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ショートに願いごと
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「ねえ、ケーキ、好き?」
涼やかな声が耳を打った。真っ直ぐな声だった。それが自分に掛けられた言葉だと気づくのに一秒。机から顔を上げるとにこりともせずに彼女は俺を見つめていた。
教室の騒めきは、最高値に達していた。西日が落ちるにはまだ早く、しかし太陽はゆっくりと下る準備をしている。秋も終わりに近づいた頃のことだった。
今からバイトに向かう奴、サークルの飲みに行く奴。講義終わりに見慣れた光景だ。机の上のノートを片していると、目の前に影が落ちた。
視線を上げると、真っ黒のショートカットが目に飛び込む。髪が光を綺麗に反射して、天使の輪っかが出来ていた。
「好きなの、嫌いなの」
淡々と尋ねて、嶋田さんは俺をじっと見た。切長でぐりっと大きな、髪と同じ色の真夜中みたいな瞳。俺は鞄を掴んで立ち上がる。残念ながら彼女の目に見下ろされる耐性なんて、持ち合わせていなかった。
「いいよ。暇だし」
彼女の白い頬を目に映さないようにして、ぎゅっと唇を噛む。
「そう。よかった」
いつもと変わらない平坦な口調で紡がれた言葉。本当はその瞬間の顔を見てみたかった。臆病な俺は彼女を視界に映すことは出来なかったけれど。
嶋田さんは俺たちにとって、特別な女の子だった。人形のように整った顔立ち、細長い手足、静かな物言い。同じゼミの女の子たちには失礼だけど、彼女たちとはなんか少し違っていた。
もちろんそう思っているのは俺だけじゃない。彼女と同じ空間を過ごした人間は、みんなそう感じていたと思う。わかりやすく言うと、彼女は高嶺の花というやつだった。
しかし不思議と彼女を妬んだり、爪弾きにする女の子は誰もいなかった。むしろ教授の講義でわかりにくいところを、彼女へ聞きに行く子だっているぐらいだ。嶋田さんはそういう時、嫌な顔をしなかった。女の子からも綺麗だと褒められる場面もよく目にした。そんなことを言われても、嶋田さんは相変わらずのポーカーフェイスを貫いていた。
また、彼女は付き合いが悪いというわけでもなかった。ゼミの飲み会には顔を出したし、先輩の卒業祝い兼打ち上げだって便乗する。
それは僕らと同じだったし、彼女もそれなりに楽しんでいるようだった。そんな一面もあるんだと驚きもしたけれど、人を見た目で決めつけるべきじゃない。何より、ほどよく酔いが回って少しだけ頬の筋肉が緩む彼女の表情が予想以上に可愛くて、好きだった。
夜風に当たる彼女の横顔は、ほんのりと桃色に染まっていた。喧騒もネオンも遠いところに置いてきたように、彼女のところだけ空気が違って見えた。賑やかな同じゼミの奴らを見る眼差しが柔らかくて。遠巻きにそれを見ていることしか出来なかった。
そう、僕はなんとも単純な理由で、とっくに彼女への恋心を育てていたのだった。
すらりと伸びた背筋、白いシンプルなブラウスに濃紺の細身のパンツ。彼女はそれらがよく似合っていた。とても綺麗なのに、飾らない。そういう姿に惹かれた奴も多いと聞く。
すたすた前へ進む後ろ姿は、うっかりしていると俺を置いていってしまいそうだった。彼女の後ろ姿を追いかけて、足早に講義室を後にする。注がれる興味と揶揄が半分半分に入り混じった視線には、気がつかないことにしておいた。
「なににする?」
嶋田さんは古びた喫茶店の前で足を止めた。年季の入った扉を彼女がそっと押すと、木の軋む音と、ちりんとベルが鳴る。中は外よりも少しだけ広く見えるが、マスター一人しかおらず店は閑古鳥が鳴いていた。
