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二章
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◆◆第二章
マリアンヌは夢を見ていた。この上なく美しい自分の主人と、花畑を二人手を取って歩いている夢。自分のおなかは心なしか膨らんでいるようだ。この上なく幸福に見える。だがその幸夢も長くは続かなかった。突然、花畑に火が点じられ、あたりが燃え盛った。雷まで降ってきて、次には夢の奥から黒い腕が伸びてきて、自分の首を絞め始めた。苦しい、誰か、誰か助けて!!
はっと、マリアンヌは目覚めた。ああ、夢でよかった、と思うと同時に、首に何か違和感を覚えた。何だろう、唾が飲み込みにくい。とにかく水を……と思い、水差しを探しに立つと、ベッドの隣にネグリジェを纏った男が眠っていたのが見えた。ひゃぴー!!! と、マリアンヌは悲鳴を上げそうになったが、王家の教育の賜物で、恥を忘れて叫ぶことはこらえた。ま、まさか自分は、いくら自分の夫だと言えども、さっそくその、そういったことをしてしまったのだろうか。姫はとりあえず、自分の乱れていないネグリジェとガウンを見、ほっと心をやすらげたが、それだけではこころもとない。
「ん……」
マリアンヌのどたばた騒ぎに、目を覚ました青年ミカエルは、そっとマリアンヌへ秋波を送ってみせた。
「ふん、マリアンヌ、お前の媚態、なかなか可愛らしくてよかったぞ……ってぎゃああ」
これを聞いたなり、ミカエルはマリアンヌより鼻血のシャワーを浴びせられ、雄叫びをあげた。慌てて三人の侍従が走り寄ってくる。
「どうか」
「どうかなさいましたか殿下、妃殿下」
「ちなみに昨夜は二人ともぐっすりお眠りでいらしましたよ」
え、とマリアンヌが鼻血をふきふき、夫君に目を転ずると、ミカエルが笑い出した。
「ただからかいたかっただけなのに、鼻血のシャワーを朝からかけられるとは、参ったな」
「も、申し訳ありません。ですが」
「俺はただお前が心配だったので、そばにいて守りたかったのだ」
ミカエルのこちらを見ないで告げる愛の言葉に、マリアンヌが、もうっ! といきり立つ。
「どうして殿下は、わたくしのことをこうまでとろかすのでしょうね」
「さあてな」
ミカエルが着替えに部屋を辞そうとした時、マリアンヌに向けたその一瞥に一瞬恐怖の色が浮かんでいた。
「マリアンヌ、それは……」
「え?」
「その、首……」
マリアンヌが鏡で慌てて自分の首を見つめる。そこには確かに、人間の赤い手形がべったりついていた。
◆ 朝食の間で二人並んでパテを食す。マリアンヌの心中は複雑だった。その主な原因は、ミカエルが自分に、何かを隠しているのではないか、ということだった。あの恐ろしい夢、赤い手形。そしてミカエルの、
「心配だから、守りたい」という一言。
(殿下はわたくしに何かを隠しているのではないのかしら)
けれど、先ほどから浮かない顔のミカエルには、訊くことがはばかられた。その朝の席で、朝食が終わったあとに、侍従の一人が声をあげた。
「殿下、そういえば、あのお話はいかがいたしましょうか」
あの話? とマリアンヌが思わず顔をもたげる。ミカエルがふっと声を発する。
「あの、魔族によって、我が国の子どもたちがさらわれている、という事件か」
「はい、一度行かせた小部隊も、昨日全滅したと知らせがありました」
はあ、とミカエルが嘆息する。
「敵は手ごわいらしいな、こうなっては俺様が往くしかあるまいか」
「へえ、誘拐なんてあるのか。その事件の解決に王太子が赴くとなると、国民感情もよりよくなることであろうな」
あれ? とみなみな振り向いた。気が付くと朝食の間の青い壁をすり抜けて、魔王の末が現れた。
「ルシフェール!!」
「ルシフェール様!!」
