お人形さん

みや いちう

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お人形さん

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【それ】は秘密の地下室にあった。この世のものならず美しい、男の人形。静かな眉は秀で、青い両眸は空を見つめ、紅い唇は血塗られたように鮮やかで、今にも私の名を呼びそうに思えた。なんて美しい人形だろう。夢で映像で見たときそのままに、君人(きみひと)さまは現前していた。
「ああ......」
 私はたまらず声を発した。
「君人さま......」

 肌の合わぬ学校を無断で休んだのは、その日が初めてだった。【あのこと】があってから、私と学校は水と油のように一層互いに疎ましく、合わなくなっていた。
 私の高校は県下では進学校として知られていたが、入ってみればさして中学と変わらぬ、子供の集まりのように思えた。
 もともと友達の少ない私のことで、あのことがあってからますます、子供くさく、大人ぶっていれば恰好がいい、そう願いそうふるまう同級生を厭うようになった。自然の成り行きだろう。また、そのように思い、人に話しかけられても
「ああ」
とか
「はい」
としか言わなくなった壊れた人形のような私を、友たちが煙たがっていたのは知っていた。片思いのようでいて、実は両想いだったという訳だ。もちろん、この場合は負の方向にベクトルが向いた。孤立する私の唯一の慰めは、こっそり持ってきていたあの御方の写真を見ることだけだった。
 そうして独りぼっちになった私は、帰るさももちろん一人だった。
 なぜだったのだろう。細い路地の奥まったところにある、あの屋敷の前で歩を止めたのは。
 家に、帰りたくない。そんな思いが働いたのもある。それに、私を嘲り私が嘲るみなが脅える、幽霊館に入りたくなったのも、幾分あった。
 幽霊館というのは、クラスのお調子者が大声でふれまわっていた噂より名付けられた名だ。この木造二階建ての古臭い洋館のなかを、以前事故死した男の魂がうろつき回っていて、入ったら取付かれるという話だった。私は大声の喧伝ゆえ、偶然耳にしただけだが、内心は嘲笑したい気持ちでいっぱいだった。何だ。大人ぶって裏で煙草を吸い、教師の気配に身を震わすのと一緒で、この子らも内心は子供のように脅えている。
 そいつらに心中反旗を翻すつもりで、私は古びた洋館に入った。この洋館の名は蒼きヒツウ、というらしかった。蜘蛛の巣のかかったうっすら白い看板でそうと知れた。悲痛というのか、ともよぎったが、すぐに思い直した。私の住まうこの鄙の名は陽通市(ヒツウ)市というのであった。過疎が虫の這うようにひっそりと進み、人の去りゆくだけの鄙。
 中は意外に天井が高くとられ、ホールは白黒の市松模様の床で区切られていた。
 受付にいたお婆さん、かお爺さんかわからぬが、白髪を一つに結わえたしわくちゃの顔の人が、こっくりこくり眠っている。よほど深く眠っているらしく、私の足音にも反応を示さなかった。起こそうと靴音を高めてみたが、起きない。何か寝言でもぞもぞ言っているらしかった。
「――は、ると魂を持つからね」
 聞き取れない。
 私は仕方なく見料を置いて、この古びた寂れた人形館を巡った。無論、平日の昼のことで、誰の姿もない。いるのは完璧に精巧に造られた人形たちだけである。それなのに、誰かとめぐっているような感じがして、私はふいにあのお調子者の声が聞こえた気がした。
 「事故死した男の霊がめぐっている」
 思い出して一瞬びくりと身を震わしたが、