軽くマスターに会釈をして、彼女はあらかじめ決められていたかのように窓際の席へ腰を下ろす。どうやら馴染みの店のようだった。ちなみに俺の馴染みの店は、近くのファーストフード店ぐらいだ。
慣れた仕草でメニューをそっと掴む。まるで彼女の庭先に招かれたような、不思議な心地がする。
テーブルのメニューを俺の目の前に置いて、彼女は黙りこくっていた。慣れない店の空気でキャパシティオーバーしそうになる。
手持ち無沙汰になるのが恥ずかしくて、差し出されたメニューを開く。重い表紙に日に焼けた紙。飲み物類とサンドイッチ、デザート。バリエーションはそんなに多くはない。
「畑くんはなににする?」
そう口にした彼女は店に入ってから、一度もメニューを目にしていない。いつのまにか嶋田さんの目の前に置かれたコップの水は、半分ほど減っていた。
「嶋田さんは?」
「私はいいの。決めてるから」
彼女は長いまつ毛を伏せて、静かな声でしかしきっぱりと言った。
俺がようやくメニューを決め終えた頃合いで、マスターがやって来た。何度メニューを上から下まで眺めても結局選択肢は一つから増えなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
マスターは人の良さそうな笑みを浮かべて、俺たちを交互に見つめる。
「ホットコーヒーをお願いします」
あ、彼女の注文を先に言ってあげたらよかった。口に出してから気づいたが、もうどうしようもない。静かに慌てる俺の隣で澄んだはっきりとした声が聞こえた。
「私は、ショートケーキ」
「ホットコーヒーに、ショートケーキですね。かしこまりました」
にこやかな笑顔を浮かべたまま、マスターは去っていく。
俺は隣をちらりと見た。嶋田さん、ショートケーキ好きなんだ。
嶋田さんとショートケーキ。
なんだか不思議な組み合わせだった。彼女なら難しい英語の名前がついたケーキとか、コーヒーをブラックでとかだと思っていたのに。まあ、この店にそういった小難しい名前のケーキがあるかどうかは知らないが。
彼女の方をちらりと見る。情けないことに俺は向かい側に座る彼女の顔をまともに見ることが出来ない。
でも、心なしか桃色の薄い唇がほんの少し、ほんの少しだけ緩んでいるような気がした。あの夜の微笑みには程遠かったけれど。俺はまた慌てて目を逸らした。静寂を保つ店内に、心臓がばくばくと打つ音が聞こえそうだった。
「お待たせいたしました」
間もなく湯気を立てたコーヒーと、綺麗なお皿に乗ったショートケーキが姿を現した。真っ白なクリームに小さな苺が一粒。なんの変哲もない、俺でも知っている苺のショートケーキだ。
俺はミルクと砂糖をたっぷり入れて、おずおずとコーヒーカップに手を伸ばす。コーヒーを飲む瞬間に嶋田さんの顔を見れるだろうか、なんて考えながら。
その時だった。フォークを手に持った嶋田さんは何かを小さく呟いた。
「どうしたの?」
マグカップに伸ばした手を引っ込めて尋ねる。すると彼女はポーカーフェイスのまま忘れてたの、と口にした。
「忘れてたの、私。今日は畑くんに言うことがあったのに」
彼女は手元の水をまた一口飲み込んだ。
「嶋田さんが、俺に言うこと?」
「そう。今日はそう決めて誘ったの」
彼女から予想もしてなかった言葉が飛び出して、どきりとする。彼女が俺に言いたいことってなんだろう。やっぱり普段こっそり見ていることがバレていたとかだろうか。
いや別に違うんだ、邪な気持ちで見てたわけじゃない。でも好きな人が目の前にいたらついつい視線を奪われてしまうものじゃないか? だって、好きなんだから!