ミカエルもマリアンヌもほぼ同時に声をあげた。その黒衣に包まれた長身の体躯は変わりなく優雅である。
「にしてもそんな事件があったとはねえ。それは王太子様としても解決せねばなるまいねえ」
「何他人事みたいに言ってんだお前の手下の仕業だろ絶対」
これにルシフェールが静かに笑んだ。
「……さあてね」
「とにかく!」
ミカエルががたっと椅子をひき席を立ち、二人と、侍従たちに向けて告げた。
「俺様は子供たちがさらわれたという黒き森へ行く。お前らは優雅にハーブティーでも飲んでろ。じゃあな」
「わたくしも行きます!!」
「危険な旅だ。お前を連れていく訳にはいかぬ」
ミカエルの断固として調子にも、マリアンヌはひかなかった。
「だって、お城でこのルシフェール様とご一緒にいる方が身の危険を感じますもの。それに……」
マリアンヌは気が付いていた。先ほどからミカエルとルシフェール、この二人は自分に気が付かれぬように、意味深長な目くばせをしていた。それはあるいは、何か秘密があるのかもしれない。夢の中にまで自分を縊りに来た何者かと、関係があるのかもしれない。
だから、一緒に行きたかった。一人でその【縊りし者】と闘おうとしている主人を、ほうってはおけぬと思ったのである。
「では、俺も行こう。陰ながらお前たちを守ってやろうではないか」
魔王がそう言うと、ますますマリアンヌの喉には弾みがついて。
「お願いしますミカエル様っ簡単ならおにぎりも握れますからっ」
「簡単なおにぎりっておにぎりは全部簡単だろうが!!」
そう切れ味悪く突っ込んだところで、ミカエルも、その縊りし者におびえるマリアンヌをほうってはおけぬと思ったのだろう。
「仕方、あるまいな」
と、同行をしぶしぶ承知した。
「俺様は準備のために部屋を出るが、お前らも準備は怠るなよ! 一分四十秒でしたくしろよな!」
どっかの船長みたいなことを言ってのけ、ミカエルは部屋を出ていった。
二人きりになると、この上なく美しい魔王子はにやつきながら、マリアンヌの顎に手をあてた。
「なあ、マリアンヌ。あんな男などやめて、私のものにならないか? 」
まっ! これにドキドキはしたが、マリアンヌの鼻は決して血を吹き出そうとはしなかった。あるいは、恋愛感情が一切なくてそうなるのかもしれない。それゆえマリアンヌには、この戯れの言葉をうまくあしらえるような余裕さえ与えられた気がするのだった。
「あら、皇太子殿下は、アルカスの巫女様のことはもう、お諦めになったのですね?」
おや、と、ルシフェールは眼を見開いた。
「おや、おや。そこまで知っているとは、なかなか油断ならないねえ」
それからくす、と微笑して。
「アルカスの巫女……その凄まじい力を、欲しいと思った時もあった。差別され侮蔑される魔族の為に、ね。けれど、私はね、決してそれとは結ばれないのだよ。それゆえ、我ら魔族は、これからも差別されるしかないのだ」
まあ、なんて悲しいことを……。そうは思いながら、マリアンヌはいつぞやの婚礼を定める日のことを思い出した。ばあやからの口添えもあったにせよ、確かに自分は、闇の皇太子ではなく、光の皇太子を選んだ。その選択は、間違っていなかったといまでも信じられる。けれど、その一方で、選ばれなかった者の気持ちを、少しでも考えたことはあったか、なかったか。まして断ったその理由は、ただ「もとは魔族だったから」。今になってようやく直視することが出来る。
確かに、自分の中には差別する汚いこころがあったのだ。
「ん?」
ルシフェールがマリアンヌの顔を見てやや驚いた風を見せた。彼女のまなこに、涙が浮かんではこぼれていく。
「どうしたんだい可愛いマリアンヌよ」
「ルシフェール様、ごめんなさい、ごめん、なさい……」
涙を振りこぼし、拭う仕草すらしないマリアンヌを、ルシフェールは慈愛に満ちた顔で見つめた。