振り返っても誰の姿もない。歩を休めて一体の人形の前で私は眼を奪われた。それは美しい人形だった。金髪碧眼の、口元の艶やかな、色鮮やかな女の等身大の人形。これが表を歩き回ったらどうであろう。きっと人人は、これが人形だと恐れる前に、その美しさに打たれ振り返るのではないか、そう思う程だった。
 何かに招かれるように私は奥の、南京錠のひっかかった扉を開けてみた。それは重そうでいて、実に軽やかな扉だった。階段があった。ゆっくりと下る。地下に広がっていたのは、花畑であった。色紙で織られたようだった。幼稚園のときによく作ったものだ。
 その花園のなかに、かの人は立っていた。私がずっと焦がれていた、あの人。長身で、すらりとして、色彩豊かな、あの人。画面を突き破らないと会えぬと思っていたのに。死しても会えるかどうか、と思っていたのに。あの人はそこにいた。生きてはいない。人形である。けれどその人は、確かにそこに在った。
 ◆
 「あいつさあ、きもくない?」
  放課後、清掃委員の仕事を終えたときのことだった。花壇に生える雑草をむしり、それをごみ袋に入れて、処分したのちのこと。
  私は廊下をしめやかに歩いていた。ちょうどあのことがあって一周忌の日だったと記憶している。それもあって私は普段より一層毛嫌いしていた。あの煩わしい、騒がしい、この世の不幸を知らぬクラスメートたちを。
 そのクラスメートたちの声音はまるでひそやかにという感じではなく、むしろ水を浴びた植物のようにはつらつとしていた。それはその場にいるみなの心中の合意を察して発されているらしかった。
「あいつ、暁月、あつきって読むんだっけ? あいつって、全然しゃべらないうえに、あれだろ? 二次元の男が好きなんだろ? ちょっと十七にしては、幼稚だよなあ」
「知ってる? あいつこのあいだ放映されてたアニメの、君人、だっけ? あれが好きなんだぜ。休み時間中一人で写真見てにやにやしてんの。気色悪いよなあ」
 いや、にやにやはしてないよ。そう言いたかったのに、言葉が喉に張り付いてまるで出てこない。喉を厚い板で鬻がれたようだった。疎まれているのは知っていたが、それを放課にこんな形で知ら占められると、なぜだろう。どうでもいいはずなのに。息が苦しい。
「それでたまに一人で呟いてんだぜ、キミヒト様、って」
「きもーっ」
「やめろよ」
 そのとき、縊られている感じが少し、薄まった。幼馴染の、篤の少し怒気を孕んだような声が響いた。
「あいつのこと、悪く言うなよ」
 当然の反応だが、これに周囲は興を削がれたように押し黙った。そのうちあのお調子者の声が、沈黙を無理に破るように発された。
「な、なんだよお。お前、あいつのこと好きなのかあ」
 「......違うけど。あいつもいろいろ大変なんだよ。悪く、言うな」
 それきり篤の声も黙ってしまったので、教室はまるで葬式のように、声を発すと叱られるように誰かれ黙っている状態になった。とみえた。その隙を縫って、私は踵を返して閉じきられた扉の教室の前を去った。
 内心は、苦しみと、そして淡い安堵があった。よかった、篤はやっぱり、私のことが好きでなかった。篤のよく整えられた顔が思い起こされる。
 あのことを細かに知っているのは幼馴染の篤だけだし、それに同情を寄せてくれているのは、わかっていた。だからこそ、彼が怖かった。クラスメートで、かつて仲がよかった美人で人気者の絵梨香が、篤を狙っていたから。だから、揉めてただでさえ苦手なクラスに、これ以上いづらくなることは、死ぬほど厭だった。
 それだけ、なのか? とふいに自問してみる。違うのではないか。私は私と三次元を結ぶ扉を、壊して回りたかったのではないか。優しい篤を好くことは、すなわち二次元に夢見ることをやめ、三次元に胸襟を開くことに違いなかった。それが、その帰結がただ恐ろしかったのでは? 
 私は私と君人様を結ぶ扉が壊されるのを、恐れているのではなかったか? 