心の中で見苦しい言い訳を並べ立てる。嶋田さんは俺の方をちらりと見ると、銀色のフォークをそっと真白の地面に差し込んだ。
小さく息を吸う音がした。
「今このショートケーキを食べている間だけ、私を恋人にして」
それはコーヒーカップをひっくり返してしまうには十分すぎるぐらいの衝撃だった。俺は慌ててコーヒーカップを皿に着地させる。
「し、嶋田さん⁉︎」
喉から出た声がひっくり返った。指先が馬鹿にみたいに震える。心臓が言葉の代わりにばくばくと身体を揺らす。
「……やっぱり迷惑だった?」
ごめんねと続ける彼女は、俯いてショートケーキを一欠片口へ放り込む。相変わらず涼しげで平坦な声だった。
「変なこと言っちゃったね」
彼女はまた言葉を紡いで、フォークに手を伸ばす。冗談だとは思えない、けれどあまりに信じがたい。
柔らかなスポンジが銀色の小さなフォークで切り崩された。真っ赤な苺がころり、と転がり落ちて不恰好に着地する。小さく開いた口、伏せられた美しい双眼に息を飲む。コーヒーがふわふわと湯気を立てて冷めていく。
「どうしてそんなこと言うの?」
正直九割頷きかけていた。だって僕は彼女が好きなのだ。ずっと気になっていたのだから、風変わりな告白も、受け入れたっておかしくはなかった。
けれど気がついたらそう尋ねていた。真っ直ぐ見つめる丸い大きな瞳をじっと見返して。それは現時点でも自分がよくわからなくなるような不思議な感覚だった。
「私の告白が変だった?」
彼女は小さな子供みたいに首を傾げる。
「変じゃないけどさ、いや……やっぱり変だよな」
俺は一人で呟いて、真っ直ぐな視線に返す言葉を探す。
「私、特別がこわいの」
彼女そう言いながら、冷水のグラスに口を付ける。
コップが静かに置かれる。脈絡が無いようで、きっと彼女の中では意味が繋がっているんだろう。頷いて話を促した。
「どうしてそう思うの?」
少し視線を彷徨わせて彼女はふっと息を吐く。
「私ってゼミで少し浮いているでしょう? 昔からそうなの。みんなの中に溶け込みたいのに、いつも半分しか混ざれない」
彼女はそう吐き出すと、ゆっくりとケーキを一口分だけ割る。
「……うん、そうだな。みんなにとっては分からないけど、俺にとってはそうかも」
彼女はぱっと顔を上げて、俺の目を見つめた。
「私、特別なんかじゃないよ」
少し固い声。僕は彼女の言葉を慎重に、慎重になぞる。
「ね、嶋田さん」
頭の中で言葉を捏ねても、この瞬間に相応しい言葉は降りて来ない。
「嶋田さんの言うことは理解出来るんだ。でも、普通になりたい。友達だって沢山欲しいっていうのはすごく普通のことだと思う」
絡まった思考を解けないまま、舌の上に乗せる。すると、彼女はくすりと笑った。くすくす、くすくす。軽やかな笑い声。
「畑くんは面白いね」
「それって褒めてる?」
「もちろん」
嶋田さんは真面目な顔をして、即答した。
「畑くんてね。少しお調子者だけど、ちゃんと周りを見ていて。それでこういう相談を断り切れないでしょう?」
この歳になると自分の立ち位置はよく理解している。俺は気恥ずかしくなって、手元のコーヒーカップを持ち上げた。彼女がこんなに自分を見ているなんて、気づきもしなかった。嶋田さんがまた一口、ケーキを口に運ぶ。
「畑くんのこと、よく見てた」
「……みたいだね」
「あの教室では畑くんの向かい側で話せないから、今日はここへ誘ったの」
こんなこと、誰が想像しただろう。嶋田さんが、好きな人がこんな人間らしいことで悩んでいるだなんて。
「あの教室に戻ったら、きっと私はまた臆病になってしまうから。だから今だけ私の恋人になって」
いつのまにか、嶋田さんは綺麗にフォークを置いて僕をじっと見ていた。飴玉のような深い色の瞳がわずかに揺れていた。
ショートケーキはあと一口。俺は息を大きく吸った。心臓がばくばくと速度を上げていく。あと数秒待って欲しい。その一口は、まだ口にしないでくれ。
「なあ、それってショートケーキを食べ終わってからもってのはだめ?」