「お馬鹿さんだね、そんなことは、気にしなくていいのだよ。さあ、元の闊達なお前に戻っておくれ。私はお前の明るいところが、友として大好きなのだからね」
――マリアンヌの美しい涙が触れると、首筋の赤い手形が少し薄らいでいくことは、ルシフェールしか気が付かなかったようであった。そうしてマリアンヌと、少しの軍部を連れて、ミカエルは黒き森に入った。そこは木々がとろけた腕のように葉をしげらせ、怪鳥が啼き、天気まで曇天に感じさせる、恐ろしい場所であった。
「いいか、決して俺様から離れるんじゃないぞ」
そうマリアンヌにミカエルは言い置いてすぐ、木々からとびかかってきたミニデビルを打ち据えた。
ミニデビルがぎゃあぎゃあわめきながら、その黒き小さな体をまるめ闇に消えていく。
「ちっ仲間を呼びにいったか」
ミカエルの読みは外れなく、ミニデビルがその後で、一斉に群がってきた。
「きゃあああああ」
思わずマリアンヌが悲鳴をあげる。しかし次の瞬間。
「ぐおおおおお」
まるで山賊のかしらのような声をあげて、姫はミニデビルを一匹、一匹と蹴り上げていく。口では「怖い怖いいい」と言いながら。
「……一番怖いのはお前だよ」
ミカエルは苦笑しながらマリアンヌの肩を抱いた。
◆
「いよいよ、たどり着いたか」
何者かの足跡を辿り、着いた先は古い、茶褐色の城であった。あたりは烏が啼き交わし、空も今にも泣き出しそうな黒い顔で、おどろおどろしい雰囲気である。
「マリアンヌ、ここからは、絶対に俺から離れるなよ」
そう念入りに忠告して、ミカエルは軍部を率い城の内部へ入った。中はボロボロだった。ところどころ皮膚のような色合いの壁が朽ちかけ、床も踏むと皮膚のようにへこんでしなった。
階をあがるごとに、その惨状はますます残忍なものへ変じていく。いたるところに鳥籠があり、その中で首をもたげた死体が骨だけの羽で風にそよいでいた。
「マリアンヌ、見るな」
ミカエルが思わず語気を強めたしなめる。
最上階の奥に向かうと、そこには壁に打ち付けられた、手錠と足かせがあった。
「これは……」
ミカエルとマリアンヌが近寄ってじいと見る。マリアンヌは戦慄しそうになった。その錠は、決して解かれていない。けれど、これにはめこまれた者は、この場にいない。ということは、やせこけてすり抜けたか、あるいは――。
(死して、死体だけが抜け出したか、だわ……)
あまりの恐ろしさに、眩暈を起しそうになりながら、ミカエルには心配をかけまいと、マリアンヌは気丈に凛呼としていた。それにしても。
(ここに住まわれていた方は、一体どんな生活を……)
その時である。
「きゃっ」
マリアンヌの足を、何者かがさらった。転んで床にたたきつけられたマリアンヌは、自分の足に絡みつく何かを認めた。それは黒い手だった。指がある。人間の手だ。禍々しく、闇から造られたように漆黒の色合いの。それがどこからか伸びてきて、自分をさらおうとしている。
「いっいやあ」
黒手はそのままずるずるとマリアンヌをさらっていく。まるで抗えぬ波に引かれるように。
「マリアンヌ!! 」
ミカエルが必死にマリアンヌの腕を引っ張るが、黒手はまるで情も微塵もなくマリアンヌの足を引きずり、いずこへかさらっていく。
マリアンヌの肌に怖気がたつ。おそらく、この手が連れていく先に、何か、いるのだ。自分を縊ろうとした、何かが。
「ミカエル、さ、ま……いやっいやああああ!!」
そのままマリアンヌの意識は失われた。
マリアンヌは夢を見ていた。この上なく美しい自分の主人と、花畑を二人手を取って歩いている夢。自分のおなかは心なしか膨らんでいるようだ。この上なく幸福に見える。だがその幸夢も長くは続かなかった。突然、花畑に火が点じられ、あたりが燃え盛った。雷まで降ってきて、次には夢の奥から黒い腕が伸びてきて、自分の首を絞め始めた。苦しい、誰か、誰か助けて!!