「ということがあったの、君人さま」
 私はあれ以来、ちょくちょく、といっても二週間に一度くらいのペースで、あの人形館に通っていた。目の前にいるのは白皙の美青年。君人さま。無論、他には誰もいない。
「私、見かけ以上に大変な身の上なの。でも、大丈夫。だって私にはもう、君人さまがいるもんね」
 ふと、私たち以外何も映らないはずの鏡を見やる。君人さまの背後で私たちを映す、白壁にはめこまれた鏡。それは確かに私のことも映していた。かつて没頭していた水泳のおかげで、仄かに脱色された髪。人形みたいと言われた白い静かな顔。どこといって難はないらしいが、表情の乏しい顔だ、とも言われたものだ。
「もっと笑いなさいよ、って、あの人たちによく言われたんだ。でも、無理だよ。あの家で声高く笑うなんて。そう思うでしょ。君人さまも、ね?」
 君人さまは音もたてずに微笑んだ。気がした。気のせいか、とも思う。
 軽いめまいがしている。今日、昼に何も食べなかったせいだろうか。気分が少し悪い。
「――もう五時半だ。そろそろ帰るね。君人さま」
 その時だった。君人さまがかすかに、瞬きしたように見えた。まるでいかないで、というように。
「う、そ......」
 私のこころは歓喜と驚きと、仄かな恐怖を一瞬で巡り巡った。している、ほら、今もした。君人さまが瞬きをした。
「君人さま、生きているの......?」
「んな訳ないだろうが」
 そこで、私の意識は突然に現実に引き戻された。この声、間違いない。篤の声だ。
 でも、どこから?
ふいに、振り返った先の扉が開いて、現れたのは篤だった。
「何やってんだ、お前」
 私は思わず顔を赤らめて、首を振った。
「ううん、何もしてない」
「嘘つけ、上までまる聞こえなんだよ。お前が人形に話しかけてるの」
「うそ......」
「古い建物だからな」
 篤は嘆息しているみたいだった。私は恥ずかしくて顔もあげられない。
 篤にほれ、と手を引かれて、私は再び屋敷のそとに出た。その後で篤が言った。
「あの受付のお婆ちゃんな、俺の親戚なんだよ。前から言ってたんだ。お前と同じ制服の子がうろちょろしてるって。さすがに、声までは聞き取れなったらしいけどな」
「うそ......」
「ここのオーナーなんだよ。だから婆ちゃんの様子も見がてら気になって来てみたんだ」
 婆ちゃんが、気になって? ああ、もう御年だから、か、とは自然に合点した。
「うろつくのは人形みたいに綺麗な子だとも言っていたから、お前かと思って」
 そしたら声が聞こえるじゃねえか。そうまで言って、篤は顔を背けた。私はまた赤面した。
「お前、もうここに寄り付かない方がいいよ」
「え......」
「学校でも噂になってんだよ。お前があの幽霊屋敷に通ってるって」
 思わず絶句してしまった。誰から聞いたの?とは言えなかった。たぶん、あの私を気味悪がり、嫌うクラスの誰かだと思ったから。押し黙る私を一瞥し、篤がまた顔を背けた。
「とにかく、もう、あの人形に話しかけるのやめろよな。俺がかわりに聞いてやるから」
 あっと、今度は篤が顔を赤らめたのがわかった。私の胸に、緊迫感が広がっていく。まずい。やめて、やめて。嬉しいより先に、絵梨香の顔と危機感がやってきて、私を苛む。それを見抜いたかのように。
「あ、違うって、そういう意味じゃなくて、クラスメートとしての親切だからな!?」
 篤の顔が上気していくのを、私はよほど厭そうな顔で見つめていたに違いない。今度は篤が言葉を失してしまった。それへ私が。
「......いい」
 と静かに言い放った。
「なんでだよ」
「いいったらいい」
「なんで!?」
 痛い、篤が私の腕を力強くつかむ。まるでそれは、夢うつつの世界にまどろむ私を起こす現実の使者みたいで、私は困惑した。
「いいと言ったらいいの。篤に、わかる訳ない」
 そう、だって篤は幸福な人だから。私の孤独なんて、解せる訳、ない。それに。私には君人さまとの世界があるの。それに土足で突然入ってこないで。ここは二人だけの世界なの。そう思うと、一瞬酩酊したかのような感覚を覚えた。