「え?」
「そんなに俺を見てくれているならさ、いっそのこと」
俺は二十一年間で最大の勇気を振り絞る。唇が震える。肺に流れるコーヒーの香りが苦い。心臓は躍動を増していく。
「特別って、そんなに悪いことかな?」
彼女の綺麗な目が、じわじわと大きく見開かれていく。長いまつ毛が双眼の上で微かに揺れていた。
「俺はさ、嶋田さんの特別になりたい。それで嶋田さんにも俺の特別になって欲しいんだけど」
そろりと遠慮がちに彼女が顔を上げた。
「そんなのって……」
真っ白な嶋田さんの肌が、苺みたいに赤に染まる。揺れた黒髪の隙間から覗く耳まで、同じ色。
「嶋田さん、俺の特別になって。そんでさ、出来たらまたあのかわいい笑顔見せてよ」
逃げ出したそうな、恥ずかしそうな顔で嶋田さんが笑った。そこにいつものポーカーフェイスは影も形もなくて。
俺は心の底からおかしくて愛おしくて、笑ってしまったんだ。
涼やかな声が耳を打った。真っ直ぐな声だった。それが自分に掛けられた言葉だと気づくのに一秒。机から顔を上げるとにこりともせずに彼女は俺を見つめていた。
教室の騒めきは、最高値に達していた。西日が落ちるにはまだ早く、しかし太陽はゆっくりと下る準備をしている。秋も終わりに近づいた頃のことだった。
今からバイトに向かう奴、サークルの飲みに行く奴。講義終わりに見慣れた光景だ。机の上のノートを片していると、目の前に影が落ちた。
視線を上げると、真っ黒のショートカットが目に飛び込む。髪が光を綺麗に反射して、天使の輪っかが出来ていた。
「好きなの、嫌いなの」
淡々と尋ねて、嶋田さんは俺をじっと見た。切長でぐりっと大きな、髪と同じ色の真夜中みたいな瞳。俺は鞄を掴んで立ち上がる。残念ながら彼女の目に見下ろされる耐性なんて、持ち合わせていなかった。
「いいよ。暇だし」
彼女の白い頬を目に映さないようにして、ぎゅっと唇を噛む。
「そう。よかった」
いつもと変わらない平坦な口調で紡がれた言葉。本当はその瞬間の顔を見てみたかった。臆病な俺は彼女を視界に映すことは出来なかったけれど。
嶋田さんは俺たちにとって、特別な女の子だった。人形のように整った顔立ち、細長い手足、静かな物言い。同じゼミの女の子たちには失礼だけど、彼女たちとはなんか少し違っていた。
もちろんそう思っているのは俺だけじゃない。彼女と同じ空間を過ごした人間は、みんなそう感じていたと思う。わかりやすく言うと、彼女は高嶺の花というやつだった。
しかし不思議と彼女を妬んだり、爪弾きにする女の子は誰もいなかった。むしろ教授の講義でわかりにくいところを、彼女へ聞きに行く子だっているぐらいだ。嶋田さんはそういう時、嫌な顔をしなかった。女の子からも綺麗だと褒められる場面もよく目にした。そんなことを言われても、嶋田さんは相変わらずのポーカーフェイスを貫いていた。
また、彼女は付き合いが悪いというわけでもなかった。ゼミの飲み会には顔を出したし、先輩の卒業祝い兼打ち上げだって便乗する。
それは僕らと同じだったし、彼女もそれなりに楽しんでいるようだった。そんな一面もあるんだと驚きもしたけれど、人を見た目で決めつけるべきじゃない。何より、ほどよく酔いが回って少しだけ頬の筋肉が緩む彼女の表情が予想以上に可愛くて、好きだった。
夜風に当たる彼女の横顔は、ほんのりと桃色に染まっていた。喧騒もネオンも遠いところに置いてきたように、彼女のところだけ空気が違って見えた。賑やかな同じゼミの奴らを見る眼差しが柔らかくて。遠巻きにそれを見ていることしか出来なかった。
そう、僕はなんとも単純な理由で、とっくに彼女への恋心を育てていたのだった。
すらりと伸びた背筋、白いシンプルなブラウスに濃紺の細身のパンツ。彼女はそれらがよく似合っていた。とても綺麗なのに、飾らない。そういう姿に惹かれた奴も多いと聞く。
すたすた前へ進む後ろ姿は、うっかりしていると俺を置いていってしまいそうだった。彼女の後ろ姿を追いかけて、足早に講義室を後にする。注がれる興味と揶揄が半分半分に入り混じった視線には、気がつかないことにしておいた。