はっと、マリアンヌは目覚めた。ああ、夢でよかった、と思うと同時に、首に何か違和感を覚えた。何だろう、唾が飲み込みにくい。とにかく水を……と思い、水差しを探しに立つと、ベッドの隣にネグリジェを纏った男が眠っていたのが見えた。ひゃぴー!!! と、マリアンヌは悲鳴を上げそうになったが、王家の教育の賜物で、恥を忘れて叫ぶことはこらえた。ま、まさか自分は、いくら自分の夫だと言えども、さっそくその、そういったことをしてしまったのだろうか。姫はとりあえず、自分の乱れていないネグリジェとガウンを見、ほっと心をやすらげたが、それだけではこころもとない。
「ん……」
マリアンヌのどたばた騒ぎに、目を覚ました青年ミカエルは、そっとマリアンヌへ秋波を送ってみせた。
「ふん、マリアンヌ、お前の媚態、なかなか可愛らしくてよかったぞ……ってぎゃああ」
これを聞いたなり、ミカエルはマリアンヌより鼻血のシャワーを浴びせられ、雄叫びをあげた。慌てて三人の侍従が走り寄ってくる。
「どうか」
「どうかなさいましたか殿下、妃殿下」
「ちなみに昨夜は二人ともぐっすりお眠りでいらしましたよ」
え、とマリアンヌが鼻血をふきふき、夫君に目を転ずると、ミカエルが笑い出した。
「ただからかいたかっただけなのに、鼻血のシャワーを朝からかけられるとは、参ったな」
「も、申し訳ありません。ですが」
「俺はただお前が心配だったので、そばにいて守りたかったのだ」
ミカエルのこちらを見ないで告げる愛の言葉に、マリアンヌが、もうっ! といきり立つ。
「どうして殿下は、わたくしのことをこうまでとろかすのでしょうね」
「さあてな」
ミカエルが着替えに部屋を辞そうとした時、マリアンヌに向けたその一瞥に一瞬恐怖の色が浮かんでいた。
「マリアンヌ、それは……」
「え?」
「その、首……」
マリアンヌが鏡で慌てて自分の首を見つめる。そこには確かに、人間の赤い手形がべったりついていた。
◆ 朝食の間で二人並んでパテを食す。マリアンヌの心中は複雑だった。その主な原因は、ミカエルが自分に、何かを隠しているのではないか、ということだった。あの恐ろしい夢、赤い手形。そしてミカエルの、
「心配だから、守りたい」という一言。
(殿下はわたくしに何かを隠しているのではないのかしら)
けれど、先ほどから浮かない顔のミカエルには、訊くことがはばかられた。その朝の席で、朝食が終わったあとに、侍従の一人が声をあげた。
「殿下、そういえば、あのお話はいかがいたしましょうか」
あの話? とマリアンヌが思わず顔をもたげる。ミカエルがふっと声を発する。
「あの、魔族によって、我が国の子どもたちがさらわれている、という事件か」
「はい、一度行かせた小部隊も、昨日全滅したと知らせがありました」
はあ、とミカエルが嘆息する。
「敵は手ごわいらしいな、こうなっては俺様が往くしかあるまいか」
「へえ、誘拐なんてあるのか。その事件の解決に王太子が赴くとなると、国民感情もよりよくなることであろうな」
あれ? とみなみな振り向いた。気が付くと朝食の間の青い壁をすり抜けて、魔王の末が現れた。
「ルシフェール!!」
「ルシフェール様!!」
ミカエルもマリアンヌもほぼ同時に声をあげた。その黒衣に包まれた長身の体躯は変わりなく優雅である。
「にしてもそんな事件があったとはねえ。それは王太子様としても解決せねばなるまいねえ」
「何他人事みたいに言ってんだお前の手下の仕業だろ絶対」
これにルシフェールが静かに笑んだ。
「……さあてね」