 父と母が揃って突然亡くなったのは、一年とちょっと前のこと。山肌を縫った峠での交通事故だった。現場にブレーキ痕がなかったと言って、私を引き取った叔父伯母は警察に念入りに事情聴取されたと聞いた。ある日の夜中、トイレに立つ私に、リビングから夫婦の会話が聞こえてきた。
「もう何度聞かれたかしらねえ。何か、思い悩んでいた様子がなかったかって」
「きっと我が子のことじゃないの。あんな不愛想で冷たい子がいたら、将来も悲観したくなるわよねえ」
「ほんと、あの子は小さいときからずっと笑わないんだから。いつもこっちを軽蔑するような瞳で見て」
「迷惑極まりないわ。あんな子を残してとっとと死んじゃうなんて」
 ああ、早く死にたい。慇懃な叔父夫婦の態度は分かっていたけれど、ここまで思われているとは。頭を鈍器で集中的に殴られているようだった。頭部が緊張で狭められて、今にもへこんでいきそうだ。
 そのとき初めて思わされた。ああ、早く死にたい、と。

 君人さまに出会ったのはその頃だった。
「これ、買ってきたからね」
 と、叔父伯母から相変わらず慇懃な態度で渡されたのは、パソコンだった。それが渡されたのは
「実子とは直接遊ぶから、お前はこれで一人で過ごしてね」
という意味だとは、あの会話を聞いていたから、すぐに解せた。
 一人であてがわれた狭い部屋にこもり、パソコンの画面を開く。つまらない動画サイト。そこに現れたのが君人さまだった。彼は眉目秀麗ながら、血塗られた魔族の末で、主人公の肉を食べまいとひたすらに耐えるという設定だと知った。自分の生まれた運命を呪いながら、美しい主人公を仄かに慕う、見目麗しい王子様。私はすぐに夢中になった。自分と彼の運命を重ね合わせたのかもしれないし、見目美しいと思って慕ったかもわからない。 
 とにかくすぐに惚れこんで、密かな楽しみになった。学校で幸せな人たちの相手をするのも、ほとほと倦んできた頃だった。私はまさに彼のために生きていた。自死しなかったのも、生きていたら彼に会えるかもしれない、そう思っていた故だった。
 それが絶望的に不可能だと、知っていながら。
 会えるはずがなかった。君人さまは二次元だからこそ、こんなに完璧で美しいのだと、自分でも理解していた。けれど諦めきれなかった。叔父夫婦が実子を優先し、私名義の遺産も使い込まれ、夢だった大学進学も諦めねばならなくなった今、生きる希望は彼だけとなった。

「君人さま、どうしたらあなたと幸せになれますか」
 篤の煩わしい忠告を無視し、君人さまに会いに行ったのは、一週間後のことだった。このところ、ストレスからだろうか、物を美味しく感じなくなって、めっきり食も細くなった。そのせいだと思う。最近は少し歩いただけで眩暈を起こすようになり、ますます学校に行かず、登校途中に保健室に駆け込むようにこの人形館に通い詰めた。
 君人さまに会うと安心できる。家でも学校でも出来なかった息が出来る。眩暈が突然起こっては酩酊を呼び起こすけれど、大丈夫。君人さまと会っているだけで傷も禍根も癒される。
「あなたと本当に出会うには、私は死ななくてはいけないのですか......?」
 そう尋ねると、君人さまはまた瞬きをして、こちらを見据えた。そうして口を開いた。
「何を言っているのだ。もう会っているではないか」
 喋った......。私は動悸がして、心臓が宙に浮くような感じを覚えた。嘘......。確かにこの眼前の君人さまが、話しかけてくれた。生きている。君人さまは、生きている......。私は涙を振りこぼして、すぐに床になだれた。

「暁月っ暁月っしっかりしろ!!」
 私は気がついたら外のベンチに寝かされていた。空が青い。ああ、なんと現実は疎ましい色合いなのだろう。そう空をぼんやりと疎んだ。私の視界には、君人さまではなく、篤がいて、青ざめた顔でこの体をゆすっていた。
「暁月、起きたな! 大丈夫かっ病院行くか病院!!」
「ん......大丈夫」
「お前、地下室に倒れてたんだよ! 急いでここに運んで、ゆすったら起きたからいいものの! もうあの人形に近づくなって言ったろ! 学校に来ていないから、心配して来てみたらこのざまだっ」
 お婆ちゃんじゃ気が付かないだろうし。そう小さくつけ加えたのを、私のゆっくりと回復しつつあった聴力は漏らさなかった。
「いいかっあの人形はかなりやばい人形なんだ! きっとお前の生きる力を、あれが奪っているんだっもう近づくなっ」
「無理......」
 だって、あの人が、私を絶望の底から救いだしてくれたあの人が、私を見て、微笑んでくれたのだもの。今生では絶対会えないと思っていたのに、出会ってしまったのだもの。  
 でも、今は篤の力強い腕をとって、安堵している自分もいる。どうしてなのだろう、本当に私が欲しかったのは、人形の冷たい美しさより、本物の人間の温かさだったというの? 私の眼は涙を浮かべてはこぼしていた。もはや分からない。
 私は何を悲しみ、そして安堵しているの?
 
 ◆
 次の日はさすがに気が咎めて、おとなしく学校へ行った。相変わらず私は一人だったけれど、もうあの写真を見てほっとする癖はいずこへか姿をくらましていた。どうして、なのだろう。篤がいるから? それとも、本物に会えたからもう、写真は要らないというのだろうか。
 清掃委員の仕事を終えた放課後、私は鞄を取りに閉じきられた教室のドアに手をかけた。何やら声がする。男と女の声だ。
「だからさあ、あの子は無理だよ。もう構うのやめなって! 」
 これは、絵梨香の声だ、とすぐに分かった。
少しきつい調子の、高すぎるような、女特有の声。
 まさか、告白? それにしては随分騒がしい声音だ。思わず入るのを躊躇う。
「確かに篤にとっては幼馴染かもしれないけど、今は私がいるじゃん!」
 え......。私の脳は一瞬停止して、すぐに正答を導き出そうとして、また停止した。
「そんなにあの子が大事なの!? 私より?」
「いや......」
「言ったじゃん、あの子は幽霊屋敷に通う変な子なの! 二次元に本気で恋してるちょっと気持ち悪い子なの! わかっているでしょう!?」
「わかってるけどさ」
「それに、私の方が篤君のこと、大事に大切に思ってるってことだって、わかってるでしょ......?」
「絵梨香......」
 教室から漏れ出す沈黙。無音が霧散して廊下にも伝わる。それが何を意味しているか、分からない私でもなかった。何だろう。頭がくらくらする。私の足は自然踵を返していた。そのとき。
「あっ」
 二人がカップルにふさわしからぬ鋭い声を出した。カーテンを閉めようとしたその隙に、それは瞳に映し出されたらしかった。
「何あれ。煙......」
「あれは......お婆ちゃんの店の方だっ」
 え......。
 私は我ながら荒い足取りで、気が付けば屋敷の方角に走っていた。
「君人さまっ」
「暁月っお前っ」
 教室のドアを急いて開けたのはやはり篤だった。けれど彼にかまってはいられない。