「なににする?」
嶋田さんは古びた喫茶店の前で足を止めた。年季の入った扉を彼女がそっと押すと、木の軋む音と、ちりんとベルが鳴る。中は外よりも少しだけ広く見えるが、マスター一人しかおらず店は閑古鳥が鳴いていた。
軽くマスターに会釈をして、彼女はあらかじめ決められていたかのように窓際の席へ腰を下ろす。どうやら馴染みの店のようだった。ちなみに俺の馴染みの店は、近くのファーストフード店ぐらいだ。
慣れた仕草でメニューをそっと掴む。まるで彼女の庭先に招かれたような、不思議な心地がする。
テーブルのメニューを俺の目の前に置いて、彼女は黙りこくっていた。慣れない店の空気でキャパシティオーバーしそうになる。
手持ち無沙汰になるのが恥ずかしくて、差し出されたメニューを開く。重い表紙に日に焼けた紙。飲み物類とサンドイッチ、デザート。バリエーションはそんなに多くはない。
「畑くんはなににする?」
そう口にした彼女は店に入ってから、一度もメニューを目にしていない。いつのまにか嶋田さんの目の前に置かれたコップの水は、半分ほど減っていた。
「嶋田さんは?」
「私はいいの。決めてるから」
彼女は長いまつ毛を伏せて、静かな声でしかしきっぱりと言った。
俺がようやくメニューを決め終えた頃合いで、マスターがやって来た。何度メニューを上から下まで眺めても結局選択肢は一つから増えなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
マスターは人の良さそうな笑みを浮かべて、俺たちを交互に見つめる。
「ホットコーヒーをお願いします」
あ、彼女の注文を先に言ってあげたらよかった。口に出してから気づいたが、もうどうしようもない。静かに慌てる俺の隣で澄んだはっきりとした声が聞こえた。
「私は、ショートケーキ」
「ホットコーヒーに、ショートケーキですね。かしこまりました」
にこやかな笑顔を浮かべたまま、マスターは去っていく。
俺は隣をちらりと見た。嶋田さん、ショートケーキ好きなんだ。
嶋田さんとショートケーキ。
なんだか不思議な組み合わせだった。彼女なら難しい英語の名前がついたケーキとか、コーヒーをブラックでとかだと思っていたのに。まあ、この店にそういった小難しい名前のケーキがあるかどうかは知らないが。
彼女の方をちらりと見る。情けないことに俺は向かい側に座る彼女の顔をまともに見ることが出来ない。
でも、心なしか桃色の薄い唇がほんの少し、ほんの少しだけ緩んでいるような気がした。あの夜の微笑みには程遠かったけれど。俺はまた慌てて目を逸らした。静寂を保つ店内に、心臓がばくばくと打つ音が聞こえそうだった。
「お待たせいたしました」
間もなく湯気を立てたコーヒーと、綺麗なお皿に乗ったショートケーキが姿を現した。真っ白なクリームに小さな苺が一粒。なんの変哲もない、俺でも知っている苺のショートケーキだ。
俺はミルクと砂糖をたっぷり入れて、おずおずとコーヒーカップに手を伸ばす。コーヒーを飲む瞬間に嶋田さんの顔を見れるだろうか、なんて考えながら。
その時だった。フォークを手に持った嶋田さんは何かを小さく呟いた。
「どうしたの?」
マグカップに伸ばした手を引っ込めて尋ねる。すると彼女はポーカーフェイスのまま忘れてたの、と口にした。
「忘れてたの、私。今日は畑くんに言うことがあったのに」
彼女は手元の水をまた一口飲み込んだ。
「嶋田さんが、俺に言うこと?」
「そう。今日はそう決めて誘ったの」
彼女から予想もしてなかった言葉が飛び出して、どきりとする。彼女が俺に言いたいことってなんだろう。やっぱり普段こっそり見ていることがバレていたとかだろうか。
いや別に違うんだ、邪な気持ちで見てたわけじゃない。でも好きな人が目の前にいたらついつい視線を奪われてしまうものじゃないか? だって、好きなんだから!