「とにかく!」
ミカエルががたっと椅子をひき席を立ち、二人と、侍従たちに向けて告げた。
「俺様は子供たちがさらわれたという黒き森へ行く。お前らは優雅にハーブティーでも飲んでろ。じゃあな」
「わたくしも行きます!!」
「危険な旅だ。お前を連れていく訳にはいかぬ」
ミカエルの断固として調子にも、マリアンヌはひかなかった。
「だって、お城でこのルシフェール様とご一緒にいる方が身の危険を感じますもの。それに……」
マリアンヌは気が付いていた。先ほどからミカエルとルシフェール、この二人は自分に気が付かれぬように、意味深長な目くばせをしていた。それはあるいは、何か秘密があるのかもしれない。夢の中にまで自分を縊りに来た何者かと、関係があるのかもしれない。
だから、一緒に行きたかった。一人でその【縊りし者】と闘おうとしている主人を、ほうってはおけぬと思ったのである。
「では、俺も行こう。陰ながらお前たちを守ってやろうではないか」
魔王がそう言うと、ますますマリアンヌの喉には弾みがついて。
「お願いしますミカエル様っ簡単ならおにぎりも握れますからっ」
「簡単なおにぎりっておにぎりは全部簡単だろうが!!」
そう切れ味悪く突っ込んだところで、ミカエルも、その縊りし者におびえるマリアンヌをほうってはおけぬと思ったのだろう。
「仕方、あるまいな」
と、同行をしぶしぶ承知した。
「俺様は準備のために部屋を出るが、お前らも準備は怠るなよ! 一分四十秒でしたくしろよな!」
どっかの船長みたいなことを言ってのけ、ミカエルは部屋を出ていった。
二人きりになると、この上なく美しい魔王子はにやつきながら、マリアンヌの顎に手をあてた。
「なあ、マリアンヌ。あんな男などやめて、私のものにならないか? 」
まっ! これにドキドキはしたが、マリアンヌの鼻は決して血を吹き出そうとはしなかった。あるいは、恋愛感情が一切なくてそうなるのかもしれない。それゆえマリアンヌには、この戯れの言葉をうまくあしらえるような余裕さえ与えられた気がするのだった。
「あら、皇太子殿下は、アルカスの巫女様のことはもう、お諦めになったのですね?」
おや、と、ルシフェールは眼を見開いた。
「おや、おや。そこまで知っているとは、なかなか油断ならないねえ」
それからくす、と微笑して。
「アルカスの巫女……その凄まじい力を、欲しいと思った時もあった。差別され侮蔑される魔族の為に、ね。けれど、私はね、決してそれとは結ばれないのだよ。それゆえ、我ら魔族は、これからも差別されるしかないのだ」
まあ、なんて悲しいことを……。そうは思いながら、マリアンヌはいつぞやの婚礼を定める日のことを思い出した。ばあやからの口添えもあったにせよ、確かに自分は、闇の皇太子ではなく、光の皇太子を選んだ。その選択は、間違っていなかったといまでも信じられる。けれど、その一方で、選ばれなかった者の気持ちを、少しでも考えたことはあったか、なかったか。まして断ったその理由は、ただ「もとは魔族だったから」。今になってようやく直視することが出来る。
確かに、自分の中には差別する汚いこころがあったのだ。
「ん?」
ルシフェールがマリアンヌの顔を見てやや驚いた風を見せた。彼女のまなこに、涙が浮かんではこぼれていく。
「どうしたんだい可愛いマリアンヌよ」
「ルシフェール様、ごめんなさい、ごめん、なさい……」
涙を振りこぼし、拭う仕草すらしないマリアンヌを、ルシフェールは慈愛に満ちた顔で見つめた。
