、初めてだ。
「それよか先輩も、俺に何か言いたいことあるんじゃないですか?」
空丘がわざとらしく首を傾げ、期待に両目を輝かせて、海峰の本音をねだる。
言わせてくれるなよ、とは思ったが、隠しても仕方がない。
これは多分、言った方が良いことだ。
素直に正直に、言うべきだ。
「……おまえがいなくなってから」
「はい」
「ずっとチョコ食いまくってた」
「はいはい」
「でも全然癒されなかっった。おまえに抱きしめられたら一瞬で回復したのに。疲れが溜まる一方だった」
「はいはいはい」
「それでやっと気づいた。――俺」
「はい!!」
声がでけぇ。
空丘の期待が最高潮クライマックスの一歩手前まで上がる。
だが海峰は、逆に声のトーンを落として、
「思っていた以上にストレスが溜まっていたんだって……!!」
と、ありのまま心のまま思いのままの本音を告白した。
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