心の中で見苦しい言い訳を並べ立てる。嶋田さんは俺の方をちらりと見ると、銀色のフォークをそっと真白の地面に差し込んだ。
小さく息を吸う音がした。
「今このショートケーキを食べている間だけ、私を恋人にして」
それはコーヒーカップをひっくり返してしまうには十分すぎるぐらいの衝撃だった。俺は慌ててコーヒーカップを皿に着地させる。
「し、嶋田さん⁉︎」
喉から出た声がひっくり返った。指先が馬鹿にみたいに震える。心臓が言葉の代わりにばくばくと身体を揺らす。
「……やっぱり迷惑だった?」
ごめんねと続ける彼女は、俯いてショートケーキを一欠片口へ放り込む。相変わらず涼しげで平坦な声だった。
「変なこと言っちゃったね」
彼女はまた言葉を紡いで、フォークに手を伸ばす。冗談だとは思えない、けれどあまりに信じがたい。
柔らかなスポンジが銀色の小さなフォークで切り崩された。真っ赤な苺がころり、と転がり落ちて不恰好に着地する。小さく開いた口、伏せられた美しい双眼に息を飲む。コーヒーがふわふわと湯気を立てて冷めていく。
「どうしてそんなこと言うの?」
正直九割頷きかけていた。だって僕は彼女が好きなのだ。ずっと気になっていたのだから、風変わりな告白も、受け入れたっておかしくはなかった。
けれど気がついたらそう尋ねていた。真っ直ぐ見つめる丸い大きな瞳をじっと見返して。それは現時点でも自分がよくわからなくなるような不思議な感覚だった。
「私の告白が変だった?」
彼女は小さな子供みたいに首を傾げる。
「変じゃないけどさ、いや……やっぱり変だよな」
俺は一人で呟いて、真っ直ぐな視線に返す言葉を探す。
「私、特別がこわいの」
彼女そう言いながら、冷水のグラスに口を付ける。
コップが静かに置かれる。脈絡が無いようで、きっと彼女の中では意味が繋がっているんだろう。頷いて話を促した。
「どうしてそう思うの?」
少し視線を彷徨わせて彼女はふっと息を吐く。
「私ってゼミで少し浮いているでしょう? 昔からそうなの。みんなの中に溶け込みたいのに、いつも半分しか混ざれない」
彼女はそう吐き出すと、ゆっくりとケーキを一口分だけ割る。
「……うん、そうだな。みんなにとっては分からないけど、俺にとってはそうかも」
彼女はぱっと顔を上げて、俺の目を見つめた。
「私、特別なんかじゃないよ」
少し固い声。僕は彼女の言葉を慎重に、慎重になぞる。
「ね、嶋田さん」
頭の中で言葉を捏ねても、この瞬間に相応しい言葉は降りて来ない。
「嶋田さんの言うことは理解出来るんだ。でも、普通になりたい。友達だって沢山欲しいっていうのはすごく普通のことだと思う」
絡まった思考を解けないまま、舌の上に乗せる。すると、彼女はくすりと笑った。くすくす、くすくす。軽やかな笑い声。
「畑くんは面白いね」
「それって褒めてる?」
「もちろん」
嶋田さんは真面目な顔をして、即答した。
「畑くんてね。少しお調子者だけど、ちゃんと周りを見ていて。それでこういう相談を断り切れないでしょう?」
この歳になると自分の立ち位置はよく理解している。俺は気恥ずかしくなって、手元のコーヒーカップを持ち上げた。彼女がこんなに自分を見ているなんて、気づきもしなかった。嶋田さんがまた一口、ケーキを口に運ぶ。
「畑くんのこと、よく見てた」
「……みたいだね」
「あの教室では畑くんの向かい側で話せないから、今日はここへ誘ったの」
こんなこと、誰が想像しただろう。嶋田さんが、好きな人がこんな人間らしいことで悩んでいるだなんて。
「あの教室に戻ったら、きっと私はまた臆病になってしまうから。だから今だけ私の恋人になって」
いつのまにか、嶋田さんは綺麗にフォークを置いて僕をじっと見ていた。飴玉のような深い色の瞳がわずかに揺れていた。
ショートケーキはあと一口。俺は息を大きく吸った。心臓がばくばくと速度を上げていく。あと数秒待って欲しい。その一口は、まだ口にしないでくれ。
「なあ、それってショートケーキを食べ終わってからもってのはだめ?」
「え?」
「そんなに俺を見てくれているならさ、いっそのこと」
俺は二十一年間で最大の勇気を振り絞る。唇が震える。肺に流れるコーヒーの香りが苦い。心臓は躍動を増していく。
「特別って、そんなに悪いことかな?」
彼女の綺麗な目が、じわじわと大きく見開かれていく。長いまつ毛が双眼の上で微かに揺れていた。
「俺はさ、嶋田さんの特別になりたい。それで嶋田さんにも俺の特別になって欲しいんだけど」
そろりと遠慮がちに彼女が顔を上げた。
「そんなのって……」
真っ白な嶋田さんの肌が、苺みたいに赤に染まる。揺れた黒髪の隙間から覗く耳まで、同じ色。
「嶋田さん、俺の特別になって。そんでさ、出来たらまたあのかわいい笑顔見せてよ」
逃げ出したそうな、恥ずかしそうな顔で嶋田さんが笑った。そこにいつものポーカーフェイスは影も形もなくて。
俺は心の底からおかしくて愛おしくて、笑ってしまったんだ。
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