「お馬鹿さんだね、そんなことは、気にしなくていいのだよ。さあ、元の闊達なお前に戻っておくれ。私はお前の明るいところが、友として大好きなのだからね」
――マリアンヌの美しい涙が触れると、首筋の赤い手形が少し薄らいでいくことは、ルシフェールしか気が付かなかったようであった。そうしてマリアンヌと、少しの軍部を連れて、ミカエルは黒き森に入った。そこは木々がとろけた腕のように葉をしげらせ、怪鳥が啼き、天気まで曇天に感じさせる、恐ろしい場所であった。
「いいか、決して俺様から離れるんじゃないぞ」
そうマリアンヌにミカエルは言い置いてすぐ、木々からとびかかってきたミニデビルを打ち据えた。
ミニデビルがぎゃあぎゃあわめきながら、その黒き小さな体をまるめ闇に消えていく。
「ちっ仲間を呼びにいったか」
ミカエルの読みは外れなく、ミニデビルがその後で、一斉に群がってきた。
「きゃあああああ」
思わずマリアンヌが悲鳴をあげる。しかし次の瞬間。
「ぐおおおおお」
まるで山賊のかしらのような声をあげて、姫はミニデビルを一匹、一匹と蹴り上げていく。口では「怖い怖いいい」と言いながら。
「……一番怖いのはお前だよ」
ミカエルは苦笑しながらマリアンヌの肩を抱いた。
◆
「いよいよ、たどり着いたか」
何者かの足跡を辿り、着いた先は古い、茶褐色の城であった。あたりは烏が啼き交わし、空も今にも泣き出しそうな黒い顔で、おどろおどろしい雰囲気である。
「マリアンヌ、ここからは、絶対に俺から離れるなよ」
そう念入りに忠告して、ミカエルは軍部を率い城の内部へ入った。中はボロボロだった。ところどころ皮膚のような色合いの壁が朽ちかけ、床も踏むと皮膚のようにへこんでしなった。
階をあがるごとに、その惨状はますます残忍なものへ変じていく。いたるところに鳥籠があり、その中で首をもたげた死体が骨だけの羽で風にそよいでいた。
「マリアンヌ、見るな」
ミカエルが思わず語気を強めたしなめる。
最上階の奥に向かうと、そこには壁に打ち付けられた、手錠と足かせがあった。
「これは……」
ミカエルとマリアンヌが近寄ってじいと見る。マリアンヌは戦慄しそうになった。その錠は、決して解かれていない。けれど、これにはめこまれた者は、この場にいない。ということは、やせこけてすり抜けたか、あるいは――。
(死して、死体だけが抜け出したか、だわ……)
あまりの恐ろしさに、眩暈を起しそうになりながら、ミカエルには心配をかけまいと、マリアンヌは気丈に凛呼としていた。それにしても。
(ここに住まわれていた方は、一体どんな生活を……)
その時である。
「きゃっ」
マリアンヌの足を、何者かがさらった。転んで床にたたきつけられたマリアンヌは、自分の足に絡みつく何かを認めた。それは黒い手だった。指がある。人間の手だ。禍々しく、闇から造られたように漆黒の色合いの。それがどこからか伸びてきて、自分をさらおうとしている。
「いっいやあ」
黒手はそのままずるずるとマリアンヌをさらっていく。まるで抗えぬ波に引かれるように。
「マリアンヌ!! 」
ミカエルが必死にマリアンヌの腕を引っ張るが、黒手はまるで情も微塵もなくマリアンヌの足を引きずり、いずこへかさらっていく。
マリアンヌの肌に怖気がたつ。おそらく、この手が連れていく先に、何か、いるのだ。自分を縊ろうとした、何かが。
「ミカエル、さ、ま……いやっいやああああ!!」
そのままマリアンヌの意識は失われた。
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