 君人さまは、動けないんだ。あそこで私に話しかけ、微笑むくらいしか出来ない。道路を走り抜け、立ち昇る黒煙の根本を眼で探す。ああ、やはり幽霊屋敷だ! そこにたどり着く途中、消防とすれ違った。今は帰宅時で道が混んでいて、車がどけても私の足の方が速い。
「うわあ、本当に火事だよ」
「これ中にいる人ダメなんじゃないか」
 幽霊屋敷の少し離れたところより、みなが携帯をかざして撮影している。屋敷を食い荒らし、燃え盛る火事の様子を。
「君人さまっ」
 私は思わずそう声を発して、気が付いたら炎に飲まれる屋敷の中に飛び込んでいた。瞬時のことで、行く手を阻む人の手もなかった。
 足の裏が熱い。屋敷が燃え盛っている。けれど私の胸には安堵が広がっていた。燃え盛る柱と、炎から逃れて着いた地下はまだ熱が届いていなかった。まるで神域のように、冷え切って静謐な時間がそこにあった。
「君人さま......」
 私がそう声をかけて、変わらず美しい人形に近づく。
「一緒に、逃げましょう」
 そう続けようとした、その時だった。私の身体は恐怖に肌泡立った。突如、強い力で私の腕を掴んだものがある。それは人形の手だった。白くて、強い力を持つ、手。
「君、人、さま......?」
 まるでここにいて一緒に焼け焦げようね、と言うように、その腕は私を離さなかった。
ドンと背後から音がして、天井の一部が焼け焦げて落ちた。鼻に熱の匂いがせまる。
「君人さま......いやっいやああああっ」
 私は次には恐怖に叫びまわっていた。恐ろしかった。死が目の前に降り立つと、喉が切り裂かれたように緊迫した。眩暈がとまらない。人形は手を離してくれない。声が声にならない。わめきちらしてのたうっていた先で、消防の人の強い手が私を救った。そこで意識が途切れた。

  消防隊員に助けられ怒鳴られて、解放されたのちに、私はしずしず現れた篤に話を聞いた。
 あの人形は、篤のいとこだった。受付のお婆ちゃんの自慢の孫息子を生き写したものだった。そのお孫さんは事故で死んでいたということ。お婆ちゃんはそのショックか痴ほうが進んでいたことを、知った。
「お婆ちゃんは毎日あの人形に話しかけてたんだ」
 もうそれも、出来なくなったけど。
 お婆ちゃんは逃げ遅れて命は助かったが、喉が焼け切れて声が出なくなったということも、その時知れた。 
「あの人形を遠くにやると、お婆ちゃんは泣きわめいて首を切って自殺未遂を起こした。近くに置いておくと気も休まるらしかった。だから、あれを地下室に閉じ込めた。あれは人の精神を壊して喰らう、呪われた人形のような気がしたから。それに」
 人形は話しかけると、魂を持つというから。 
 そう、だったのか――、私はふいに眼がしらが熱くなって、その場にしゃがみ込んだ。何が悲しかったのかは、分からない。

 次の日、一人でお婆ちゃんの見舞いに行き、帰宅して無人の自室に戻ったとき、私はふいに声を漏らした。
「君人......さま......」
 薄闇の延べられたベッドの上には君人さまの生首があった。自分で来たのか、それとも持ってきたのか、それさえも分からない。ただわかっていることは、君人さまは魔族の末で、人を本当は喰らいたがっているということだった。
「人形は話しかけると魂を持つからね」
 ふと、そんな声がよぎった。抱き上げた君人さまの生首。その口元に、牙が覗いた気がした。
                   了

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